魔術師は二時間悩む
知らない男が目の前に倒れているとき、一体どうしたらいいのだろう。
「(婆様は、こういう時の対処を教えてくれませんでした)」
ニケは悩んだ。
生前、育ての親である婆様ことオーリアは、本能の赴くままにすぐ行動してしまうニケに、悩める時間があるときは立ち止まってたくさん考えて悩みなさいと言いつけていた。
だからニケは、即決したら怒られそうな物事は考えて悩む。
自分の意志として「助ける」ということを決定していても、それでも言いつけ通りに考え、悩んだ。「助ける」ことを決定していても、である。
ニケの生き様から、「助ける」の前に「面白そうだから」という一言がつく。少々の危険であれば本能のままに実行してしまう生き物だと気付いたオーリアは、頭を抱えながら真剣に言い聞かせた。
その甲斐あって、ニケは「悩む楽しさ」を会得する。
そうじゃない。結果が変わらないなら悩むこともたいして重要ではない。
しかし結果的に、その先の危険を察知して備えるようになったので、オーリアは以降、口煩く言うのをやめた。諦めたとも言う。
オーリアから教わったことはもう一つある。
「良い女は優しい笑顔を忘れない」。その教訓を守り、ニケはいつでもほんわりと笑みを浮かべている。
それはニケにとって、心を穏やかに冷静にする手段でもある。例え知らない男が自分の行動範囲に倒れ伏す非日常を目の当たりにしたとしても、平静を保っていられる。
心を落ち着かせて「良い女」になったなら、とるべき行動も分かってくるというものだ。
そうして笑顔と共に落ち着きを取り戻したニケがマントの下のポーチから魔物避けの香を取り出し、近くの剥がれ掛けた木の皮に引っ掛けた。
地面から飛び出した木の根に座り、温かいお茶を淹れた。一口飲んでほぅっと息を吐き出せば、心がポカポカ温まる。ニケはとっても落ち着いた。
……そこから二時間ぼんやり悩んだので、落ち着きすぎたとも言える。
ここは王都から離れた森の中。
白いローブを纏った人間が、うつ伏せで倒れているのを発見したのは約二時間前。つまり倒れた人間をそのままに、二時間たっぷり悩んだということだが、森の中に住む少女が成人した男性を助けることは相応の理由を必要とするので仕方ない。
反対要素に対して賛成要素をどれだけ挙げられるか、という己との勝負である。
ニケはまず「悩む為の要素」を探した。
オーリアがここに居たら何かと理由をつけて反対してくるはずなので、その理由に対抗するだけの意見を発しなければならない。まずは反対されそうな危険を見つけ出すため、婆様に対抗するために、その男に近付いた。
オーリアがこの場にいたら、やはりそうじゃないと天を仰いでいただろう。
「(……国の紋)」
観察してみると、その倒れた人間が王都の城の関係者であることに気付いた。手触りの良い白いローブに施された品のある金の刺繍、その模様に紛れるようにしてファスト国の国紋が刺してある。
そもそもローブ自体が凶悪な魔物から採れる高級素材が利用されて、刺繍に使われる金糸ともなると、希少価値の高さから王族や裕福な領主辺りが使うものだ。
しかし素材の金銭的な価値は、ニケには理解できない。
「無駄に刺繍の凝ったものは、お金持ちが着る服」とズレた感覚でなら正解しているが、素材的な意味で価値のあるものだとは知らない。森育ちにお金は必要ないので分からない。なんなら稀に自力で採取できてしまう素材であるため、ますます価値が理解できない。
こうした微々たる価値観のズレはあるものの、このまま森で過ごしていたら必要のない知識だ。亡きオーリアはそう思って説明を放ったが、生きていたら今頃は奥歯を噛んで説明していただろう。
頭の側にしゃがんだニケは、男の顔周りに流れる白い髪を指先で避けて、うつ伏せた顔を覗き込む。
それは白い髭を生やした老人だった。
眉間にしわを寄せ、脂汗を浮かべて苦し気に浅い息を繰り返している。どこか具合が悪いのか、見たところ服に汚れたところは無いから病気か、要因を考えつつ体を眺めた。
……ふと、違和感を覚えたニケは首を傾げる。
倒れる体を踏まないように気を付けながら、その周りをぐるぐる歩き始める。それは体というよりも、周囲の空気を眺めるような視線だった。
金色の瞳は絶えず宙を巡り、時折ふわふわと手を揺らしては何かに目を凝らす。
……宙に浮かぶ二重の円の隙間に書かれた、魔法文字や魔術式。
その一つ一つに目を通して、ニケは面白そうに微笑んだ。
―――ニケの視界には、無数の、色とりどりの『魔法円』が浮かび上がって見えている。
ニケは魔術師である。
人の身体、服や装飾品、草や木の植物、動物……魔力を持つものならば、「魔法円」として可視化して読み解くことが出来る。それは「魔術師」としての目であり、希少な才能、絶滅を危惧される人類のものである。
しかし保護の対象であるにも関わらず、その本質がどこまでも「自由」であるために、捕まえることが叶わない厄介な種である。
ちなみに、ニケは「まじゅつし」が言えない。
「(体の表面に高位の隠蔽の魔法が掛かっています。……ということは)」
魔術とは違い、魔法は使用者の意識の下に使われる。つまり倒れた男が完全には意識を失っていない、ということ。
それに気付いたニケは、どんな精神力をしているのかと驚きながらも、できるだけ足音を潜めた。今更である。
男は手足が動かず、瞼を上げることも声を出すこともできない状況であるにも関わらず、魔法が解けないように意識を留めている。耳は聞こえているのか分からないので無駄かもしれないが、ニケは念のために息も潜める。
どんな危険がある人物か分からないうちは、とにかく気を付けられるだけ気を付けなさい危機感ゼロ娘。ニケの脳内でオーリアが言っている。
しかし実行に移した行動は足音と息を潜めた程度で、危険だからと離れることはなく、興味の向くままに宙に浮かぶ魔法円を確認して歩き回った。
そうして口元に手を当てたまま、無数に浮かぶ円を確認していたニケは、一つの魔法円に目を留めて……ふ、と笑顔を忘れてしまった。
「……っ」
心臓の上辺りを見て思わず漏れそうになった声は、口に手を当てていたお蔭で発することは無かった。見間違いかもしれないと真剣な目でじっと見つめるが、やはりそうだ間違いないと目を眇める。
ニケの目の前に浮かんでいるのは、呪いの掛かった魔法円だった。
七色に揺らめく文字の色が時折黒く輝き侵食し、一瞬記される黒い魔法文字を読んでいるだけで恨みや嫉妬心に駆られる。呪いとは、掛けられたその人だけではなく、それを読んだ者すら不快にさせる効力がある。
軽く頭を振って目を逸らしたニケは、忍び足で後退した。口に当てたままだった手を離して元通り口元に笑みを浮かべてしまえば、不穏に揺れていた心が凪いでいく。
まずそこまで分かったところで、ニケは再び一息つくことにした。休憩と考える時間は大切だ。
倒れた男が見える程度の距離で、木の根に腰かけてお茶を取り出す。
男を助けたとして何の得があるのか。腐肉を好む魔物が寄らなくなることは喜ばしい。しかし、もし目が覚めて「お前が殺そうとしたのか」と疑われるのも、間違いで殺されてしまうことも不愉快である。
それでは大人になるまではと、死なないように森の中でひっそり隠れて暮らしてきた意味がない。
ニケにとって、知らない人間への興味はあまりにも大きい。
目を覚ました頃から、婆様と呼んでいるオーリア以外に会ったことがない。様々な趣向や考えを持つ人達がいることを知識として教えられ、街や人の様子を聞いてはいるが、初対面の人間を見ただけで善悪や人間性を判断することは自分にはまだ出来ない。ニケは自身をしっかり理解している。
理解しては、いる。
「(知らない誰かがどこかで死んでいるとしても、知らないから気にならない……でも見てしまったものを放置することは、簡単にはいかない)」
そういう気持ちの問題です、と自分で自分に同意して頷く。
初めて対面する難解な現状を前に、自分の心を見つけて納得した。同時にこれは大きな「助けるための賛成理由」であると、大きく深く頷く。
心配する心を持ちながらも、死の淵を彷徨う人間を前に笑顔で一服しているのはどうかと思うが、ニケにとって考えるための大切な時間であることには違いないので、それはそれである。
瀕死状態、国の紋章、婆様以外の初めての人、呪いの魔法円を初めて見せてくれたという感動。考えれば考えるほどに、ニケの中から「助けない」という選択肢が霞んでいく。
都合の良いように考えているともいえる。
そうして悩んで考えて……、現在。
微笑んだニケは、さて呪いを解くかと座っていた木の根から腰を上げた。
一通り考えたところで満足した。大満足だ。
たくさん悩んだので、きっとオーリアにも渋々許されるだろう。
そして苦し気に歪められた顔に、ニケは微笑む。
「怒られるなら、きっと一人より二人です」
ニケは魔術師である。
悩んだところで結局はやりたいことをやる、どこまでも自由な種だった。
ラディウスは、今にも切れそうな意識の糸を必死に掴んでいた。
自分の体表に掛けた隠蔽魔法に殆どの意識を向けながら、周囲への警戒も薄く張り巡らせる。手足どころか鼻も耳も利かない。もう周囲の微かな気配程度しか辿れない。
気配に気付けたとしても何が出来るわけでもないのだが、ラディウスにとって警戒はただの常装備である。
王城で受けた呪いは、完全な物では無かった。
そもそも完全な呪術というものは、ここ三百年ほど現存しない。そのため呪いの発現が緩やかで、遠くまで逃げられるだけの猶予があった。
完全ではなくとも呪術はゆっくりと身体を蝕み、全身に刺す様な痛みや、心臓や喉を握りつぶすような圧迫感を与えて苦しませるものだった。逃げたところで死ぬことに変わりは無く、ゆっくりその場で死ぬか知らないところでひっそり死ぬかの違いである。
それでも、自らを消耗品のように扱う城の中で死に顔を晒すより断然良い。何重かの魔法を組み合わせ、王城の壁を突き破り、城門を飛び越え、王都の防壁をも越えた。
城門を守る憲兵の多くは、白い鳥の魔物が通り過ぎたと警戒しながら注視する程度で、まさかそれが城のお抱え魔法使いだとは思わず、誰もが行方を追うことはしなかった。
その数秒後に連絡を貰って、やっと「あれは鳥の魔物ではなかったのか」という話がされたが、既に色々と手遅れであった。
決して警備が緩んでいたわけではない。
人が……魔法使いが、高い城壁や国の防壁を越えていくことが非常識で規格外だっただけである。
魔法を使う度に侵食の早まる呪いに、無理やり回復を掛けながら手足を動かし空を駆けた。時折霞む視界でとにかく遠くへ逃げるように、空中を蹴る。
身体を蝕まれようと遠い地を望んだのは、「死んで尚も城に居たくは無い」という、ただ一点だけだった。
いつの間に力尽きたのか、いつの間に地面に伏したのか分からない。が、かろうじて残っている意識の底で顔を上げたのは、自らの身の周りに誰かが居ると察知したからだ。
ラディウスは警戒を強めるが、身体は指一本、瞼すら持ち上がらない。かなり遠くまで逃げたつもりだったので、もし追手だとしたらかなりの力を持った魔法使いだろう。
しかし城に居た魔法使いはラディウスのみ。他にいるとしたら、魔法使いにはかなり力の劣る祈士たちだが……自分に付いてこられる奴はいないと、全身の痛みと浅くなる呼吸の中で冷静に考える。
実際ラディウスは、かなりの腕を持った世界有数の魔法使いである。彼という抑止力が居たからこそ、他国はファスト国に強く出られずに、交易でも優位に立つことが出来ていた。
「(追って来た人間に殺されるなら、それはそれで……)」
空から降ってきた槍が、自分の身体を何度も貫き、地面に縫い付けるような痛みの中で、冷静に物を考えているラディウスの精神力は異常だった。
しかし幼子ならまだしも、齢五百ほどの魔法使いであればそれが通常といえば通常である。重ねた年の分だけの経験は、単純に順応力と精神力に変わるものだ。更に言えばここ三百年程は、思考を顔に出したら足を引っ張られるような貴族社会の中で魔法使い一人生きてきた。
苦しくない振りも三百年続ければ本物だ。
とはいえ「痛みと苦しみを与えられている」という、意識からの支配である呪術には、態度に出なくとも十分に参っている。何度否定しても自分の中に洗脳するように与えられる苦痛という恐怖に、早くケリを付けてくれと、未だに歩き回る気配に向けて懇願してしまった。
しかしその気配は、ふと遠くへ去っていく。
「(あぁ……獣だったか)」
それとも自分の神経がついに機能しなくなったのか。もうどちらでもよかった。追手に捨て置かれたとしても死ぬ、獣か魔物であっても死ぬ。諦めというよりは、運命を受け入れる姿勢である。抗ってここまで逃げられた最後に、何の悔いも無い。
そして長く苦しいまどろみの中に沈んでいると、再び何かが近付く気配に意識が引っ張り上げられる。
「……、……り」
それは確かに、ラディウスの耳に聞こえた。失ったはずの聴覚が戻ったことに、諦め手放しかけていた意識を沼底から無理やり引き上げる。
もう体表に掛けていた魔法のことなど忘れて、聞こえた声に縋るような心地で手を伸ばした。
それは幼いながらにハッキリとした意志をもった、歌うような声だった。
宙に浮かぶ呪いの魔法円の手前に両膝を着いて、ニケは新しく手のひら程の円を描く。その円の中にもう一つ円を作り、二つの線の間に術式や文字を加えながら……唱えた。
「Nu・omn・ri」
ニケの描いた白い線が、魔力の籠った声に呼応するように輝きだす。書き入れる文字が、次々と黒い輝きを放つラディウスの円へと吸い込まれてゆく。吸い込まれて空になった白い円の中にまた文字を書き足して、絶えず繰り返していれば、黒い絵具に白を足していくように黒い濁りを薄めてゆく。
傍からみたら、ニケの手つきは子供がらくがきをするそれである。
黒い濁った色が薄く弱く変わってゆく様子を見て、ニケは微笑みを変えないまま思い出した。
「(洗濯物……干し忘れてましたね)」
思い出したのは漂白だった。
大したことではないし、朝に洗濯ものを洗ってからすでに半日ほど経過しているので諦めている。生乾きのままでは匂いが良くないので、もう一度洗濯して干すことになるだろう。
文字を書き入れる手を止めないまま、器用にも洗濯物に思いを馳せているその時だった。
くっ、とニケの服が軽く引っ張られた。
見れば、男の手がニケの服の端を弱弱しく掴んでいる。洗濯物を考えながら魔法円を形成することはできるが、突然に服の端を引っ張られてしまっては、円の形成を保つことはできなかった。
宙に描かれていた白い光の円は、煙を散らすようにフラ、と消える。
呪縛が少しずつ取り除かれてやっと動かせるようになったラディウスの指先は、それほど力は入っていない。ニケが立ち上がってしまえば解けるような、服に引っ掛かっているだけにも思える曖昧なものである。
しかしニケには、微かに震えながら確実に服の端を捉える指先が、縋るような動きにも見えた。
「(聞こえているのかな……)」
その指先に向けて許す様な笑顔をふんわりと浮かべて、ニケはもう一度、魔法円を形成する。片手でくるりと指を回して、もう片手は服の端へと伸ばして縋る指や手をなぞってみた。
……見た目は老人の手をしたそれは見た目通りの萎れた感触ではなく、青年のような若いものである。
やはり隠蔽の魔法は表面だけらしいと、ニケは確信する。
自らを常時隠しているとは、一体どんな人か。皴の少ない手指の感触から若作りした老人でないことは分かったが、だとしたら顔が醜いことを隠しているのだろうか。しかしそれならば老人ではなく、どこかの王子にでも似せて化ければいいものを、わざわざ老人にするのは何故か。
ニケは楽しみにふわふわと笑みを深めて、出来上がった白い魔力円を前に息を吸った。
「Nu・omn・ri」
囁くような声に反応して、再び服を引っ張る力が強まった。
じわじわと白い髭が消えて、髪の色も黒く変わっていく。視界の端でそれを確認しながらニケは魔法を唱え続ける。
縋るその指先は、もう老人のようにしわがれたものではなくなっていた。