6:諍い・そして仲間
6:諍い・そして仲間
レーゲスタ大陸東北部、キトナ地方の中央にキソスの町はあり、その東郊外、フォイナという小高い丘の上に、二千有余年の歴史を誇る、白亜のキトナ大神殿はある。
第三のエラン・ユーラを守護神に、御子の親である陽の男神ソルギムと、月の女神ユルソルを併せ祀る、大陸東方最大の聖地である。
かつては東都であったキソスの町を一望できるこの場所から、大神殿の神官達は、キソスや現在の東都ルーシャンがあるキトナ地方のみならず、東方地域に現れる様々な兆しを読み解き、人々に教え、正し導いてきた。
大神殿は、〈前殿〉〈祭殿〉〈奥殿〉、奥殿に付随する〈深殿〉とからなり、一般の人々に解放されているのは、大扉から続く長大な方形の前殿、二重の柱を両側にめぐらした柱廊を間に挟み、エランの神像が坐ます〈聖壇〉が置かれる祭殿、の二殿である。
見上げるばかりの重厚な大扉をくぐった途端、燭台の僅かな灯りしかない前殿の、仄暗い、冷えた空気に包まれる。 視線の遥か先まで、等間隔に並び立つ柱の上部に灯された焔が、夜の水面に映る月灯りのように揺らめき、その場に立つ者に、それまでいた日常とは異なる、幻想の世界に足を踏み入れたかのような錯覚を与える。
静謐な薄闇に置かれた者達は、視線をひたすら前に据え、注意深く足を踏み出す。
変化の見えない、柱列の合間を数十歩進むと、燭台の焔は途切れ、代わるように、進行先に燭灯とは異なる淡い光を見出す。
更に数十歩の闇を抜けると、唐突に闇は終わり、柔らかな陽光に満たされた柱廊、それに続く、大神殿の中核となる祭殿へと行き着く。
祭殿の円形天井は遥か高く、壁面の上部により多く穿たれた窓の開口部から差し込む光が、天井部を地上より明るく見せる。
この祭殿深奥部に、大神殿の心臓ともいえる聖壇が置かれている。
前殿から柱廊、そして祭殿中央まで貫くように立てられた柱列が、祭殿入り口に立った者の視線を、自然に、祭殿正面に置かれる聖壇へと誘う。
祭殿を満たす静寂と、三方の窓から注ぎ込む光が生み出す淡い影とが、殿内に神秘的な陰影をつくり出し、訪れた者に時を忘れさせる。
祭殿聖壇の後方、東奥次扉から続く歩廊を進むと、祭殿より小規模な祈祷所である、奥殿があり、ここは神官および巫子等、大神殿に仕える聖職者専用の空間である。 この奥殿の背後には、大陸東方の神殿・教会堂に属する全聖職者の頂に座す、大神官の御座所、深殿が置かれている。
深殿には、大神官の居住空間である御座所の他、御座所から別々の歩廊でつながれた、奉献物や財宝を置いた宝物庫である〈後室〉と、託宣の秘儀が行われる至聖所である〈沈思の間〉があった。
また、御座所の隣室には、内々で大神官を尋ね来る客人が通される〈諸賢の間〉――謁見のための部屋が設けられていた。
*
「〈エラノール〉――?」
脇に控える侍童が捧げ持つ銀盆に玻璃の杯を戻しながら、老人は御座所の隣室、諸賢の間で頭を垂れている男に言葉を向けた。
薫らせた香の白い煙が、御座の間から諸賢の間まで、細くゆるりとなびいている。
高雅な香りに満たされた御座は、さほど広くはなく、室内を照らすのは、中央に置かれた御座の脇で灯される、小さな銀の燭台の二つの焔だけだった。
過度の装飾はなかったが、支柱や天蓋に施された彫刻、壁面に描かれた画は何れも精緻であり、わざわざ目を向けなければ気付かぬ蝶番ひとつひとつにまで、緻密な文様が彫り込まれている。
高い天井部を支える柱から、扉や梁を飾る小さな金具に至るまで、建設当時最高の技を以って造られたことは、その方面に明るくない者をしても十二分に感じさせる、壮麗な空間であった。
祭殿とは異なり、奥殿にも深殿にもほとんど窓はなく、支柱に支えられた高い方形の天上部はまるで光が届かず、黒く重い闇が漂い、御座の背後もまた、光が届かぬが故の薄闇が常に漂っていた。
現在の御座の主は、相当の高齢にも関わらず、声は太く肩幅はがっしりとして広い。
立てば背丈もかなりあろうことは、座っている姿からも、容易に察することが出来た。
高位を示す濃紫の艶ある絹衣に、金糸をふんだんに用いた肩衣をかけ、胸元まで伸びる白髯を、節の目立つ長い指で優雅に梳いている。
老人の背後に二つある蝋燭の灯火は仄暗く、垂れ布で御座の上部を隠さずとも、その顔をはっきりと見ることは難しかった。
「〈狩り人〉の一名が、左様申しております。 先日、聖獣グリフィスの捕獲に成功いたしましたおり、〈狩り人〉が対峙したグリフィスの主らしき者。 その者は、精霊王殿の騎士であり――〈エラノール〉であると」
「グリフィスを連れた――騎士」
「しかし、真に、そうなのでしょうか? 伝えにあるままの――〈エラノール〉など、真に存在しておりますのでしょうか?」
「それは即ち、我らが〈神〉をも信じられぬ、ということか――? 神官トマ」
御座の老人は、重く響く声で問い返した。
トマと呼ばれた五十がらみの白衣の男は、身を縮め、蝦蟇のように床に這い蹲り、ようやく、といった様子で言葉を口にした。
「い、いえ、〈神〉を信じぬなど、そのようなこと、私は、決して――」
頭を垂れたまま、トマはガサガサとしわがれた声で答えた。 小柄で白髪交じりのトマが控える諸賢の間の左右には、御座とは違い、格子飾りの付いた窓があった。 そこから、まだ低い朝の陽光が室内に射し込んでいたが、やはり高い天井と室の四隅に光は届かず、そこには御座の間同様、薄暗い闇があった。
「――〈エラノール〉」
老人は、低く笑いを漏らすと、謳うように言葉を続けた。
「レーゲスタ創世の神、エランの〈聖なる血〉の器となるもの。 ただ、その身の内に満たされる聖血を護るためだけに存在する、仮の〈器〉であり――〈種子〉となるもの」
トマはちらと後方に視線を向けると、御座に向かい姿勢を正した。
「かの者は、かつて騎士としてキトナに仕えた者であり、〈エラノール〉を見たと申しておる〈狩り人〉でございます。 腕は、確かでございます。 お許し頂けますならば、聖獣ではなく、そちらの〈狩り〉に、向かわせたく思い、拝謁を賜った次第にございます」
諸賢の間両側に並ぶ八本の柱の、一本置きには衛士が直立し、陽の光の届かぬ左列最後の柱陰に、一人の男が肩膝をつき、影に潜むように控えていた。
俯いた男の顔には、油気のない伸びた黒髪がかかり、その顔はよく見えはしなかったが、生活に疲れた者特有の、暗く重い影を纏っていた。 衣服は着古された安物のようだったが、そういった外見の様子とは無関係に、控える男の姿には一部の隙もなかった。
「現在は落ち、野伏となった――元騎士か」
無感動に老人は言い放つと、髯を梳いていた手を止め、ゆっくりと、右中指にはめられた指輪に視線を落とした。
厳つい老人の指には繊細すぎる、銀細工の指輪の中央には、薄い光を放つ金色の石が嵌め込まれていた。
「エラノールの出現。 神は、我等が望みを聴き、道を開くか。 または、我等を誑かし貶める、神の謀か――」
御座の老人は、再び低い笑いを漏らした。
「まあ、どちらでもよい。 全てを手にした時、その答えも自ずと、判ろうというものよ――」
老人は指輪の手を払うように、僅かに動かした。 諸賢の間に控えていたトマは、柱陰に控える影のような男に、肩越しに視線を投げ、行動を促した。
黒髪の男は言葉なく立ち上がると、影に融けるように、諸賢の間を出た。
***
しつこく繰り返されるノックに促され、カラはのろりと椅子から立ち上がると、扉を開けた。
廊下には、暗緑色の大きな帽子を目深に被ったアルが立っていた。
その口元はむっつりと引き結ばれ、落としている視線を少しも上げようとはしない。
カラは、心の準備ができていなかった。
謝らなくてはいけないと思っていたが、どのように切り出すか、なんと言って詫びればよいか、まだ考えがまとまっていなかった。
そんな最中の、予想外のアルからの訪問にカラは困惑し、頭は言うべき言葉を必死に探しだそうとしていたが、何もよい言葉は浮かんでこない。
「あ、あの、アル――。 僕――」
「――ついて来て」
「え、あ、あの――……」
アルの平板で無愛想な声に、カラは更にまごついた。
「馬達の餌、今日、まだなの。 厩舎の敷き藁も変えなきゃいけない。 イリスがあんたに手伝って貰えって。 中庭を通るから、念のため外套は着ておいて。 出入りの店の注文取りが、来ないとも限らないから」
言葉を言い終わらぬうちに、アルはくるりと向きを変え、階段を下っていった。 アルの背を呆然と見ていたカラも、慌てて外套を羽織るとアルの後を追った。
馬小屋は、旅籠の中庭を抜けた、イリスとアルフィナの暮らす母屋の横手にあった。
厩舎には、馬車を引く六頭の馬の他に、四頭の騾馬と三頭の驢馬、五頭の山羊がいた。
ようやく食事が貰えると知ってか、彼等はせわしなく首を振り足を踏んでは、少しでも早く餌を貰えるよう、自分の存在をさかんにアピールし、厩舎の中は大変な賑わいだった。
餌の前に、まず熊手で古い敷き藁を掻きだし、新しい藁を入れてやった。 それからようやく、彼等がお待ちかねの飼葉を、各柵内の住人のもとへと運んだ。
秋も深まり、朝晩は肌寒さを感じる気候になっていたが、働くうちに、カラは汗びっしょりになっていた。
万が一、人に姿を目撃されても誤魔化せるよう羽織ってきた外套も、馬や山羊達の前でまで着ておく必要はないと、さっさと脱いでしまっていた。
身体を動かしていると、先程までの悶々とした気分が、汗が流れるのと一緒に、少しずつだが流され消えていく。 かつて、鍛冶屋などでもよくやっていた作業だが、久しぶりに行ってみると、これはこれで楽しかった。
全部の馬や山羊達に餌をやり終えると、カラは柵の一つに腰を下ろし、厩舎内を見まわした。 すると、厩舎の一番奥にもう一頭、馬がいることに気が付いた。
他の家畜とやや離され置かれたその馬は、カラを見ているようだった。
「アル、もう一頭いる。 あの馬は? 餌、あげないの?」
「――あんたがやって」
背中を向け立っているアルから、つっけんどんな答が返ってきた。
その言いように、カラはまたちょっとムッとしたが、離れた馬の存在の方が気になり、素直に飼葉桶を手に近付いていった。
他のどの馬よりも姿形の良い、見事な黒毛の馬だった。 カラの記憶する馬の中で、群を抜いて美しく、立派な馬だと思った。
毛と同じ、深い黒茶の瞳は知的な光を湛え、鏡のように、カラの姿を静かに映していた。
「エアルース。 ラスターの馬よ」
相変わらず不機嫌なままのアルの声が、投げつけられるように、カラへと飛んできた。
しかし、馬に見惚れていたカラは、アルの不機嫌も気にならなかった。
「ラスターの馬? ラスター、馬なんか持ってたんだ。 すごいや、こんな綺麗な馬、初めて見た! すごく速そうな馬だよね? でも、なんでオーレンには乗って来なかったんだろ? 馬だったら、楽だし早いのに――」
「オーレン――オリアスに行く前、エアルースが傷を負ったから、ラスターはここに預けていったの。 危険が多いし、むしろ徒歩の方が回りやすいからって。 それまでは、何処へ行くにも必ず一緒だった。 エアルースはガーランと同じ、ラスターの大切な旅の仲間で友達で、家族なのよ」
「へぇ、そうなんだ――」
カラはエアルースの目を覗き込んだ。
穏やかな深い黒が、カラの目を見返した。
「あんた、ラスターに短剣を与えられたくせに、ラスターのこと、何にも知らないのね」
気持ちを無理矢理押さえ込んだような低い声で、アルは吐いた。
「仕方ないだろっ、ラスターは何にも話してくれないんだから――」
棘のある言葉に反論しようと、カラはアルを振り返った。
視線の先に立つアルは帽子を脱ぎ、怒ってでもいるかのように、真っ直ぐにカラを睨みつけていた。
綺麗な顔は、怒っていても綺麗なんだと、カラは驚きと感心半分でアルの顔を見た。
よくよく見ると、力強い大きな黒の瞳には、薄っすらと光る物が浮かんでいた。
「――! ア、アル、泣いて……るの? も、もしかして、あの時ぶつけた肩が痛いの? 僕、あの、本当に――……」
アルは目を丸くすると、大きく息を吸い込み腰に手をあてた。
「あんた、馬鹿じゃないの? なんだってあたしが、そんなことで泣かなきゃいけないのよ。 だいたい、泣いてなんかいないじゃないっ」
アルの強い語気に、腹立ちと戸惑いを感じながら、カラはアルの正面に向かい直った。
「だ、だって涙――。 それに、あの時、すごく痛そうに俯いてたからっ。 だから、あの……」
「あ、あれは、あんたの動きを読めなくて、避けきれなかった自分に腹が立ってただけよ。 あんたのせいじゃないわ。 だから――」
それまで決してカラから目を逸らさなかったアルが、ふいに視線を逸らせた。
「――悪かったわよ……」
顔を横に向け、アルはぼそぼそと言った。
カラは一瞬、何を言われたのか分からず、目を大きくしてアルの顔を見つめた。
「あの時は――ちょっとイライラしてて、あんたに、八つ当たりしちゃった……のよ。 あんたったら、とろとろしてるし、何にも知っちゃいないし、見ていると余計腹が立って――。 でも、我ながらみっともなかったし……あんたには――悪いことしたと思うわ」
アルフィナは時々言い淀みながらも、早口で話し通した。 その言わんとすることを理解しきれず、カラは相変わらず呆然と、アルの顔を見つめていた。
その視線に苛立ちを感じたのか、アルは軽く舌打ちをし、カラを正面から睨みつけた。
「もうっ、だから――謝ってんのよ。 悪かったって……ごめんなさいって、言ってるのよっ」
謝られているとは気付かなかったが、アルの顔が微妙に赤くなっていることは分かった。
謝られついでに、たくさんの悪口も言われたような気がしたが、アルが必死にその言葉を伝えようとしていることは、さすがのカラにも感じられた。
アルの意を解したことで、カラもアルに言うべき言葉をようやく見つけ、口にするきっかけを得たと思った。
「あ、あの、僕も――」
「あーあ、これで肩の荷が下りた」
言うだけの事を言ってスッキリしたのか、アルは大きくひとつ伸びをすると、不敵な笑みを浮かべ、カラを上目に見つめた。
「私の方が先に言ったわ」
「え? 何が――?」
何の話になったのか付いてゆけず、カラはきょとんとアルの顔を見つめた。
「イリスも言っていたでしょう? "アルも悪かった"って。 "も"ってことは、つまり、あんたにも、悪いところはあったのよ。 その馬鹿力とか、ちゃんと制御できないのは、あんたのミスだもんね? ということは、あんただって、私に謝るべき点はあるのよね」
先程までの、多少のしおらしさから一転したアルの態度と勢いに、カラは口を開けたまま、何の言葉も切り出せなくなった。
そんなカラの様子を見て、アルは少し控えめに笑うと、一方的に言葉を続けた。
「でも、私は気にしないわ。 あんたは病人だし、旅の苦労は私にだって多少は理解できるもの。 疲れていたら、判断力が落ちるのは当然だものね。 ましてや、あんたは知識も経験も少ない子供なんだから、尚更よね。 わざとではないんだし、この先こんなことがないよう、注意すればいいだけのことだわ」
言葉が早くて半分ほど聞き逃したが、カラにとって、明らかに不快で腹立たしい発言が含まれていることだけははっきりと分かった。
「な、なんだよっ。 自分ばっかり一方的に喋って。 勝手なことばっかり言って――。 僕だって、君に謝ろうって思ってたのにっ。 どうやって謝ろうかって、ずっと、考えてたのに ――」
口を開くと感情が昂ぶり、声は震え、涙が出そうになった。 しかしここで泣くと、更にアルに笑われるだけだと思った。 カラは拳をきつく握り、腹に力を入れると、懸命に声の震えを抑えようとした。
「じゃあ、仲直りしましょう?」
アルは、いつの間にかカラのすぐ目の前に立ち、白い小さな手を、すっとカラに向かい差し出した。
アルの黒の瞳が、カラの金色の瞳を真っ直ぐに見つめている。 口元には、それまでには見られなかった、優しい笑みがあった。
アルの言葉に怒っていたはずなのに、正面きって微笑まれ、手を差し伸べられると、怒りも涙も、急に何処かへ消えてしまった。
「あたしとあんた、友達になれると思うの。 正直言うとあたし、こんな性格だからすぐにケンカになって、友達、多くはないの。 あんたも、きっと少ないでしょう? あたし達、きっと仲良くなれると思うし、そうしたら、いい友達になると思うの。 でもまず、ケンカを終わらせなくちゃ、あんたもスッキリできないでしょう?」
よく分からない理屈だったが、アルフィナの目は真剣で、どこか寂しげな色をしていた。
友達――。
少ないも何も、そんな言葉で思い出す顔が、カラにはひとつもなかった。 自分をそういう言葉で紹介してくれた人の顔も、全く記憶にはなかった。
「――カラ」
カラは視線を足元に落とし、胸元のペンダントを弄りながら、ぼそぼそと短く言った。
アルはきょとんとした顔でカラを見つめた。
「"あんた"じゃなくて、僕は"カラ"だよ」
アルは一瞬呆気に取られた顔をしたが、すぐに鈴のような笑い声を上げた。 聞いているカラも嬉しくなるような、明るく、楽しそうな笑い声だった。
「そうね。 あんたは"カラ"。 カラだわ。 ラスターやイリスみたいには、あたし覚えておけないけど、忘れたら聞くわ。 いいでしょ? カラ」
「――うんっ」
自分でも単純だと思ったが、真っ直ぐに向けられるアルの、好意に満ちた笑顔が嬉しくて、つられてカラも満面の笑顔になった。
「あ、あの、それから僕、ごめん、なさい。 君に怪我させて。 それから――」
カラはおずおずと手を伸ばして、差し出されたアルの手を、ぎこちなく握った。
「ありがとう。 僕を森から運んでくれて。 助けてくれたのが、アルで、よかった――」
言いながら、カラはまた顔が真っ赤になっているだろうと思った。 ちらりと上目遣いに見ると、アルの頬も赤く染まり、一寸、戸惑っているようにも見えた。
しばらくカラの瞳を見つめると、アルはしっかりとその手を握り返し、改めて綺麗な笑顔を見せた。
「困った時は、お互い様よ。 さ、あたし戻ってお昼の支度をしなくちゃ。 カラも朝食、結局食べてないんでしょう? 部屋に戻って待ってて。 温かいシチューとパン、すぐに持って行くから。 あ、それからあんた――じゃない、カラ。 部屋を後で移ってって、イリスが言っていたわ。 母屋の空き部屋を準備するって。 ラスターの話しだとしばらくキソスに滞在するだろうから、客じゃなくて家族、としてあんたを迎えるって。 カラは、あたし達の家族になるのよ」
アルフィナは、軽く咳払いをして帽子を被りなおすと、バタバタと厩舎から出ていった。
「家族。 ――かぞく?」
アルの残した、自分には馴染みのない言葉を、カラは口の中で繰り返した。 なんだか夢の中で喋っているような気分だった。
ぼんやり、アルの走り去った中庭へ目を向けたままにしていると、横から生暖かい息に続き、大きな鼻面がカラの頬を軽く突いた。
「う、わっ。 あ、なに、えっと、エアルース、だっけ?」
エアルースは軽く上下に頭を振ると、左足で飼葉桶のある地面を数回かき、何かを要求するような態度を取った。
「え、あ、あっ、ごめんっ。 僕、君のご飯、まだ入れてなかったんだ。 ごめんよ」
エアルースは一回、カラに粗く鼻息を吹きかけると、大きな頬を擦り付けて、カラに甘えるような仕草をした。
「エアルース。 もしかしてご主人の、ラスターの匂いを、僕から嗅ぎ取ってるの? まるで、ガーランがラスターに甘える時みたいだ……」
エアルースの黒く艶やかな首筋を撫でてやりながら、カラは、気位の高い黄金のグリフィスの、主人に甘える幸せそうな姿を思い出した。
もしかしたらもう、ガーランの命は失われているかもしれない――。 そんな思いが、澱が上ヘ上へと押し出されるように、頭に次々と浮かんでくる。
ラスターに「無関係」だと言われたことのショックもあり、イリスの言葉を聞いていてもなお、悪い考えばかりが浮かび、なかなか消すことが出来ずにいた。
カラは大きく頭を振って、そんな悲観的な考えを払い落とそうとした。
「ラスターは、ガーランが死んだなんて言わなかった。 イリスさんも、ラスターが言わないうちは大丈夫だって、言ったじゃないか。 そうだよ。 まだ何にも、ちゃんとは分かってないんだ。 だったら――」
決意を固めたと同時に、腹がぐぐぅと大きく鳴った。
エアルースの飼葉桶をたっぷりと満たし、その黒い鼻面をひと撫ですると、柵にかけていた外套を羽織り、カラはシチューが待つ部屋へと、全速で駆けて行った。
次回〈7:行動〉に続きます。