『Uva』③
彼女は神沢沙羅といって、俺と同じ美大に通う同じ学年の学生だった。油画を専攻しており、入学当初から学科の中で噂される際立った存在だった。彼女はコンクールで頻繁に結果を残し、その絵は必ず、大学のどの生徒も通るようなメインストリートに飾られていた。しかもそのうち何枚かは、実際に買い手までついたというのだから驚きだ。
しかしもっと驚いたのは、そんな神沢さんが俺の下宿するアパートの、隣の部屋に住んでいるという事実を知ったときだった。
大学一年の秋のことだ。当時、写真学科に通う俺の部屋では、常にあちこちプリントした写真が積み上がっていた。そこから風で隣の部屋のベランダに入り込んだ数枚を、神沢さんが届けにきてくれたという経緯だった。玄関で出会った彼女はまず何よりも先に「この写真の場所に連れてってほしい」と言った。そしてその後、すぐに俺が男であることを見抜いてしまった。
いや、彼女にしてみれば、特に見抜いたという感覚すらなかったのだろう。
「え、雰囲気でわかるわよ。普通に」
これが女の格好をし始めてすぐの頃なら「はは、そうだよね」と気軽に笑ったかもしれなかったが、そのときの俺は既にメイクもネイルもファッションも一通り覚え、街角スナップまがいのものにも冷静に対応できるくらいの年季だったので動揺を隠し通すことができなかった。
「骨格とか、仕草とか? あなた綺麗だし、別にいいとは思うけど、でも男だってことは見たらわかるわ」
そう言う彼女の丸い瞳が俺の中を――俺の心というか魂というか、根源みたいなものを、あまりにも自然に見つめていたことを覚えている。彼女はとてもいい目を持っているようだった。
俺が女の格好をするのは、女になりたいからではない。自分の中にあるルーツ――綺麗なものへの憧れを満たすための、一つの手段だ。
この世界には触れられない“綺麗”が多すぎる。
例えば光り輝くアクセサリ。例えば種類豊富な化粧道具。例えば色とりどりの服や靴。それら全て、まるで遠くにある宝石。男に生まれたというだけで手にできなかったはずのものだ。
そして写真は、その手段の最たるものだと思っていた。
うねる大海や風に舞う花々とか。夜空にただ浮かぶ月や星とか。人々の行き交う街にふっと光が灯る日没とか。震えながらも困難に立ち向かう誰かの表情とか。ただ俺が俺に生まれたというだけで、凡庸な一人の人間に生まれたというだけで、手にすることのできないものたち。
そういうものでも、フレームに収めるとあたかも自分の宝箱に収めたような気持ちになる。そんな想いを胸にシャッターを切り続けて、俺は今日まで生きている。
風呂から上がった俺はジャージに着替え、バッグから取り出したコンデジを机のノートパソコンに繋いだ。処理時間の横で食器を洗い、寝る準備を済ませてベッドに向かう。マットレスの神沢さんは横になったまま微睡んでいて、また夢の中へと戻ろうとしていた。
朝、休日の街が動き出す頃、俺たちは静かに眠りにつく。
神沢さんが俺の部屋で寝起きし始めたのは、そういえばいつの頃からだったろう。玄関先で彼女と初めて話したときと比べて、そうした記憶はかなり曖昧だ。もともと部屋が隣同士だったこともあるかもしれない。気づいたら彼女は俺の部屋で生活するようになっていた。
彼女はあるときから、大学で使っている画材かなんかを少しずつ自分の部屋に置くようになった。キャンバスとイーゼル、絵の具に筆、オイルにブラシに、作業用のツナギ……彼女の部屋は次第に、広げたブルーシートの似合う立派な個人アトリエになっていった。それと同時に俺も、自室で積み上がっていた写真の束や、収納に入りきらず窮屈そうにしていた一眼レフボックス、三脚、リフレクター等の撮影具を彼女の部屋に置かせてもらった。写真関係の作業スペースとしても使わせてもらっている。今では二人のアトリエだ。
俺と神沢さんが何の取り決めも約束もなくそんな生活に落ち着いたのは、これが二人にとって効率的だったからだろう。正直、家事の手間など一人分でも二人分でもさほど変わらないから、どちらも自分に必要な家事を自分のために行い、できるときだけついでに相手の分もやるという感じで問題なく回った。そうすることで俺は写真のために、彼女は絵のために、より多くの時間を費やすことができた。
ただ、そうして二人、同じ空間で生きるようになって、脚色のない生の神沢さんを知ってなお、彼女を取り巻く異端さが薄れることはいっこうになかった。むしろそれは、彼女のことを噂だけで知っていた頃よりもさらに強まったような気さえした。
初めて首を傾げたのは、神沢さんの作った料理を何度か見るようになった頃だ。あるとき俺は、彼女の作る夕食が常に四種の料理の繰り返しであることに気がついた。シチュー。野菜炒め。目玉焼き。餃子。俺が作る日を飛ばして、朝も夜もなく必ずその繰り返しだった。
「他の料理は作らないの?」
「試したことがないわ。レシピがあれば、作れないこともないと思うけど」
彼女がしれっとそう言ったので、翌日に俺がネットから印刷したハンバーグのレシピを渡してみたところ、見本と寸分違わぬ完成品が食卓に現れた。けれどしばらくすると、彼女の料理はまた四種のサイクルに戻ってしまった。
また、神沢さんは家庭用の洗濯機を使ったことがないようだった。考えてみれば彼女の部屋がアトリエになっていくとき、そこから出てきた家具らしきものがベッド代わりのマットレスだけだったという時点で気づくべきだったのかもしれない。彼女はずっとコインランドリーで洗濯をしていて、だから家で洗濯機を使う場合は自分で洗剤を入れるのだということを知らなかった。中に衣類を入れてボタンを押すだけではただの水洗だ。洗剤の存在と、それを入れるタイミングや分量を教えたら「初めて知ったわ」と言っていた。
そうしたことがあってから、俺が神沢さんの生活ぶりを密かに観察し始めたのは言うまでもない。すると、目立たないまでも明らかな違和感がそこかしこに転がっていた。
乾いた衣類を畳んでしまうという習慣がない。そもそも彼女の部屋には衣類をしまう家具がなく、部屋の隅に小山のように置いていたのが常という話だった。しかも持っている衣類は全てかき集めても三日を凌げる程度の数しかないので、なんなら小山にすらなっていなかったとか。それを聞いた俺は、部屋にあったプラスチックチェストを一つ、彼女に貸すことにした。
掃除は、見える範囲にコロコロするクリーナーをかけるだけ。あまり部屋は綺麗にならない。
それから、彼女のスマホはもうずっと電源が入れられていないらしかった。部屋の片隅には十年近くも前の機種が放られていて、ではなぜ買ったのかといえば、電話番号を所有することに意味があるのだ、というようなことをいくつかの冗長な屁理屈や言い訳と一緒に聞かされた。
色々と無茶苦茶、というか、ちぐはぐだ。
神沢さんは、一度教えればどんなこともすぐに覚えるし、それをそつなくこなす器用さも持っている。生活能力が低いということは決してない。
しかし、それでも、彼女の生活にはやはりどこか決定的な欠落が見え隠れした。彼女の生き方は、誰か近しい人がそばで見ていなければわからないような霞がかった危うさを孕んでいる。放っておいたらそのまま緩やかに死んでいくのではないか。あるいは、いつかふと何かの拍子に空気に溶けて消えてしまうのではないか。そんな形容し難い儚さを思わせる。
彼女は、自分の食べるものに興味がない。自分の身に付けるものに興味がない。自分の暮らす空間には興味がない。彼女が興味を抱くものは絵、ただそれだけ――。
ああ、いや、もう一つだけ、あるんだった。
「……まるいものが、好きかしら」
知り合ってから神沢さんが最初に油画のコンクールで入選したときだ。お祝いに何か好きなものを。そう提案した俺に対する答えだった。
そのときは結局、外出した際に彼女が雑貨屋でたまたま目に留めた、ストレス解消に握る玉――スクイーズボールというのだそうだ――を買うことになった。コンクールの入選には到底釣り合わない安くてありふれたものだったが、彼女が自ら色や形や柄を選び、それを手にして笑っている姿はひどく貴重なもののように思えた。
まるいものが好き。神沢さんにそんな趣向があるなんて想像もしなかったが、言われてみれば、彼女の絵には必ずまるいものが描かれていたような気がした。
「まるいものが描かれているとね、人の視線はまずそこに向くものなのよ。人間はみんな、まるいものが好きだから」
まるで春の雨のように細く淡い声で彼女は言った。
「そう? 別に俺は、特にそう思ったことはないけど」
「それはきっと、まるいものに対する美しいという感覚があまりに当たり前すぎて、野並くんが気がついていないだけよ」
……そうだろうか?
「美しいっていうのは好感、共感、親和、憧れ……人がいいと思うものに対して抱く感情。本来そういうのって、その人の育った環境や経験によって変わるものだけど、でも一方で、人は生まれる前から既に先天的な美的感覚を持っているとも言われているの。それぞれの人間性とは無関係なほど要素を削ぎ落とした普遍的なもの――シンプルなものは、より多くの人に受け入れられるのよ」
「ふーん。まあ確かに、まるはとてもシンプルな形だけど」
「そう。まるは究極のシンプルで、つまりあらゆる人の美の対象。だってほら、太陽も地球もまるいでしょう? だからやっぱり、人間はみんなまるいものが好きなのよ」
彼女のまるい瞳に見つめられながら俺は、なんだか眉唾な話だ、なんて頭の中で考えていた。
とにもかくにも、それから神沢さんがコンクールで入選するたび、部屋にはまるいものが増えていった。球体クッション。風呂に浮かべる檜の香り玉。窓辺に飾る石。真っ白な傘。
その傍ら、俺も時たま小さな写真のコンクールで入選した。その際には彼女の料理サイクルに一品加えてもらうことを頼んだ。
そんなふうに彼女と暮らして、今年はもう、四度目の梅雨になる。




