『Dimbula』⑥
昼休み。購買でパンを買って廊下に出ると、視界の隅に白いブラウスの後ろ姿が映った。ピンと伸びたその背中が階段の方へ消えるのを見て、オレはなんとなくスマホを取り出す。
教室で待つ志賀へのチャットで『わり。戻んの遅くなるから先食ってて』
すると間髪入れずに返ってきた文の冒頭は『えー、なんだよー! まさかお前一人で他クラスの女子と昼』だったが無視してチャットアプリをキルしてやった。
階段を上って屋上に辿り着く。そうしてオレが扉に手をかけようとしたときだ。反対側から馴染みのない声が聞こえた。
「なーんか、久しぶりですよねー。麻理子先生とこうやって話すの」
高い、女の子の声だ。きっとこの学校の生徒のうちの誰かだろう。
「それは、伏見さんがバイトを始めて早く帰るようになったからでしょう」
対して答えるのはマリ姉。話し方の調子では随分親しいように感じる。
「まあ、そうなんですけどね。あたしが手伝わなくなってから、音楽準備室の片付け、大変だったんじゃないですか?」
「もともと一人でちょっとずつやるつもりだったので、大丈夫でしたよ。人手の欲しい出だしを手伝ってもらえたこともあって、つい先日、ようやく一段落したところです」
「あ、そうなんだ。よかったー」
雰囲気からして、二人で昼食を食べているのかもしれない。オレは屋上に出ていくタイミングを失い、その場で扉を背に座り込んだ。
「ところで大変といえば、伏見さんはどうでした? 受験生になってからバイトを始める許可をもらうのも、なかなか大変だったと思うのですが」
「そこはほら、頑張って先生たちにお願いしましたよ! カフェなんですけど、ちゃんとしたお店だし、そこのマスターにも一度先生と電話してもらって、そしたらわりとすんなりでした!」
「へえ……意外ですね」
「あたしの日頃の行いの結果です! それに、テニス部の顧問の先生も一声くれましたし」
「ああ、そういえば、テニス部の先生はずっと伏見さんのことを気にかけていましたね。バイトを始めて伏見さんが急に元気になったので、とても喜んでいましたよ」
すると女子生徒がまた嬉しそうに「よかったー」と笑う。
「あのとき、あたしテニスができなくなってすっごく落ち込んでたんですけど、マスターが励ましてくれたんですよ。リハビリ頑張って、大学でもう一度テニスしようって思えるくらいに」
「なるほど、そういうことでしたか」
「にひひ、そーゆーことです!」
扉の向こうで二人はしばらく笑い合っている。さらに女子生徒が重ねて言った。
「あとあたし、そのマスターのこと、好きになっちゃって」
ただしこれは、しれっと爆弾発言ではないだろうか。マリ姉の声にならない驚きがなんとなく伝わってくる。
「……まさか、その話も先生方に?」
戸惑いながらの訊き返しに、女子生徒は案外けろっとした様子で答えた。
「いや、さすがにしてませんよ? してたらたぶんバイトの許可出てないし。ここだけのオフレコです」
「オフレコって……あの、私も一応、この学校の先生なのですが……」
「わかってますけどー、でも麻理子先生は言わないでいてくれるだろうから。ってか逆に先生には、この話聞いてほしくて」
たぶんだけど、マリ姉はうなだれている。しかし女子生徒は構わず続ける。
「結構年上の人なんですよ。だからなのか、あたしのことあんまり相手にしてくれないんです」
「なっ……」
そして爆弾発言その二。
「伏見さん……あなたは無邪気に私に十字架を背負わせすぎです……」
「んえ?」
マリ姉の表情はさらに難しくなっただろうが、一方の女子生徒は、その理由にまったく気づいてなさそう。どうにか自ら立て直したマリ姉のコメントが聞こえてくる。
「いえ、まあ……お願いですから、問題は起こさないでくださいね。とりあえず相手の人には、ある程度の分別がありそうですけど」
「そうなんですよねぇ……」
相手に分別があるのはいいことだと思うのだが、女子生徒はまるで宿題の難問を前にしたときのような調子でぼやいた。そして唐突に勢いよく立ち上がって声高に言う。
「だから麻理子先生! その分別ある年上の男の人を落とす悩殺テク、どうかあたしに教えてください!」
「そんなもの私は知りませんよ。あと声が大きいです」
「えー! 先生なら知ってると思ったのに!」
いやマリ姉は絶対そんなの知らないだろう。美人でモテそうなわりには昔から妙に堅物だし。
女子生徒はがっかりと、まるで萎む風船のような声で引き下がった。
マリ姉はコホンと一つ、咳払いをし。
「そのマスターさんは、おいくつくらいの方なのですか?」
「あー、うーん……そういえばいくつくらいなんだろ。先生とおんなじくらいかな?」
「そうですか。では、高校生である伏見さんからすれば、やはり結構、上ですね」
「やっぱ、そうなんですかねー。まあわかりやすく子供扱いだしなー」
女子生徒は渋い声でひとしきりうんうん唸ったあと、急にマリ姉に向かって訊いた。
「先生は彼氏とかいないんですか?」
この人さらっとすごいこと訊く!
たまらず扉を挟んだオレのほうまでびくっと跳ねた。
「い、いませんよ」
「じゃあ好きな人は?」
しかもめちゃめちゃグイグイいく。その無邪気さは同性ゆえだろうか。
そしてこれは、オレが知りたくてもどうしてもできなかった質問だ。いや、あるいは知りたくなかったからできなかった質問かもしれない。マリ姉の沈黙が、オレの鼓動を悪戯に急かす。
「まあ……いないことも、ない、かもしれません」
「うそっ!? 誰!?」
同時に女子生徒がダッと立ち上がった。期待に彩られた声音は輝く瞳を簡単に想像させる。
一方、オレの両手には知らず知らず力がこもり、購買で買ったパンが袋の中で形を歪めた。
「言いませんよ」
「えー」
「言いません、絶対」
少し照れながら発せられるマリ姉の声。そんな声は、オレの前では一度も聞いたことがない。
「ちぇ、まあいいですけどー」とこぼす女子生徒は、発言に反して楽しそうに笑って続けた。
「ていうか、そもそもどのくらい離れてたら歳の差恋愛なんですかね?」
「それは……どうなんでしょうね。世間がそう言えば、まあ、そうなんじゃないかと」
「でもでも、みんながみんな、歳の近い人を好きになるとは限らないじゃないですか。自分の好きになった人が、たまたま自分と歳が離れてたってだけですよ? 気持ちが本物なら、全然、問題ないと思うんだけどなぁ」
「気持ち……ですか」
「そう、気持ち! 大事なのはこれ!」
女子生徒は自信満々にそう宣言する。
「マスターって、よくあたしに紅茶出してくれるんですけど、あたし、その紅茶がすっごく好きで……こんなに素敵なものが生み出せる人なら、その人も絶対素敵な人なんだろうなって思ったんです」
するとマリ姉は感嘆したような溜息をついて言った。
「……それ、すごくわかります」
「え、ホントですか? わかってくれます?」
「はい。実は私も、似たようなこと、よく思うんです。私も彼の――」
驚くほどに優しく紡がれるマリ姉の声を、しかしオレは、それ以上聞いていることができなかった。ほとんど無意識にその場から立ち上がる。
階段を駆け下りる自分の足音は荒れていた。遠ざかる二人の会話はもう耳に入ってこない。
――彼って誰だよ。
胸の中でその疑問一つが反響している。
そうだ。別にマリ姉に好きな人がいたっておかしくはない。そしてその人がどこの誰でも、マリ姉のような人に想われて悪い気はしないだろう。マリ姉だって、この先ずっと一人じゃない。いつか誰かのものになってしまう日がやってくる。誰か――オレではない、誰かの。
そのオレではない誰かのためにマリ姉は笑い、涙し、より美しく、聡明に変わっていく。そんな姿をずっとそばで見せられ続けるのかオレは。家族と一緒に紹介とかされて……ああ、きっと結婚式にも呼ばれるんだろう。でもってそのうち子供なんかも産まれたりして――。
冗談じゃない。そんなの絶対、絶対絶対、死んでもごめんだ!
オレは勢いに任せて一階まで下りると、すぐに上履きのまま校舎の外へと走り出た。中庭、廊下を突っ切ってグラウンド、校門。昼休みの喧騒を残して一人、学校をあとにする。
わかってる。オレはマリ姉より六つも年下。まだなんの力もないの高校生で、彼女を養うことはできなくて、頼りになんてならない子供。そして分別ある大人は、子供を恋の対象には見ない。だから意識されていないのは、ある意味では当然だろう。
でも、だったら……それを嘆いてばかりいても仕方がない。何もせずにただ駄々をこねているだけでは、正真正銘、子供のままだ。意識されてないならさせるまでだと、血の上った頭の中で自分自身が強く叫ぶ。
難しいことは考えない。考えるのはもうやめだ。オレはオレのできることをまず、やろう。
この気持ちをマリ姉に伝える。きっとそうすることでしか、オレは何も変えられないのだ。
一度も止まらず走り続けたオレは、帰宅直後に自室の扉を開け放った。息を整えることも忘れて部屋の隅に足を向ける。そこには、もう長く触れることなどなかったピアノが佇んでいた。
静かに伸びたオレの右手が、そいつに被り続けたカバーを取る。




