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8:入り口

   8:入り口



〈騎士〉

それはカラにとって、夢の中で聞く美しい調べのような、手の届かない憧れを表した言葉だった。


――颯爽と馬を駆って化物に挑む僕は、小山ほどもある、毒火を吐くあの大蜥蜴を、微塵も怖れることはない。 僕のこの剣に、あの村人皆の運命がかかっているんだ。

 大丈夫。 僕は決して負けはしない。

 僕はこの化物を倒し、必ず、生きてまた、あの村人達の前に立つんだ。 そう約束したのだから。 例え、この戦いで命を落とすことになっても、皆の穏やかな暮らしが守られるのならば、僕の命なんか、いくら賭けたっていい。 人々の命を護ることは、騎士である僕の、成すべき当然の事なのだから――


 カラは空想の世界ではいつも、自分が騎士になった姿を思い描いていた。

 実戦の経験は当然ないので、具体的な戦の場面は上手く描写できなかったが、騎士になった自分の姿や、戦う悪領主、怪物等の描写は、言葉で上手く表現出来ずとも、絵で詳細な特徴を描き表せるほど、しっかりと頭の中に出来上がっていた。 何事にも悉く不器用なカラであったが、絵だけは器用に描きこなし、一見しただけのものでも、その対象を写実に描くことが出来た。


 憧れるだけ、空想に思い描くだけの、騎士となった自分。

 だがそれは、カラの前にラスターという本物の騎士が現れ、手を差し伸べてもらったことにより、ただの空想から実現が可能かもしれない夢――目標へと変わった。


 オーレンの鍛冶屋で、ラスターは自身のことを、ティルナの精霊王殿に仕える獣騎士だと名乗っていた。

 昔語りの中で、〈ティルナ〉という地名を聞いたことはあった。 確か、カラが好きな昔語りの英雄が、ティルナの王子の一人だった。


――課せられた、数々の苦難を乗り越えた末に王子は、この世のあらゆる理を制するという〈秘宝〉を護る、〈聖なる竜〉ナジャルーン=カイナルのもとへと辿り着く。

 王子はその智慧と勇気で、〈聖竜〉を従えさせ、この世で最も貴いとされる〈秘宝〉と、この世の何者よりも深き智慧を持つと云われた〈聖竜〉の、ふたつの至宝を得た。

 帰国を果たした王子は、後にティルナの王となり、自国のみならず、レーゲスタ全土に、等しく繁栄をもたらした名君として、現在に至るまで語り継がれている――


 憧れの英雄が治めた、大陸最古の王国であるティルナが、現実にはどのような国なのか、カラは知る由もなかった。 辛うじて知っていることと言えば、エランがレーゲスタへ降り立った最初の地であり、人々から〈原初の地〉と称される、とても神聖な国であるらしい、という程度のものだった。

 更に言えば、鍛冶屋の主人達の反応から見て、その国が、そして〈精霊王殿〉というティルナにある神殿が、相当な権威を持っているらしいことは察せられた。

 そんな特別な地の、特別な神殿に仕える騎士(しかも、騎士の中でも最高位の騎士)が、自分を弟子にしてくれると言ったのだ。

 こんな心躍るような出来事は、カラは生まれて初めてだった。

 それが、《名》と《影》を〈闇森の主〉に奪われた後でなければ、真実、どんなに良かったかと思うが、反面、あの怖ろしい事件を起こさなければ、ラスターとの出会い自体が、なかったことかもしれない。


     *


「ちょっと。 ぼーっとしてないで早く来なさいよっ」


 アルフィナの鋭いひと声で、カラは長い眠りから突然目覚めたように、はっと顔を上げた。 空想の世界から戻ると、カラはいつの間にか、巨大な建物近くの木陰に立っていた。


 キソスの町中を抜けた後、二人は西郊外の小高い丘の上を目指し、ようやく、その目的地に着いたのだった。

 丘の上は町中より空に近いためか、空気は軽やかで、爽やかな風がよく渡る。 斜面には陽の光が絶えず注ぎ、温められた地表には、地中の水が天に還る際の揺らめきが見える。

 視線を右に巡らせると、青みを帯びた黒屋根と白壁の、落ち着きあるキソスの町並みが一望できた。

 町の中央を、緩やかな曲線を描き流れるハル河の水面に陽光が反射し、砕かれた宝石が流れているかのように、キラキラと美しく輝いている。

 思わぬ絶景に見惚れていると、リソン港の汽笛の音が風に運ばれ、カラ達の立つ丘の上にまで届いた。 汽笛の音を運んだ風は、頭上の木々の葉や足下に茂る草を、ゆったりと鳴らしていく。 穏やかな優しい葉擦れの音が、カラの耳に心地よかった。

 目を閉じ、暖かな光と風と音に包まれていると、心が穏やかになってくる。

 こんなのどかな場所で、日がな一日ぼんやりできたらどんなに幸せだろうと、ふっと思った。

 だが、目を開けるとその思いは即座に打ち消される。

 なだらかな丘の半分を占める、灰色の建物。

 厳しい塀に囲まれたその建物は巨大で、ある種の威容を誇っている。

 塀に取り付けられている鉄門は、幾重にも巻かれた鎖で固く閉ざされ、人の姿はない。 陽光に照らされることで、壁面のおうとつに生じる虚ろな影が際立って見える。

 明るく心地よい風景の中に、この建物が在るというだけで、丘全体が重苦しい、不気味で荒涼とした印象に変わってしまう。

 外観が酷く荒れ果てているわけではない。

 だが、この建物を見ているだけで、カラは訳もなく嫌な気分になってくる。


「あ、えっと――ここ、どこ?」


 カラは周囲をキョロキョロと見回した。

 アルは塀により近い、陽射しの中に立っている。 その足下には、濃い影が生まれていた。 太陽は天頂にあった。 今カラが立っている木陰を出てしまうと、身を隠せる程の大きな陰は、建物の内に入らなければなさそうだった。


「キトナ大神殿の旧宝物庫。 今は中身全部、大神殿の深殿に移っているから中は空っぽ。 軽く百年は使われていない無人、の廃墟よ。 陰を探す必要はないから安心して」


 言いながらアルは、迷うことなく廃墟へ向かい歩いて行く。 「ついて来て」と急かされるので、カラも仕方なく後に従うべく、木陰から足を踏み出した。


「――……う」


 天頂から降り注ぐ陽光の白さに、瞬間、目が眩み、視界がぐにゃりと歪んだ。

 頭を振って視界の歪みを正し、足下に視線を落とすと、消えかけた蜃気楼のように、あるかないかのカラの淡い影が、心許なげに揺らめいていた。

 カラは胸元のペンダントを握り深呼吸をすると、先を行くアルの後を小走りに追った。


 アルが"宝物庫"と言った廃墟は、田舎の教会堂よりも遥かに大きく、ちょっとした神殿並みの規模があるように見えた。 石煉瓦を積み上げ築かれた表面には漆喰が塗られており、とても堅牢そうな造りである。

 使われなくなって久しいというだけあり、高い塀の石煉瓦は部分的に大きく崩れ、周囲にその瓦礫が散乱している。 近付いてよく見ると、宝物庫の天井部もまた、雷でも落ちたのか打ち壊されたように崩れていた。

 だが、それらの崩れた部分以外は、ほぼ完全な姿で残っているようだった。

 枯れかけた長い草が廃墟周辺を覆っていたが、定期的に何者かが通るのか、塀の南側面に向かい、細い獣道のような筋ができている。

 道にはなっているが、茂った草と石煉瓦の残骸とに足を奪われ、カラはとても歩き辛かったが、アルはその道を慣れた足取りでさっさと進んで行った。 崩れた塀を軽々と乗り越え敷地内に下り立つと、アルは宝物庫の大扉前まで行き、後方を振り返った。

 二足遅れて、カラは崩れた塀を乗り越え、恐る恐る敷地内へと下りて来た。


「あんた、本当にとろいわね。 あれくらいの高さの塀くらい、もう少しささっと越えられないの? いくらチビでもあんた、男でしょう?」


 ようやく追い付いたカラを、アルは容赦ない言葉で迎えた。


「――チビは余計だろっ。 アルこそ女のクセに、こんなことばっかりしてるから、ちっとも女らしく見えないんじゃないの?」


「あたしは活動的なの。 それに、あんたに女らしく見られなくたって、あたしはちっとも構わないもの」


 カラから大きく顔を背けると、アルは眼前に聳えるように立つ、巨大な黒鉄製の大扉に目を向けた。 アルに従うように、カラも視線を大扉に向けた。 扉表面には、幾種類かの獣の浮き彫りがあった。

 巨大な熊や大角鹿、五本の尾を有する狼、天を飛ぶ竜や鳳等の姿が、精緻に描かれている。 その中には、ガーランそっくりな有翼獣の姿もあったことから、これらの獣が聖獣なのだと察しが付いた。


「聖獣。 綺麗でしょう? キトナ大神殿は、五大神殿の中でも特に、聖獣の保護に力を入れていたの。 大神殿の内部には、もっとすごい聖獣達の彫像があるわ」


 浮き彫りの聖獣に見惚れているカラに付き合うように、アルも聖獣達の姿に目を向けていた。


「すごいや。 こんな彫刻、オレ初めて見た。 本当に生きてるみたいだ」


 聖獣は、神話や昔語りの中などで、神の使いとして語られることもよくあり、神殿などの柱や壁面の装飾の題材として扱われることは珍しくない。

 遥か昔には、百種近い聖獣が存在していたらしいが、現在では数えるほどの種族しか存在しておらず、殆どが絶滅したか、混血の結果、聖獣というには程遠い獣になってしまったのだと、イリスはカラに教えてくれた。

 ガーランのように完全な純血の聖獣は、現在では奇跡と言ってよい程に珍しい存在なのだとも話してくれた。


「――どうしてるだろ……」


 ラスターは、ガーランを探すとも取り返すとも言わず、カラに「無関係」だという、あまりな言葉だけを残して出て行った。

 ならば、自分でガーランの行方を探そう。

 そう決意はしたものの、カラは探し出すための一歩を、なかなか踏み出せずにいた。

 そこへ、アルの"誘い"がかかった。

 その誘いは、カラにとっては渡りに船であり、踏み出しきれなかった一歩に踏み出すきっかけを与えてくれた。

 一歩は踏み出した。 だが、その先をどうするかが、全く決まっていなかった。



「これ、開けて」


 黒い鉄製の大扉に手をかけると、アルはカラに向かい言い放った。

 見上げるばかりの巨大な扉は、屈強な男が五・六人がかりで開かねばならなそうな程、非常に重厚な両開きのものだった。


「これ……オレ一人で――開けるの?」


「他に誰がいるってのよ。 しとやかでか弱い女のあたしが、開けられる大きさに見えて?」


 先刻の言葉とは相反する言葉をしらっと口にすると、アルはカラの背を押して大扉の正面を譲り、自分は離れた後方に移動した。

 押されるままに扉の前に立ったカラは、威容を持ってそそり立つ黒い鉄の扉を、改めて仰ぎ見た。 目に映る聖獣達の美しい姿に、溜め息が出そうだった。

 聖獣の姿を追いながら視線を更に上に向けると、大扉上部に、訪れた者を迎えるように両手を広げた、非常に美しい顔貌をした人間の彫像があった。

 見上げているうちに、カラの顔を覆っていたフードは背に落ち、透けた顔が露わになった。 だが、そんなことに気を逸らされる事なく、カラは石像の優しく少し物悲しげな節目の顔に、惹き込まれる様に見入っていた。


「――っ」


 陽光を浴び、見上げ続けていたカラを、ふいに激しい眩暈が襲った。

 倒れはしなかったが、ただ真っ直ぐ立つだけに、相当の気力を要した。

 陽に照らされ立っている事が、耐え難い苦痛に感じられた。

 一日の内で一番強い昼の陽を、外套越しにではなく浴びることを、カラは長らくしたことがなかった。 そのため、陽に中てられてしまったのだと思った。

 額からは、冷たい汗が次々と滲み出てくる。


――いくら久しぶりに、まともに陽の光を浴びたからって、こんな眩暈――


 手で額の汗を拭い、何気なく視線をその手に向けると、何時にも増して淡く、頼りなげに透けていた。

 オーレンを出た頃よりも肌の色は薄くなり、指先は光に溶けて、周囲との境がほとんど分からなくなっている。 陽光に翳すとその薄れ様は更に顕著だった。

 言い知れぬ恐怖が、カラの身体を突き抜けた。

 〈闇森の主〉の呪いが、強くなっているのだろうか? そんな不安が、カラの中に生まれた。 陽に照らされているにも関わらず、身体の芯が冷え、手足が痺れていく。

 意識が次第に遠のいていく気がした。


 明るい陽光の下にいることが辛い。

 早く、影の、濃い闇の中に行きたい――。


 薄れ行く意識の、更に奥深い場所から、影や闇への思慕の念が、はっきりとした言葉となって、次々と浮かんでくる。

 まるで、今ここにいる"カラ"という自分がいなくなり、もう一人いる、新しい自分が、そのように望んでいるみたいだと、薄れ行く"カラ"は感じた。


「……嫌だ、違う。 オレは、そんな――」


 カラは慌てて胸元のペンダントを掴み、いま一方の手を柄先のオスティルに伸ばした。

 そのふたつを握り締めること以外、カラは何も思い付かなかった。 ただ、必死に、祈るように、それらを握り締めた。


「――したの? ねぇっ、どうしたのよっ?」


 鋭い声に、カラは意識を呼び戻された。

 横を向くと、背後に離れて立っていたアルが、すぐ傍でカラの顔を覗き込んでいた。

 妙に身体が揺れると思っていたら、アルがカラの腕を掴み揺さ振っていたようだった。


「ねぇ、どうしたのよ、顔色は――分からないけど、あんた、気分悪そうよ。 えっと――カラ?」


「――あ……アル?」


 自分の名を呼ぶアルの少し緊張した声に、カラはほっと息を吐いた。

 握り締めていた両掌から、暖かな力がカラの身体に流れ込んでくる気がした。 消えかけていた手に目をやると、先程より幾分、肌の色を取り戻したような気がした。


「ねぇ、どうしたのよ?」


「どうしたって――えっと、何?」


「"何?"じゃないわよっ。 あんたさっきよろけてたし、なんか辛そうに身体を屈めるから、その――だから、もしかして体調が悪いんなら、言ってよね」


 尖った口調の割に、カラを覗き込むアルの黒の瞳は怒っている時の力強さはなく、カラを気遣っていることが感じられた。 怒られたい訳ではないが、アルにあまり優しくされると、嬉しくはあったが、何だか少し落ち着かない。


「え、あ――だ、大丈夫だよ。 よろけたのは、石かなんかを踏んだんだ、きっと」


 眩暈はすっかり去っていた。

 変わらず注いでいる陽光にも、もう何も感じはしない。

 手も、透けているには違いないが、周囲とは区別が付くだけの色を取り戻している。


「よかったぁ――」


 ほっとして、カラは思わずへらへらと笑ってしまった。 すると、その笑いがアルの不機嫌を招いた。


「ふぅん? 何が"良かった"のか知らないけど、あんた。 あたしのお願いしたことは、ちゃんと聞いていたかしら? ガーランを探しに、あたしはこの扉の中に入りたいんだけど?」


「ガーラン、この中にいるのっ?」


「それを確かめるために来たの。 一刻も早く確かめたいから、扉を開けてって、さっきからあんたに頼んでいるのだけど?」


 アルの怒りをひしひしと感じ、カラは慌てて突き刺さるような視線から目を逸らすと、再び大扉を見上げ、その表面に手を当てた。

 陽が当たるためか、扉の表面は僅かに熱くなっていた。 が、しばらく触れていると、陽の熱の届かない、内側に残っていた鉄の冷たさと堅い感触が、掌を通してじわりと全身に伝わってくる。 その冷たさが、カラの頭を更にはっきりとさせた。


「あ――でも、これ。 どう見ても一人で開けられる大きさじゃない、と――思うんだけど……」


 扉の表面を撫ぜるように触れながら、カラはぼそぼそと頼りなげな声で言った。

 アルは被っていた帽子のつばを軽く上げると、大きな力強い黒の瞳でカラを睨んだ。


「あんた、馬鹿力を手にしたんでしょう? こんな時に使えなかったら、そんな力持ってる意味ないじゃないっ」


 いちいち頭にきていては限の無いアルの言葉が、今回だけは、カラをスッキリとさせた。


「あ、そうか。 そうだ、そうだよね」


 身体を覆っていた外套を肩に絡げると、カラは両手を静かに扉に押し当て、目を閉じた。

 大きく一息吐いて、気持ちを掌に集中させると、腹の底まで息を吸い込み、腕にじわじわと力を込めていった。


「――ぇえーいぃっ」


 力を入れやすいように、腹の底から声を出した。 足下の土が、扉を押そうと踏ん張るに合わせて微妙にへこんでいく。 それでもカラは気にすることなく、一歩一歩と前に足を踏み出していった。

 重い、腹に響く轟音と共に、黒い鉄の扉は、予想外の速さで開いた。

 開けてしまえば、なんてことのない重さだったが、カラは背中に軽い汗をかいていた。


「――ほんとに、本当だったのね。 あんたの得た力って」


 呆然とした声が耳に入った。 振り向くと、声の調子そのままの、呆然としてカラを見つめるアルの姿が目に入った。


「――前に、ラスターが一度だけ、初めてまみえる相手との争いに臨む際のアドバイス、を言ってくれたって言ってたじゃない? 確か"相対した者達の、己に対する視覚的評価を適切に推測、利用して、相手に隙を生じさせることが出来れば、その特異な身体能力を活かし、勝利に繋げることも可能だろう"――だっけ? 

ラスターの言う通りよ。 あんた、を見てその馬鹿力を想像することなんて、まず出来ないもの。 正直、あんたみたいな小さい身体の子供が、大岩をも動かす程の力を得たなんて、半分は嘘だろうって思ってた。 でも、本当だったのね。 疑って、悪かったわ。 凄いわよ、その力。 本当に、凄いわ!」


 始めは少し、戸惑った様子に見えたアルの顔は、言葉の最後には紅潮し、我が事のように嬉しく誇らし気な眼差しでカラを見ていた。

 そこには、カラも認める最高に綺麗な笑顔が添えられていた。

 言葉だけで聞けば、褒められているのかけなされているのか微妙ではあったが、カラはこの力を初めて、はっきりと役に立てられたことが嬉しく、そして少し照れくさかった。


 興奮が収まると、アルはしばらくその場にじっと立ち、開かれた扉の先を見ていた。

 それから何かを決心したように帽子を被りなおすと、カラの腕を掴んだ。


「この先は、どうなってるか、あたしも詳しくは知らないの。 だから……カラはここで待ってるか、帰っても――いいわ」


 視線を扉の先へと向けたまま、アルは硬い声でカラに言った。


「そ、そんなことしないよっ。 オレもガーランを探しに行く。 そのために抜け出してきたんだ。 ガーランを見つけるまで、オレもアルと一緒に行くに決まってるじゃないかっ」


 カラは憤然と答えた。 カラの答えが嬉しかったのか、アルはカラの手を握ると、カラの金の瞳を見つめて綺麗な微笑を見せた。


 扉の内に陽光は全く届かず、屋内の様子は暗い闇に沈んでよくは見えない。

 アルは下げていた雑嚢から小さなカンテラを取り出すと、慣れた手つきで携帯用の火口から灯りをつけた。

 手にした小さな灯りを前に突き出すと、アルは再びカラの手をぎゅっと握った。


「はぐれないでよ。 はぐれて、時間が経ったら、あたし、あんたのこと忘れちゃうんだからね。 絶対、離れないで――カラ」


 真っ直ぐに、前だけを見ているアルの表情は分からなかったが、カラの腕を掴むその手は硬く、小さく震えているようだった。


     ***


「ご心配には及びませぬぞ――」


 御座の奥の薄闇に向かい、現在の御座の主、キトナの大神官オリ=オナは、ゆったりと言葉を続けた。


「先頃、ティルナの聖騎士――エラノールが、このキソスに入ったとの報せが入りましてな。  その者の手足の一つを、我らが掌中に収めております。 首尾よく事運べば、エラノールを、手に入れられるやもしれませぬ」


『足りぬ――。 それだけ――で、は、まだ、足りぬ――足り、ぬ――』


 薄闇の中から漏れ出す声は、地の底から滲み出るかのように擦れ、虚ろな響きをしている。 声と声の間に、喘ぐような、浅い呼吸の音が混じる。 それは何か苦痛に耐えているようにも、怒りに悶えているようにも聞こえた。


「――承知、しておりまする。 あなた様が喰い残した者の行方も、手下の者共に捜させております。 が、しかし、同時に全てが揃うは流石に難しい。 まずは――現在のあなた様の瑕を癒すため、〈仮の血〉を用い、補修するが宜しいかと、我は思うておりまする。 新しき器を整えたところで、あなた様がその状態では、為るものも為りませぬゆえ――」


 オリ=オナは、長い白髯を梳いていた手を停めると、その中指に揺らめく黄金色の貴石に目を移し、薄く笑った。


     ***


「鈍ったな――」


 レセルの喉元に切先を突き付け、ラスターは無表情に、睨みあげる黒の瞳を見下ろした。


「――殺すがいい」



 薄暗い室内での闘いは、小一時間ほどで決着が付いた。


 室内とはいえ、その空間は広く、天井は高かった。

 床に置かれた雑多な物の配置を熟知している分、地の利はレセルにあった。

 ラスターの動きが速く、懐に飛び込まれたら防ぎ様がないことは、二十年前、騎士の最終選考試合の際に実体験で知っていた。

 速さと剣捌きでは比にはならない。

 しかし、ラスターは身体が細く身が軽い分、腕力では身体の大きなレセルに劣っている。

 力任せで勝てる相手ではないことは承知していた。 だが、間合いを保ち、懐に入り込ませなければ、勝機はある。 更に言えば、ラスターの剣は細身で華奢だった。 刃の分厚い戦斧で刀身を撃てれば、その刃は必ず折れると踏んでいた。


 だが、闘いはラスターの一方的なものだった。


 レセルがラスターとの間合いを計りつつ、じりじりと位置を移していく間、ラスターはただ静かに立っているだけだった。

 いつまでも続く睨み合いに痺れを切らし、レセルが仕掛けても、ラスターは決して剣を抜こうとはしなかった。

 間断なく打ち下ろし払われるレセルの戦斧を、鼻先一寸でかわし後方へ下がる、という動きをラスターは繰り返した。

 初めての場にも関わらず、ラスターは足下にどのような物が落ちているのかを熟知しているように、巧妙にそれらの障害物を避け、微笑を浮かべた顔をレセルに向けたまま、円を描くように室内を移動していった。

 何か謀があるかと思い、レセルが動きを止め、乱れかけた息を整えようとした時だった。


「もう、いいだろう――」


 ラスターの口から、その一言が漏れた。


 何が起こったのか分からなかった。

 気が付いた時には、まず、左頬に鋭い痛みが走り、生暖かい血が頬を伝った。 その血を拭う間もなく、次には左肩、肘、膝を皮一枚で裂かれた。

 ラスターの白い衣は、薄暗い室内でも目立つ。 目の端に白い影が過ぎるのを捉え、レセルは戦斧を薙いだ。

 斧を大きく振れば、それだけ隙が生じる。

 その隙を突かれ、右肩と脇腹を続けざまに切られた。 右肩は他の傷に比べ深かった。

 呷っていたアルコールと疲労のため、出血は眩暈を誘い、レセルの足を一瞬ふらつかせた。 そこへ、ラスターは間髪を入れず、膝へ強烈な蹴りの一撃を見舞った。

 レセルは無様に尻と手を突き、顔を上げた時には、ラスターの剣が喉元に突き付けられていた。

 右肩から脇腹に流れる血が、踏み荒らされた床に黒い染みを広げていた。

 二人の争った室内の古柱は折れ、あちらこちらの土壁には穴が開いていた。



 戦斧は、手を伸ばせば届く場所に落ちている。 それを手に、再びこの眼前の白い化物に撃ちかかるか、レセルは何故か迷いを感じていた。 迷う必要はないはずだった。


「"殺す"。 現在のそなたに、その価値がある、と思うか――」


 ラスターの声はとても平淡だった。

 レセルの瞳が激しい憎悪に燃えた。 言葉にはならぬ憤怒の光がラスターを射た。


「その目――変わらぬな」


 ラスターは微かな笑みを浮かべると、手首を返しレセルの喉元から剣を引いた。


「そなたに、私の身を預けよう。 連れて行くがいい。 そう、命じられているはずだ」


 ラスターは帯ごと剣を外すと、レセルの前に静かに置いた。

 レセルは相手の真意が分からなかった。

 完全な優位に立ち、すぐにでも自分の命を奪える状況にありながら、それを捨て、何故自ら虜になるというのか――?


「何のため――その身を預ける?」


「――目的のため」


 レセルは置かれた剣帯を手に取ると、ゆらりと立ち上がった。

 先程まで睨み上げていたラスターの顔は、見下ろす形となった。

 そこにある、どこまでも白い秀麗な横顔は、レセルの記憶の奥深くにある顔を呼び覚ました。

 決して褪せることのない、だが、二度と見ることの叶わぬ――。

 頭を振り、脳裏に映りかけたその顔をレセルは振り払った。


「目的――あの聖獣を取り戻すことか? あれが狩られた所以は、あんたも察しているのであろう。 ならば既に必要を終え、生きてはおらぬと、そうは思わんのか」


「ガーランは生きている。 それだけのことならば、ここへ、来る必要などはない」


 キソスの町に夕刻を告げるラッパの音が、遥か遠く、夕霧に滲むように響いていた。


 次回〈9:闇中を行く〉に続きます。

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