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4:小さな事の始まり

   4:小さな事の始まり



『まったく、これでは昼か夜かも分からん』


 欠伸をひとつすると、声の主はぐるりと闇の中を見渡した。

 岩牢の扉の上下部分には、看守が牢内の"住人"の生存を確認するため、柵吐きの覗き窓が取り付けられており、中の住人達もまた、そこから外を覗くことが出来た。

 声の主の前にある岩牢には、まだ子供の白い鳳が入れられている。 鳳は夜目があまり利かないらしく、蹲り、ただ静かに眠っている。 その左横下段にある牢では、五尾の大猫が眼をぎらつかせながら、せわしなく威嚇の声を上げている。 さらにその左隣では、三本の角を持つ山羊が、落ち着きなく、足を踏み鳴らし、怯え震えているようだった。

 背後でも、熊だ山犬だ猿だの声がするが、後方には覗き見る窓がないため、声と臭いで判断するしかなかった。

 岩牢は三列、部分的には上下二段に分かれており、声の主は、中央列上段の住人となってしまっていた。


『それにしても、ここは糞尿臭いしうるさいことだ。 まったく、ワシもとんだ間抜けをしたものよ』


 これといってやる事もなく、声の主は大欠伸をすると、再び眠りに着こうと、身体をゆっくり横たえた。

 その時、左方遥かに、幾つかの足音が響いていることに気が付いた。

 足音が近付くにつれ、闇に置かれた鳥獣が、より激しい、悲鳴に似た声を上げ始め、じめじめとした岩壁の内は、憎悪に満ちた叫びの大鐘を打ち鳴らしたようで、騒々しいどころの騒ぎではなかった。

 足音の主達は、上手い具合に覗き窓側の通路を歩いて来ている。 しばらくすると、淡い燈芯草の灯火を先頭に、三人の男が近付いてくるのが目の端に入った。

 一人の男の手には、縄で幾重にも縛られた獣の姿があった。 灯火に照らされたその毛は、薄明かりにも鮮やかな黄金色をしている。 四足を持ちながら、その背には一対の翼がある。

 有翼の獣は、鳳から右に三列ほど空けた、大きめの岩牢に置かれるようだった。

 そこは、人間達のいう〈祭壇〉とやらに、もっとも近い牢であった。


「厳重に保管せよとのことだ。 縛呪は、通常より強力なものを施すようにせよ。 これは、これまでにない最高の収穫。 万が一があってはならぬぞ」


 白く長い髭を生やした黒衣の男が命じ、残り二人の男は、黙々と言われたままに作業を行っていく。 男達の低く呟く声と異臭が、岩牢内に重く漂い、獣達の怯えと怒りを更に煽った。 当の有翼獣は、意識を完全に失っているようだった。


『こりゃぁ、また――。 面白いのが入ってきたもんだ』


 闇の中で、声の主は、一つしかない黄緑の眼を細め、ししし、としゃがれた笑いを漏らした。


      ***


 その夜は、ぐっすりと眠ることはできなかった。

 それでも、明け方近くには一度深い眠りに落ちたらしく、目が覚めた時にはとなりの寝台は既に整えられ、部屋にはカラ一人だけだった。 ラスターがいつ寝て、いつ出て行ったのか、カラは少しも知らなかった。

 もっとも、これは野宿の時でも同じで、ラスターが寝ている姿も、衣を替える姿も、この五ヵ月、一度として見たことはなかった。

 襟の詰まった、白と青の衣に黒革の長手袋と長靴を、常にきっちりと身に着けている。

 真夏の炎天下でも、襟元ひとつ緩めず、それでも涼しげなラスターの姿は、修練を積んだ騎士であれば、驚くべきことではないのかとも思ったが、カラには、人間離れしているように感じられてならなかった。


 昨夜遅く、出先から戻ったラスターは、この旅籠の主人であるイリス――イリスミルトという目の不自由な老婦人と二人、何やら遅くまで話している様子だった。

 カラだけでなく、イリスの孫アルフィナも、話を聞きたいと申し出たが、時間が遅いとイリスに促され、寝床に入るしかなかった。


 カラはペンダントの側面の文字を指でなぞった。 寝起きなどにはこうしないと、自分の《名》の欠片である愛称すら、まったく思い出せない。 既に習慣化した行動だった。

 それから、腰にいつも付けている短剣の、柄先にある雫型の金色の石に手をやった。

 カラの瞳と同じに、自らが淡い光を放つこの〈オスティル〉という貴石と、ペンダントに彫られた《名》の文字が、カラを〈光あるこの世界〉に繋ぎ止めている。

 大切な、命綱のような御守だった。


「いい、天気になりそうだな――」


 寝台から起き出すと、カラは窓を大きく開いた。 冷たい朝の空気がさぁっと部屋に流れ込み、寝ぼけた目をしっかりと開かせた。

 まだ時間が早いためか、通りにはあまり人の姿がない。 霧がたち、向かいの建物や通りを霞ませている。 遠くに汽笛の音が聞こえた。 町の東には、ハルという大河が流れており、その西岸にあるリソン港は、大陸内陸部の都市とを行き来する旅人や商人が利用する、重要な港なのだという。 港の周辺には市場が立ち、一日数回上げ下ろしされる積荷と、その作業に従事する人足達の怒号のような掛け声とに溢れた、大変賑わいのある、キソスで一番活気ある場所なのだという。

 カラはあまり大きな町に住んだことがない。

 旅に出る前にいたオーレンは、東都と南都を結ぶ大街道から、内陸にかなり入り込んだ小さな田舎町で、人口も百人ほどだった。

 キソスも、あくまで街道沿いの一宿場町だ、とイリスは言っていたが、カラの目には、キソスは大都会に映った。

 イリスの営むこの旅籠も、三階建ての立派な石造りで、周囲に並ぶ建物も整然と並び建っている。 明るい薄灰色の壁と青みがかった黒い屋根に統一された町の色は、とても宿場町には見えない落ち着きがあり、人影少ない朝見ているせいもあるだろうが、しっとりとした趣ある風情をしていた。

 昨夜通りを照らしていた灯火は、朝の訪れと共に消され、代わりに建物の合間に射し込んできた朝日が、静かな通りを明るくしていく。


「どうしたら――いいのかな……」


 明るくなりだした空に、手をかざしてみた。

 手を透して見える空の淡い肌色の雲に、カラは小さく嘆息した。


「ガーラン、探しに行きたいなぁ。 けど、陽射し、結構あるだろうし、人、多そうだし――」


 五ヵ月の経験で、透ける身体は、上から大きな厚手の布で覆い隠せば、実は、多少は誤魔化せることが分かっていた。

 薄い布だと、カラの受けた呪いに引きずられ、被った布まで身体諸共に透けてしまうのだが、分厚い、濃い色の毛織物などは、呪いの影響は多少なりと少ないことを知った。

 ラスターが、オーレンを出る前に買ってくれた、トルサニという北方原産の羊の毛で織られた外套は、軽いのに、地が厚く丈夫で、カラの身体をよく隠してくれた。 フードを目深に被り、脱ぎさえしなければ、透ける身体の問題は、ある程度は克服できる。


 だが、身体が透けていることをなんとか隠せたとしても、《影》が無い問題は残ったままだ。


 《影》だけは、どんな厚手の布を被ろうと、濃くはならなかった。 透ける身体を、布で上手く隠したとしても、《影》がない事を隠す方法は、どうやっても見つけられなかった。

 どうやら、〈闇森の主〉から、《影》を奪い返さない限り、カラの〈影無し〉の問題は、解決しようがないようだった。

 呪いを受けて以来、カラは誰の目憚ることなく、暖かな陽の下を歩くことを、望みのひとつとしている。

 そんな希望とは矛盾しているが、いっそ今日が、陽が射さず視界の悪い、曇りか雨ならば、外套で身体を覆い隠し、外出することも可能かもしれない。 街灯の少ない町村の夜ならば、かなり気楽に歩くことが、出来たかもしれない。 だが、昨夜垣間見た様子では、キソスは、夜すらも明るい町のようだった。 もっとも、白昼に比べれば当然暗いであろうが、なんとなく、夜、この宿から忍び出ることは、難しいように感じられた。


「ラスター。 どこかを探してるのかな」


 人目があまりないのをよいことに、カラは窓枠に頬杖をつき、霧の薄くなりだした通りを見るでなしに見ていた。

 すると、見覚えのある暗緑色の丸い帽子の子供が、奥の路地から走り出てくるのが目に映った。


「――こんな早くから、何やってるんだろ。 仕入れ、ってやつかな?」


 昨晩聞いた話から、カラは何となくそう思ったものの、アルの手は何も持っておらず、妙に慌てているようにも見えた。

 アルの姿が建物の陰に隠れ見えなくなった直後、同じ路地にひとつの人影が見えた。

 外套で全身を覆い、具体的な姿が見えるわけではなかったが、その厳つい身体つきから、その人影をカラは男だと思った。

 外套のフードを目深に被った男は、通りには顔を出さず、それ以上先に進む様子も見せなかったが、アルが走り去った方角を、じっと見ていることは明らかだった。 フードの下にカラは、赤く不気味に光る目を、見たように思った。


「なんだろ、あいつ――。 そういや、周囲の様子がなんとか、言ってたっけ――」


 気味の悪い嫌悪感を、カラはその男に抱いた。 陽の射し始めた通りには出られないかのように、暗い路地の壁に張り付き、じっとアルの去った方角を見ている様は、狙いを付けた獲物を見ている蛇のようだった。

 男を注視していると、背後で扉を軽くノックする音がし、続けてイリスが盆を片手に入ってきた。


「あら。 カラ、起きていたのね。 おはよう。 昨日の晩はゆっくり眠れなかったでしょうに、もう少し寝ていなくてよかったの? 冷たい空気に当たりすぎては、また熱が戻りますよ」


 イリスの顔は、円卓の上に向けられていたが、カラがどこにいるのか、はっきりと分かっている口調だった。 昨日と同じく、流れるような動きで円卓の傍まで行くと、静かに椅子に腰をかけた。

 カラは窓の外をもう一度見た。

 男の姿は、いつの間にか消えていた。

 何か、引っかかるものを感じたものの、それが何だかはっきりとは判らず、カラは頭を掻きながらイリスの傍へと歩んだ。


「おはようございます。 あ、あの――」


「ラスターは、人に会うとかで早くに出かけたけれど、もう少しで戻ると思いますよ」


 カラが質問するか迷った問いの答えを、イリスは微笑みながら口にした。


「そう、ですか――」 


 カラは曖昧な返事をした。 カラの声に含むものを感じたのか、イリスは一瞬、伏し目に思案の表情を見せると、灰緑の瞳を上げ、カラを見つめるようにして語りかけた。


「昨夜のガーランの件で、あなたは聞きたいことがあるのでしょう?」


 イリスの少し改まった口調に、カラは身を伸ばし、穏やかに自分を見つめているイリスの顔を見た。


「え、あ、あの――はい」


 突然にその機会を得て、カラは緊張をしてしまった。 聞きたいことはたくさんあったが、いざとなると、何から聞いてよいのか分からない。 目線を落とし、しばらく考えると、おずおずと、イリスの顔に視線を戻した。


「あの……昨晩ラスターが言ってた〈狩り人〉って、なんですか? 猟師じゃないんですよ……ね? イリスさんは、知ってるんでしょう? 〈狩り人〉が何者なのか。 そいつらは、いったい、何処にいるんですか? その〈狩り人〉に狩られたら、どうなるの? ――ガーランは……殺されたの――?」


 言葉にするうちに、カラは自分の中の不安が目を覚ましていくのを感じた。 言葉を口にすればするほど、漠然とした不安が、確かな不安に変わっていく。

 イリスは、カラの問いにすぐには答えなかった。 しばらくの間、目線を窓の外に向け、やや間を置いて口を開いた。 その横顔は、変わらず穏やかなものだったが、僅かに、周囲の空気が張りつめたような気がした。


「あなたの想像通り、〈狩り人〉は猟師ではなく、ある集団に属する者達の通称。 その者達は主に、〈聖獣狩り〉という役割を、その組織の中で担っている」


「〈聖獣狩り〉って、ガーランみたいな、昔語りに出てくる珍しい獣を、狩るってことですか? でも聖獣って、すごく不思議な力を持っていてとても強いから、人間なんかでは手が出せないって、何かの話で聞いたことがある。 実際ガーランも、小さいけどかなり凶暴で、頭もすごく良くって、そんな簡単には捕まえられない気が、するんだけど――」


 カラの間の抜けた問いに、イリスは「その通りね」と、顔を緩めた。 しかし、その優しい笑顔にも、カラは強い不安を覚えた。


「つまり――その聖獣を狩ってしまえる程、〈狩り人〉は強いってこと、ですよね? ラスターは騎士で、多分、凄く強いですよね? それでも、ガーランが狩られてしまったってことは、それ以上に強いってことですか?」


 イリスは、分かるか分からないか程に頷き、何かを確認するように、カラの顔に灰緑の瞳を向けた。


「〈狩り人〉は、知謀に長け、武勇に優れた者達が数人ずつ、共に行動しているのだと言われているわ。 ――ここ数ヶ月、大陸各地で聖獣やその裔である鳥獣が、〈狩り人〉により次々と狩られているという噂があった。 そして、数週間前程から、キトナ地方、特にキソス付近で、彼等の活発な動きが見られたという情報が入っていた。 アラスターには、以前からその動静を探るようにとの要請があっていたらしいの。 そして昨夜、アラスター達は調査に出かけ――ガーランが捕らわれた」


 一旦言葉を切ると、イリスはそれまで以上にゆっくりとした口調で、話を続けた。


「わたくしには、ガーランの現状に関する確かな情報が、まだ掴めていないの。 〈狩り人〉の真の目的が何かも、憶測でしかない。 けれど、カラ。 アラスターがガーランの死を口にしないからには、傷を負っているにしろ、ガーランは生きている。 これだけは、確かなことよ」


 微笑みながら語られたイリスの言葉に、先程まで感じていた緊張は解れ、カラの声は自然明るくなった。


「本当ですか? ラスターが、そう言ってたんですか?」


 イリスは微苦笑を浮かべ、カラに向かい手を差し伸べた。 カラは一瞬どうしてよいか迷ったが、その手をおずおずと取った。


「アラスターは、何も言わないわ」


「じゃあ、なんで分かったんですか?」


 イリスは小さく笑うと、カラの手を両手で包むように握った。


「そうね。 変な話よね。 けれど、長年の付き合いで、アラスターの無言を聞くことに、わたくし自信があるのよ」


「ラスターの、無言? 無言を聞くって、なんですか?」


 いかにも不思議そうに、しかも、かなり関心を持って尋ねるカラに、イリスは笑みを浮かべるだけで、答えを口にはしなかった。


「ガーランの身が心配で、落ち着いてなんかいられないでしょうけれど、カラ。 あなたはまず、身体を治すことに、専念をしなくてはね。 もし、ガーランを探しに行きたいと思うのならば、尚更早く、元気にならなくては。 キソスの町は、結構広いのよ」


 つい先刻のカラの考えを知った上で、やんわりと釘を刺したようなイリスの言葉に、カラはどう返答をしてよいかまごついてしまった。 その間に、イリスは運んできた小瓶から小杯へ、トロトロと不味そうな液体を注いだ。

 しっかりと見直す必要もなく、昨夜と同じ薬酒であることは、独特の甘い臭い(しかし、味には少しの甘みもない)でも分かった。


「あの、それ――」


 小さく笑いながら、イリスは黒い薬酒が満たされた小杯を、そっとカラの手に握らせた。


「早く、元気になりたいでしょう?」


 イリスに優しく微笑みながら言われると、やはり「要らない」とは言えず、カラは小杯をしぶしぶ受け取った。 しかし、既にその味を知ってしまった今は、たったこれだけの量とはいえ、飲むまでにはちょっとの時間と勇気が要った。

 薬酒にむせ、カラが激しく咳き込んでいると、イリスは昨日と同じく、優しくカラの背をさすり、椅子に腰を掛けさせ、落ち着くのを待ってくれた。


「あ、あの――聖獣達は、なんで、狩られてるんですか? やっぱり、金のため?」


 咳のため、呼吸の乱れが残るカラの背をさすりながら、イリスは思い起こしながら話すように答えた。


「――〈聖獣〉と称される獣達は、現在では大変稀少な存在。 例え、その血をほんの僅かに引いているというだけでも、たいそうな値が付くという話は、よく耳にするものね。 金銭目的の可能性も、あるでしょうね」


「"可能性も"ってことは、じゃあ、それ以外の可能性も――」


 カラが言葉を言い終えないうちに、アルが昨晩と同じ勢いで部屋に入ってきた。

 その手には、暖かな湯気の上がる椀を載せた盆があった。 アルの頭の一部かと思われた、暗緑の大きな帽子は被っていなかった。


「イリス、持ってきたわよ。 朝食一人分。 今は他にお客いないんだから、下の食堂に食べに来させればいいのに。 あ、それからイリス。 スープの香草が今朝ので無くなったから、後で倉庫に取りに行くけど、他に取ってきておくものはある? ついでに持ってくるわよ? あと、買出ししておくものも教えてね、今日はリソンの市に行く予定だから」


 カラ達のいる円卓の傍に歩んでくるまでの僅かの間に、アルは一人で三人分は話した。

 イリスは、カラの顔を見て微笑すると、朝食の盆を置くスペースを開け始めた。

 アルはずかずかと円卓に歩み寄ると、持ってきた盆を無造作に置いた。

 椀のスープが数滴飛び散ったが、アルは全く気に留めていない様子だった。

 椅子の一脚を引き寄せ座ると、アルはカラの顔を真剣な眼差しで、しげしげと観察し始めた。

 アルの大きな黒の瞳に間近で見つめられ、カラは訳もなく緊張した。

 顔の火照った感じから、きっと、耳の先まで真っ赤になっているんだろうと思うと、なんとも決まりが悪かった。


「これが、ラスターの連れの子? こんな顔だったっけ? そんな気もするけど……あ、でもその金色の瞳は、覚えているわ。 それにしても、すいぶん小さかったわねぇ」


 アルは感心するように、座っているカラの上から下までを眺め回した。 それから引き結んだ口元に指を当てると、思案の素振りをみせた。


「――イリスに話は聞いていたけど、会わない時間が長くなると、《名》だけでなく、姿形まで忘れられていく呪い、だってのは本当ね。 だって、三日前に会ってから、毎日寝顔を見ていたのに、次の日にはその顔の記憶が曖昧になってたし、昨日はちゃんと、起きている状態で会って話もしたのに、名前も顔も、ぼんやりして思い出せないなんて、私にはありえないことだもの。 おまけに、呪いを受けた本人も、油断すると自分自身が何者か分からなくなっちゃうなんて、本当に笑えないわよね。 大変よね、あんた――えっと、で、名前は?」


 促すように、アルの大きな瞳が、真正面からカラの目を覗き込んだ。


「――カラ」


 悪意はないのかもしれないが、カラの触れられたくない内容を、アルは遠慮会釈なくポンポンと早口で捲くし立てる。 アルのそんな物言いに、カラはかなりムッとしていた。

 だが、アルに腹を立てながら、カラはふとあることに気が付いた。


「イリスさんはぼ……じゃないオレの名前、朝になって忘れてなかったんですか? 聞かないのに、オレの"カラ"って名前、部屋に入ってすぐに呼んでましたよね? あ、紙に書いて、置いておいたとか――」


 イリスは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに納得したように、カラに向かい、穏やかな微笑を見せた。


「わたくしは昔、大神殿で神聖文字の御守を授けられているのよ。 それには色々な力があるの。 例えば――そうね、どういえばよいのかしら――。 あなたの受けた呪いのようなものに、少しだけ、抵抗力があるの」


 カラはイリスの言葉に反応し、慌てて腰元を探った。


「――この文字ですか? 名前、朝になると自分でも忘れてるのに、ラスターは絶対忘れないの、いつも不思議だったんだけど、もしかして、これをラスターも持っているから、ラスターはオレの名前、忘れないの?」


 カラは腰の短剣を外し、刀身に彫られている五つの文字を、イリスの手に触れさせた。

 イリスはゆっくりとその表面をなぞり、頷いた。


「そうね。 わたくしのものは、これとは少し違うけれど――。 これは、より強く、大きな力を持つ神聖文字ね」


 カラは目を大きくし、イリスの顔を食入るように覗き込んだ。


「この文字を持っていると、〈闇森の主〉の呪いは消せるの? もしかして、オレの欠けることのない《名》も、わかるんですか?」


 期待に満ちたカラの声に、イリスは少し悲しげに首を横に振った。


「残念ながら、それは無理なの」


 カラの視線を受け取るように、イリスはカラの顔に視線を注いだ。


「あなたは、〈カラ〉という愛称だけでも奪われずに残ったから、わたくしは、アラスターに聞いたその愛称だけは知っているし、覚えていられる。 けれど、あなたの完全な、欠けることのない《名》は、半分以上が〈ウルド〉――オリアスでいう〈闇森の主〉が奪い去り、あなたの《影》と共に、その身の一部としてしまっている。 あなたの《名》と《影》は、既に〈ウルド〉のものとなっているの。 わたくしなどではおいそれとは手が出せない、知りようがないものなのよ。 例え他にも、わたくしのように何等かの加護で、今のあなたのことを記憶に留められる人があったとしても、それはあなたの、完全な救いにはならないでしょう。 今のあなたを記憶に留めたからといって、本来、あなたのものであるべき《名》と《影》が、あなたに戻るわけではないのだから」


 気が抜けたように、カラは肩を落とした。


「――そう……ですよね。 やっぱり、〈闇森の主〉から取り戻さないと、だめなんですよね……」


 もしかして、欠けることのない《名》を知ることができれば、抱える問題の、少なくとも半分は解決するのではないか、という淡い期待は、あっという間に崩れ去った。

 のろのろと短剣を腰に戻し、顔を上げると、アルと目が合った。 カラの横で短剣を覗き込んでいたアルは、驚きとも怒りとも付かない表情を、その整った白磁のような顔に浮べていた。


「その石――本物の〈オスティル〉だわ。 短剣だって、精霊王殿だけで作られる、貴重な神聖銀で鍛えられたものよ。 ラスター、それをあんたに与えたの?」


 アルはカラを睨みながら、突っかかるような勢いで言葉を投げつけた。


「ねぇ、どうなのよ? ラスター、それをあんたに与えたの? どうなのっ?」


「――あんたじゃなくて、カラだって、さっき名乗ったじゃないかっ」


 アルの物言いはいちいち勘に触る。 カラはアルから顔を大きく背けた。


「なによ、話をしてる途中でしょう? こっち向きなさいよ」


 アルは、カラの態度が気に触ったのか、カラの肩を掴み、自分の方へ向かせようとした。

 カラはカラで、アルのその強引な態度に腹を立てた。 少し脅かしてやろうか――と、そんな気持ちになっていた。

 イリスは二人の様子を、口を挟むことなく、ただじっと見守っていた。


「聞いてるのっ? 話をする時は、ちゃんと相手の顔を見て話しなさいよっ!」


 そっぽを向いたまま、頑として動かないカラに、アルは更に腹を立てた。 意地でもカラを自分の方へ向かせようと、更に強く、カラの肩を引っ張った。


「うるさいなっ。 アルと話すことなんかないんだよ――」


 肩を掴んでいるアルの手を、軽く、払い除けるだけのつもりだった。


 だが、加減を誤った。


 振り向きざまに出したカラの手は、アルの肩を突き飛ばすように触れた。

 アルの身体は、弧を描くように投げ飛ばされた。 カラに負けず小さなアルの身体は、軽い人形でも放るみたいに飛び、落下後も床を壁際まで滑った。

 アルの身体が浮いた瞬間、カラの頭は真っ白になった。

 アルが呻く声を上げた時、カラは意識を呼び戻された。 すぐさま立ち上がると、カラは蹲るアルの傍に駆け寄った。 アルは声を押し殺し、痛みに耐えているようだった。

 孫達の異変を感じたイリスも、既に椅子から立ち上がり歩み寄ってきていた。


「ア、アル。 アルっ――」


 落ちる際に強打したのか、アルは肩を抱え蹲ったままだった。 カラはおろおろとし、手を差し出すことも出来ず、蹲るアルをただ見ていた。

 イリスはアルの傍らに膝をつくと、様子を探るように孫娘の身体にそっと触れた。


「ア、アル、い、痛いの? ぼ、僕、力、間違えて――こんなつもりじゃ……」


 俯き蹲ったまま、何も言わぬアルの様子に気を取られ、カラはラスターが入って来たことに、全く気付いていなかった。

 ラスターは、何も言わず状況を見て取ると、アルとイリスの横に歩み寄り、片膝をついた。


「――アルフィナの状況は?」


「骨に異常はないようだから、大丈夫でしょう。 アル?」


 イリスに問われ、アルは俯いたまま首を縦に、僅かに動かした。 カラは、自分の起こした事態に動揺し、ただ呆然と床に座り込んでいた。 ラスターがすぐ傍に来ていたことも、立ち上がったことも、カラは全く気付かなかった。

 突然腕を掴まれ、立ち上がらせられた時、初めて、ラスターが眼前にいることに気が付いた。

 ラスターの青い瞳が、カラの目を見据えた。


「ラスター。 ぼ、僕――」


 乾いた音が室内に響いた。

 カラは左頬に、鋭い痛みと眩暈を感じた。


「同じ過ちを、繰り返したいか?」


 ラスターの声は、あくまで静かだったが、カラを竦ませる力があった。 顔を上げることが出来ず、カラは自分のつま先に視線を落とした。 鼻がツンと熱く痛くなり、ぱたぱたと、床に涙がこぼれ落ちた。


「僕、ちょっと脅かして、払いのけるだけのつもりだったんだ。 ラスター――ご……ごめん――」


「私に謝罪は、無意味だ」


 ラスターはそれ以上何も言わず、掴んでいたカラの腕を離した。


「――僕……」


 震えるカラの言葉の続きを、イリスがゆっくりと引き取った。


「アラスター。 カラだけを責めてはいけない。 アルの言葉が過ぎたからなの。 アルも悪かったの。 さ、立てるでしょう」


 イリスはアルを立たせた。 アルは、俯いたままで、顔を上げなかった。 飛ばされた際に乱れた髪が顔にかかり、表情は分からなかった。 普段はシャツの中にしまっていたらしい、銀細工の鎖が、アルの細い首から下がっていた。 鎖の先には、青緑色の石が、滴のように揺らめいていた。

 カラは袖で鼻をこすると、詰まった声でなんとか話しかけた。


「アル。 ご、ごめん。 僕……」


 アルは何も答えなかった。

 イリスが、穏やかな声でカラに答えた。


「大丈夫よ。 アルもちょっと驚いているだけでしょう。 あまり気にしないで」


 俯いたままのアルを促し、イリスは部屋から静かに出て行った。 カラとラスターの残った室内を、重く気まずい沈黙が満たした。


「――ごめん……なさい」


 俯いたまま、カラは小さく呟いた。 ラスターはカラを一瞥しただけで、何も言わなかった。

 カラは、アルを払った手を見つめ、唇をかんだ。


――こんなはずじゃ、なかった――


 カラは無意識に左肩をさすった。

 あの時の傷は治っている。


 けれど――


 傷跡は今も疼き続けていた。


次回〈5:苦く痛い傷〉に続きます。


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