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一杯の紅茶の物語  作者: りずべす
Menu 2 『Uva』
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『Uva』④

 目が覚めたのは午後三時だった。窓に映る空は灰がかっていて、一面厚い雲に覆われている。

 部屋にいるのは俺一人だ。どうやら神沢さんは既に起きているらしい。

 俺はテーブルのノートパソコンを持って隣の部屋に移動する。室内には予想通り、キャンパスに向かって筆を握る彼女の背中があった。ツナギの上を脱いで腰で縛っている。上半身は薄手の白いキャミソールを一枚着ているだけ。それが抜けるような色白の肌と同化して見える。

「す、すごい格好してるね……」

「ん?」後ろを通り抜ける俺の方を振り返って彼女は答えた。「ああ、ちょっと暑くて」

「それツナギの意味なくない? 白のインナーに絵の具なんか付いたらもう絶対落ちないよ」

「大丈夫よ」

 大丈夫って……それはどういう意味の大丈夫? 絵の具が付かないように気をつけるから大丈夫なのか、それとも絵の具が付いても気にしないから大丈夫なのか。

 俺は溜息とともに部屋の奥の作業スペースに座り込む。プリンターを立ち上げて、その間にノートパソコンの写真データを一つ一つ確認していく。いいと思ったものをいくつか選び抜いて、必要なものにはソフトで少し手を加え、自分のSNSとホームページにアップロードする。

 こうした活動は、俺が自分の目的のために写真を撮っていることに付随する、言ってみれば手慰みのようなものだ。けれど、俺の知らない誰かが俺の写真を見て何かを思ってくれるのは、掛け値なしに嬉しいことでもある。加えて、アップロードした写真には企業が公募しているテーマに該当しているものもあって、うまくいけばいくらかの値で売れたりもする。

「今、起きたのね」

 小さな筆を小刻みに使いながら絵の微修正を行っている彼女が、ふいに言った。

「うん」俺はパソコンの画面から顔を上げる。「神沢さんはいつ起きたの?」

「十一時くらいだったかしら」

「え、それほとんど寝てないでしょ」

「私は野並くんが帰ってくる前も寝てたから。それに、これ早めに仕上げちゃいたくて」

 今、神沢さんが制作しているのは、学科の教授に頼まれたという絵のようだった。学部生を卒業して今年から大学院に通い始めた彼女は最近、自分の作品制作と並行して、こうした教授の仕事の手伝いのようなこともやっている。勉強も込みで多少の手当てももらえるらしく、バイト代わりにいいと言っていた。大学から出る奨励金と合わせて生活費の足しにするのだとか。

 一方、俺は学部を卒業しても、進学も就職もしなかった。写真は油画と違って、芸術と工学の間のようなものだ。美大の写真学科だけで学べることには限界があると、四年の在学期間を経て考えるようになっていた。

 進学も就職もしないかわりに、俺にはやりたいことがあった。それは、実を言えばもうかなり前から、それこそ大学に入るよりもずっと前から頭の片隅で密かに考えていたことだった。在学中はそのために金を貯めていて、本当は卒業と同時に行動に移せるはずだったのだが、しかし俺は間抜けなことに金の計算を少しだけ間違えていた。年間の収入が一定以上になると所得税がかかることを忘れていたのだ。それを発端として芋づる式に計算が狂った。見通しを修正し、もうしばらくそのままバイトを続けることにすると神沢さんに話したのが、今からだいたい三、四ヶ月くらい前のことだ。

 彼女は俺の決断に特に何も言及することなく、普段と同じ淡い声で「そう」とだけ言った。

 コトッ、と彼女が筆を置いた気配を感じて俺は口を開く。

「ねえ、神沢さん」

「何?」

「そういえば明日、川辺に行くっていう話だったよね?」

 確か、二週間ほど前のことだったか。ちょっと大きな荷物を持って絵を描きに行きたいから手伝ってほしいと、そう言われていたのを思い出していた。

「そのときにさ……少し、話があるんだけど」

 わずかに言い淀んだ俺の口調を、彼女が気にしたかはわからない。彼女はゆっくりと振り向いて、そのまるい瞳でこちらを見る。

「ええ、いいわよ。でも明日は、天気がちょっと合わなくて。川辺は来週でもいいかしら」

「……そっか、わかった。じゃあ俺も、そのとき話すよ」

「話のほうは明日でも……それか別に、今でもいいけど?」

 俺は少しの沈黙を挟んで答える。

「いや……大丈夫。来週でいいよ」

「……そう」

 やがて神沢さんの瞳は、俺から離れてキャンパスへと戻った。

 俺のしたい話というのを、彼女はなんだと思っただろう。彼女は俺の考えていることをまだ知らない。普通、こんなふうに切り出せば、告白か何かかと思われるのかもしれないけれど……でも、彼女はたぶん、そうでないことを知っている。

 彼女と俺に限って、そんなことは起こらない。実際、これまで四年近く一緒に暮らしてきて、間違いは一度も起こらなかった。彼女と俺は、そういう間柄ではないのだから。

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