3:新たな出逢い
3:新たな出逢い
人生を語るほど、生きているわけではないが、生きた年数に見合うくらいの苦労はしてきたつもりだった。
生きていれば色々なことが起きる。
ありがちな言葉だが、カラも実際そうだと思っていた。 先読みの能力でもない限り、一寸先に何が待ち構えているか、分からない。
前もって危険を知ることが出来ていれば、これまで数々あった嫌な出来事の少なくとも半分は、回避できたに違いない。
しかし、カラに先読みの能力はない。
向かってくる未来は、どのようなものであれ避けようがない。 であれば、自分の思いもしない事態にぶつかっても、できるだけ早くその状況を理解し、受け入れ、その中で如何に被害を最小に抑えるか、を考えることが得策だと、カラは自分に言い聞かせていた。
しかし、何故か今の状況は、なかなかどうにも理解が出来なかった。
「――痛い」
天井の比較的太い梁を見つめたまま、頬をつねってみた。 単純だが、目を覚ましているか確認するには一番手っ取り早い方法だ。
「痛い――ということは、目、覚めてるんだよね。 でも、ここ、見覚えない――んだけどな」
改めてゆっくり室内を見回したが、どこにも、他の誰の存在も確認できない。 窓の外からは時折、何が楽しいのか分からない甲高い笑い声が聞こえてくる。
ぼんやりする頭をまた軽く振ると、床についていた手を、円卓のランプを掴むように伸ばしてみた。
手を透してランプの丸い硝子シェードが見える。 その内で揺らめく焔の暖かな黄色も、手を透り抜けてはっきりと見える。
「やっぱり透けたまままだし――」
光にかざした右手を、そのまま白い壁の前に広げてみた。 壁に映し出されるはずの手の影はぼんやりとして、消え際の虹のように曖昧で、あるかないかわからない。
「なんだ、別に元に戻ったわけじゃないんだ……ちぇー……」
こんな人の多い場所にいるということは、もしかしたら普通の身体、に戻ったからかもしれない、という淡い期待が頭を過ぎったが、そういうわけではないらしい。
だが、それならば尚更、何故このような町中の、しかもこんな旅籠の一室に自分がいるのか、カラには皆目見当がつかなかった。
眠る前に目にしていたのは、色付いた森の木々だった。 幹にもたれ座った自分の横には、ラスターとガーランがいた。
しかし今、部屋のどこにも二人の姿は見当たらない。 旅といってもたいした荷物を持っているわけではないが、ラスターの白い外套も腰に帯びている長剣も、どこにも置かれているようには見えない。 ちょっと部屋を出るだけならば、どちらも不要なはずだ。
「ええっと、冷静にこの状況を考えてみると――どういうことかというと……ひょっとして、置いてかれた……とか?」
透けた手にまた目を遣りながら、カラは頭の芯がジンジンと痺れてくるのを感じた。 それに、なんだか今日は妙に喉が乾く。
ぼんやりランプの灯りを見ていると、何故か、昔のことが次々と思い出された。
仕事がのろい、使えないと、散々殴られた末に、道端に捨てられたことがあった。 あの後は、悔しさと痛みとひもじさで、一晩中物陰に隠れて泣いて過ごしたっけ――。
特に怒られも殴られもせず、無難になんとか仕事をこなしていたのに、目が覚めると、人買いに売り飛ばされていたこともあった。
あの時は、他の買い集められた子供達に、珍しくも苛められることなく、むしろ仲良くなれてちょっとだけ良かったけど、その後とんでもない先に売られて、苦労したっけ――。
自分の意思とは無関係に、自分の置かれる状況は、どんどん変わっていくものなのだと、カラは知っているつもりだった。
放り投げるように伸ばしていた足を引き寄せると、両腕でしっかりと膝を抱え込み、頭をその中に埋めた。 右腹の辺りに、硬く長い物が突っ張った。 ラスターに与えられた短剣が、腰紐に結わえ付けられたままだった。
――別にいいじゃないか。 これが初めてじゃないし。 ラスターなんて、無表情で何考えてるか分かんないし、喋んないし、喋っても何言ってるのか理解できないし。 騎士にしてくれるっていったのに、読み書き以外、何にも教えてくれないし。 ガーランだって僕のこと、嫌って相手もしてくれないし。 一人になっても、前と一緒だよ。 困ることは――多いけど、前と、一緒だ……。
頭がぼんやりして、カラは自分が何を考えたいのか分からなかった。 頭を乗せた膝が湿っぽくなり、俯いていると鼻がグズグズとして、絶えずすすらなくてはならなかった。
拳を握り、カラは軽く床を叩いた。
叩かれた床板には、拳の形そのままに浅い穴が開いていた。 もう一回、もっと強く叩いてみようか――。 そんな尖った気持ちが膨らんできて、抑えられない。
「まぁ。 窓が開いているのね。 この部屋、とても冷えているわ」
突然の声だった。
鼻をすする音に紛れてか、扉が開く音にも閉じられる音にも、全く気が付かなかった。
顔を上げると、扉の前に白髪の年配女性が、盆を片手に静かに立っていた。
予期しない来客に、カラは一瞬呆気に取られた。 老婦人の柔らかな微笑に引き込まれ、ついさっきまでの重苦しい、尖った気分が瞬間、和らいだように感じた。
気持ちが和らいだのも束の間、カラは自分の身体のことを思い出した。 透けている身体のこと(影もないこと)がばれたら、化物扱いされるのがおちだ。 罵られ殴られ蹴られるなんて、出来るだけ避けたいことだ。
カラは、慌てて身体を覆う何かを探した。 外套、毛布でもいいから大きな布が欲しかった。 だが、窓から寝台までの間には老婦人が立ち、悪いことに、カラの外套も寝台横の小机の上に置かれていた。
こうなったら、窓の外に逃げるしかないと思った。 今、通りは暗くなり、道を行く人々も、酒が入ってカラの姿などはっきり見えないに違いない。 少なくとも影のあるなしは、ほとんど関係ない明るさだ。
しかし、飛び降りるには少々高すぎた。
窓から改めて下を覗くと、どうもこの部屋は三階にあるらしく、しかも、飛び降り先は硬い石畳だ。
焦っているカラを尻目に、老婦人はゆっくりと円卓に歩み寄り、手にしていた盆を置いた。
老婦人の動きは流れるように静かで、歩くにも盆を置くにも、何一つ音を立てなかった。
逃げる場に窮しつつも、カラは滑らかな老婦人の動きに見蕩れてしまっていた。
老婦人はゆっくりと顔をカラに向けると、穏やかに微笑みながら、落ち着きある品の良い口調で話しかけてきた。
「突然入って驚かせたみたいね。 ごめんなさい。 あなたのことはアラスターから聞いています。 カラ。 さ、こちらへいらっしゃいな」
思わぬ言葉に驚き、カラは老婦人の顔をじっと見つめた。
“気品ある”という表現が、本当にぴったりな老婦人だった。
髪は総白(輝く白銀の色ともいえる)になってはいても、その涼しげな目鼻立ちは、人々の目を惹きつける魅力を十分に持っていた。 老いてなおこの美しさならば、若い頃はさぞや多くの男の目を釘付けにしたであろうことは、子供のカラにでも容易に想像の付くことだった。
歳月ゆえのほんの僅かな小皺はあるものの、つるりとした卵形の顔を豊かな白髪が覆い、後頭部でふんわりと髷に結ってある。
淡い灰色のドレスに薄紫のショールを羽織っただけの、ごく普通の女性の装いだった。
簡素な木の笄以外、何一つ飾り気のない質素な装いなのに、カラにはこの老婦人が、自分なんかとは縁のない、昔語りに出て来るどこかの国の王妃のように感じられた。
見惚れるように、その老婦人の姿を見ていると、カラはふとしたことに気が付いた。
老婦人の灰緑色の瞳は、カラのいる方角には向けられていても、その瞳は全く動かず、カラを映してはいないようだった。
「あの、目……」
おずおずと聞くカラの声に、老婦人はふんわりと微笑みながら、椅子の一脚を手で探しだし、腰掛けた。
「明るい暗いくらいはわかるのよ。 お婆ちゃんになったからではなくてね、若い時から少しずつ悪くなってしまったの。 慣れね」
カラは何となくホッとして、老婦人の側に立った。 すると、老婦人のひんやりとした指の長い手が、カラの腕をそっと握った。
「まだ熱が残っているわね。 鼻も、ぐずぐずいっている。 さ、これをお飲みなさい」
老婦人は、盆に載せてきた緑色の小瓶から、小さな杯にどろりとした液体を注いだ。 見るからに、苦そうで不味そうな黒色をしている。
「苦いけれど、よく効くの。 この薬酒を飲んだ後に、このスープを飲んで。 二日も眠りっぱなしで何も食べていないから、身体がきっと栄養を欲しがっているはずよ。 風邪の時には栄養を摂って、温かくして寝るのが一番。 それにあなた、少し痩せすぎね。 こんなに細い腕をして――。 カラ、あなたもっとお肉を付けなくちゃ」
カラは確かに小柄で、ひょろひょろと細い身体をしていたが、これでも鍛冶屋にいた時よりは多少大きくなっていた。 それでも、標準的な同年代の子供に比べたら、まだ小さいのかもしれない。 もっとも、カラは自分が正確に何歳になるかを知らないので、自分がどの程度標準的であるかないかも、はっきりと分かりはしなかった。
老婦人の穏やかな笑顔を見ていると、薬酒を飲むのは嫌だとは言えず、カラは差し出された小杯を受け取り、一気に飲み下した。
途端、喉がかっと熱くなり、痺れるような苦味が舌から口いっぱいに広がった。 涙目になり咳き込んでいると、老婦人はカラの背中にそっと手をまわし、優しくさすってくれた。
「偉いわね。 さ、座って温かいスープを召し上がれ」
カラは言われるままに椅子に腰掛けると、咳が治まるのを待って、温かなスープの皿に手を伸ばした。 煮込まれた野菜の甘い香りがカラの鼻腔をくすぐり、腹がぐぐぅ、と存在を主張した。 今の今まで、腹が空いていたなど思いもしなかった。
懸命にスープをすするカラの横に、老婦人はただ静かに座っていた。
腹が満たされてくると、老婦人に穏やかに見つめられていることが、何となく落ち着かなくなり、空になった皿を弄くりながら、カラはもじもじと言葉を探した。
「あ、あの、アラスターって、ラスター、のことですよね。 あの、ぼ……オレのこと。 ラスターに聞いてるって――」
一瞬、老婦人は驚きのような表情を見せた。
じっと、カラの顔に見えぬ目を向け、ややすると、穏やかな笑顔を見せながら、カラの問いに答えた。
「アラスターとは、古い知り合いなのよ。 だから、あなたの事情も話してくれたのね」
古い知り合いといっても、ラスターはどう見ても二十前後だ。 もしかして若く見えるだけだとしても、老婦人の子供と同年代くらいだろう。
「ラスターは、どこかに行ってるんですか? どうして、オレだけここにいるのかわかんなくって。 眠る前には森にいたはずなのに……ここ、人の多そうな場所にあるでしょう? オレ、知らない人に姿見られたらまずいのに――」
老婦人は水差しからコップに水を注ぐと、カラに差し出した。
「アラスターが、あなたを抱えてこの部屋まで運んだのよ。 自分の外套にすっぽりと包んでいたから、最初にその様子を見た孫も、その中にあなたがいるなんて、思いもしなかったって言っていたわ。 万が一、知らない誰かが目にしていたとしても、あなたの指一本、目にすることが出来ないほど、アラスターがあなたをしっかりと護っていたのだから、心配など無用ですよ。 安心なさい」
ラスターに抱えられてきた、と聞いて、カラはよけい熱が上がったような気がした。
予想外の内容に、カラは水をすするフリをしながら平静さを装い、普通に話の続きをしようと考えたが、考えれば考えるほど、言葉は上手く出てこなかった。
「え、あ、いや、でも、あの、どうやってあの森からこの街まで――ずっと、ラスターがそんな、か、抱えて歩いてきた――んですか?」
老婦人は、落ち着かない様子のカラの言葉を、微笑ましげに目を細め聞くと、穏やかな優しい口調で答えた。
「いいえ。 アラスターはまず、ガーランに命じてわたくしに状況を伝える手紙を寄越したの。 そこで、孫に馬車であの森まで迎えに行かせたのよ。 ここからあまり遠くない場所で本当によかったわ。 あなた、カラ。 運ばれてきた時は、もっと熱が高くて身体がぽっぽしていたのよ。 息も浅くなって、本当に苦しそうだった。 夜の冷え込みが厳しくなるこの季節に、あんな状態のあなたにまで野宿を強いることは危険だと、アラスターは判断したのね。 だから仕方なく、わたくしに援助を求めたのよ」
老婦人の話を聞いている途中、カラは何となく眠気を感じ始めた。 先程飲んだ薬酒の効果なのか、非常に気持ちの良い眠りの波がカラを襲い、うつらうつらとさせ始める。
そんなカラの様子を知って、老婦人はカラをゆっくりと立たせると、「横におなりなさい」と寝台へ導いた。
老婦人の穏やかな微笑には、何故か有無を言わさぬ強制力があった。
カラは素直に寝台へ行き、のろのろと上がると、枕を二つ重ねて背もたれをつくり、それに背を半分寄り掛けるようして横になった。 老婦人はそんなカラの肩口まで、そっと毛布を引き上げてくれた。
本当は、このまま今にも眠りの底に引きずり込まれそうだったが、まだ、もう少し、何でもいいから話をしていたい、と思った。
ラスター以外で、カラを奇異の目で見ず、にこやかにおしゃべりをしてくれる相手など、本当にずっといなかった。 もしかしたら、この先だって、永遠にそうかもしれない……。
考えもしなかったのに、カラの手は勝手に、老婦人のショールの端を掴んでいた。 老婦人を見上げる金色の瞳は、熱で潤んでいた。
カラの思いを察したのか、老婦人はカラの頬をそっと撫でると、円卓傍の椅子を寝台の横まで持ち運び腰を下ろすと、カラの手を握りながらゆっくりと話を始めた。
「ここは、キソスという宿場町よ。 東都と南都を結ぶ大街道沿いにあって、もう一日も歩けば東都にたどり着ける、南方から東都を目指す旅人にとっては最後の宿場町なの。 でもね、今でこそただの宿場町だけれど、昔は、この街が“東都”だったこと、カラ、あなた知っているかしら?」
老婦人の、少しからかうような意外な話に、カラは半分寝ぼけながらも興味をそそられた。
カラが知っている昔語りの中で、都が変わったなんて話は聞いた事がなかった。
「え、だって、東都はルーシャンじゃないんですか? 都、移っちゃったんですか?」
「ルーシャンの方が、陸にも海にも開けていて、特に海上貿易などにはとても便利な地だったから、遷都してしまったらしいの。 東方の人間は商売人が多くてね、少しでも効率的に発展できる地を選んだのでしょうね。 実際、キソスが都であったのは、百年足らずのことだったそうだし、昔語りの中でも、ルーシャンが東都と語られているから、あなたが知らないのも無理はないのよ。 意地悪な事を言ってごめんなさいね。 それでも、“都”の要である〈キトナ大神殿〉がこの町にあったから、都でなくなった現在でも、キソスは賑わいのある町よ。 東都ほどに賑わい過ぎず、程よい情報が集る場所。 だから、アラスターは、東都周辺に滞在する時には、時々この宿を利用してくれているの。 彼は、都のような賑やか過ぎる場所は、あまり好きではないらしいから」
老婦人の口からラスターの名を聞いて、カラはまた、不安な、もやもやとした感情が胸の奥で蠢くのを感じた。
そんなカラの様子を知ってか、老婦人はカラの手を僅かに強く握ると、カラの目を見つめるように、言葉を続けた。
「アラスターは今、少し用事があって出ているけれど、じき戻るでしょう。 あなたは置き去りにされたわけではないの。 だから、何も心配は要らない。 アラスターは必ず、カラを迎えに戻ってくるのだから、あまり悲しい考えばかりを心に描いてはいけないわ」
老婦人の言葉に、カラはほっと胸を撫で下ろしたのと同時に、気恥ずかしさを覚えた。
自分の言葉や表情に、そんなにはっきりと、ラスターがいないことへの不安や焦りが表れ出ていたのだろうか――。
カラを見る老婦人の顔は、ただ穏やかに微笑み、カラの手を握ってくれている手は、暖かく、心地よい安心感をカラに与えた。
老婦人が与えてくれた安堵が、カラの胸の奥で燻り続ける不安や気がかりを薄れさせ、カラはより強い眠気を感じた。
「僕――一人でも……一人には慣れてるんだ――けど、でも、やっぱり、ふたつめの〈願い〉……。 僕――」
カラは、自分が何を喋ろうとしているのか、自分でも分からなかった。 言葉の最後まで言い終わらぬうちに、とうとう、睡魔の誘いに抗いきれなくなり、カラはすぅっと、眠りに落ち始めた。
が、落ちようとした瞬間、階段を駆け上がり近付いて来る勢い激しい足音が、扉一枚隔てた先から響いてきて、カラの入眠を妨害した。
カラは重い瞼を擦り、扉のある方へと、今にも閉じてしまいそうな目を向けた。
向けると同時に、扉が弾けるように開いた。
猪突の勢いのまま、足音の主は部屋の扉を蹴破るように開け、力強く締めた。
そのあまりの騒々しさと、これらの音源の主が予想外の子供だったことに、カラの目は眠ることを止めた。
子供は、肩掛け鞄に背嚢にと、持てるだけの荷物を、その小さな身に負っていた。 見ようによっては、荷物の総量の方が、子供より重いのではないかと思える程の量だった。
「おかえりなさい、アル。 お疲れ様。 けれど、もう少し静かに出入りをなさい。 病人が寝ていること、知っていたでしょう?」
アルと呼ばれた少年は、ぺろりと舌を出すと、老婦人に言われた事など気にする風もなく、ずかすかと寝台の傍までやってきた。
老婦人は、苦笑しながらカラの手を一回軽く叩いて離すと、少年へ顔を向けた。
「周囲の様子はどう? 言われていたものは、揃いそうかしら?」
「このひとつ先の通りの辻辺りで、ヘンなのが二・三人うろついているのが気になったから全速で裏道駆けて来たわ。 ほんと疲れたぁ。 でも、うちは大丈夫でしょう? ああ、それと頼まれ物、今日はこれだけ。 まだ、膏薬とかの材料が揃わないわ。 あんたの足下、借りるよ。 もぅ、重いったらありゃしない」
少年は不満を言いながらも、てきぱきと、担いできた荷をカラの足下に放り出し始めた。
「空いている寝台を使えばよいのではないの? ここはカラが休んでいるのよ」
老婦人は、再び嗜めるようにアルに言ったが、アルは「だって、そっちはラスターが使うでしょ?」と、あっけらと答え、全く気にする様子なく作業を続けた。
カラの目は自然、少年に引き付けられた。
――大きなカボチャ、被ってるみたいだ。
アルは、鍔のある大きな半円状の帽子を被り、顔の上半分は帽子の陰に隠れて見えなかった。 だが、見える下半分の横顔と背格好から、カラと大差ない年齢だろうと思われた。 シャツの白以外は、帽子とベストは暗緑、ズボンは煤のような黒と、どれもが地味な色合いで、他人から譲られたものなのか、丈直しはしてあるものの、どうにも大きすぎるようにカラには思えた。
右肩の荷は衣類が纏められ、背嚢には、ぎゅうぎゅうに詰められた薬草が入っているようだった。 左手の荷袋には、新しい短剣や縄・携帯の食料など、実に雑多な品々が取り揃えられていた。
状況が掴めず、カラはただ呆然と、荷を解き放り出すアルを見ていた。 その視線に気付いたのか、アルは作業の手を停め、カラの枕元についと近寄った。 腰に手を当て、大きな帽子の陰から、カラの上から下まで、じっくりと値踏みでもするように見回した。
「イリス、この子。 本当に〈オスティル〉と同じ色の瞳なのね。 こんな、真っ黒髪に金の瞳なんて、なんか変ね。 それに、面白いわ。 こんなに透けちゃって、まるで色硝子みたいだ。 影もあるのかないのかわかんないわ。 本当に〈ウルド〉、えっと、あんたのいたオリアスでは〈闇森の主〉っていうんだっけ? そいつに取られたんだ――ええっと、で、あんたの名前、何だっけ? えっと、聞いたのに……うん、もうっ、思い出せないわっ。 記憶力には自信があるのに、まったく、《名》を覚えておけない呪いを受けたなんて面倒ね。 居合わせた相手がラスターでなかったら、あんた、今頃本当に完全な《名》無しになって、〈闇の世の住人〉になってたのよねぇ」
自分と大差ない年齢の、しかも見ず知らずの相手に、訳の分からないことを頭の上からポンポンと言われ、カラは何となく面白くなかった。 しかし、アルという少年はお構いなしに質問を繰り返した。
「で、あんた何ていうの? 《欠けることない名》は奪われていても、取りあえず愛称だけは残ってるって聞いた。 ね、その愛称は何? あ、それとも、自分でも忘れてしまうって話だから、もしかして忘れちゃったとか?」
「――カラ」
ムッとしながら、カラもつっけんどんに答えてそっぽを向いた。 その答え方が気に触ったのか、アルも腕を組んで、形のよい唇をへの字に曲げた。
カラの気持ちを知ってか、老婦人がのんびりと話の方向を変えていった。
「あら、そういえば、わたくし、あなたにまだ名乗っていなかったわね。 ごめんなさい。
わたくしの名は、イリスミルト、というの。孫や周囲の人はイリスと呼んでいるわ。 そして――アル」
腕を組んでぶすくれている、帽子の少年を自分の元へ呼び寄せると、イリスはまたにこやかに言葉を続けた。
「この子が孫のアルフィナ」
ゆったり話すイリスの前に立って、アルフィナは改めてカラを見据えた。
「え、あ――じゃあ、オレ達を森まで馬車で迎えに来てくれたっていう……」
イリスはうなずいて「あなたと同じ年くらいだから、仲良くしてやってね」と微笑んだ。
カラは、森へ迎えに寄越したという孫が、まさかこんな子供だったとは思ってもいなかった。
少しばつの悪さを感じながら、恐る恐るアルフィナと呼ばれた少年に視線を向けた。
全貌ははっきりと分からないが、祖母と同じく整った顔をしているようだった。
するりとした小さな卵形の輪郭に、筋の通った鼻と唇、睫毛の長そうな色の濃い大きな瞳が、帽子の影に隠されていても見て取れた。
とりわけ目を引く大きな瞳は、持ち主の意志の強さを、相対する者にひと目で感じ取らせる。 瞳の大きさだけならばカラも負けはしないが、この力強さは、大きさ以上に、アルという存在の印象を強くしている。
アルフィナは祖母の傍を離れ、円卓の椅子に座ると、カラの飲みかけだった水を一気に飲み干し、口元を拭いながら自己紹介を続けた。
「さっきから聞こえていたかと思うけれど、普通はアルで通っているわ。 うちの旅籠の仕入れ係兼出納係兼看板娘――で、イリスのたった一人の可愛い孫娘。 この冬で十二よ」
早口の、アルの言葉全てを聞き逃さないことは難しかったが、最後のふた言だけは、カラの耳にしっかりと引っかかった。
「え? あの――アル……フィナさんは看板、娘でイリスさんの孫、娘、ってことは、ひょっとして、女……?」
カラの質問に、イリスは笑い、アルは椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がった。
「あたしのどこが男に見えるってのよっ。 あんた“アルフィナ”って名前、聞いてなかったの? ほら、髪だって長いし、ちょっと荒いけど、女言葉使ってるし、どう見たって女の子じゃない!」
アルは被っていた帽子を脱ぎ捨て、三つ編みにして帽子の内にしまいこんでいた濃茶の長い髪を、付き付けるように、カラにしっかりと見せつけた。
カラは思わず、目を倍は見開いた。
見たこともないような美少女だった。
鍛冶屋の娘フォーリンも、三つ編みをした可愛いらしい娘だった。 しかし、露わになったアルの顔は、それ以上に際立っていた。
初夏の陽光のように、キラキラと輝くその顔立ちは、とても華やかで、彫刻のように完璧な造形をしていて、それは既に美貌といって差し支えなかった。
睫毛の長い、大きな黒の瞳が、カラの金の瞳を射るように見据えている。
アルの顔から目を逸らせず、カラは蛇に睨まれた蛙よろしく、身動きひとつ出来ずに口をぽかんと開けていた。
まるで騙まし討ちをされた気分だった。
アルが女の子だということは、どう見ても疑いようはなかった。
それでも、何となくカラは、素直に自分の勘違いを誤る気にならなかった。
「ふ、ふんっだ」
腹に力を入れ、ようやくアルの顔から目を背けると、カラはなるべくぶっきらぼうに言った。
「名前だけじゃ分かんないし、髪なんて、男でも長い奴いるよ。 見た目だって、女より女らしい男だっているし、その格好、どう見たって男じゃないか」
「何ですってっ! チビのくせにっ」
カラは思わず寝台から立ち上がり、ムキになってアルの言葉に応戦していた。 熱も眠気も、すっかり何処かへ吹き飛んでしまった。
「ちっ、チビはお互い様じゃないかっ! ちょっと僕のほうが小さい――かもしれないけど、自分だってチビじゃないかっ」
アルは、ふふんと鼻で笑った。
「あんた、さっきまで自分のこと“オレ”って言ってたけど、最近言い直そうとし始めたばかりでしょ? “僕”の方が言い慣れてる感じよ」
「う、うるさいなっ。 言い方なんてどうだっていいだろうっ」
「そうね、でもあんた。 そのチビ女の操る馬車に乗せられてこの宿にまで運ばれたのよ。 あんた、あの時ウンウンうなってたわ。 ラスターはもちろんだけれど、あたしがいなかったら、あんた、いまごろ森の中で凍え死んでたかもしれないのよ? 感謝されこそすれ、そんな言い方はないんじゃない? ま、もっとも、あんたは意識がなかったから、仕方ないかしらね」
ポンポンと出てくる、アルの言葉の勢いに押され、カラはパクパクと口を動かすしか出来なかった。 そんな二人の様子を、イリスは穏やかに見守っていた。
カラとアルの言い争いが、カラの敗けで終わろうとした頃、すっと部屋の扉が開き、ラスターが入ってきた。
アルはぱっと目を輝かせ、ラスターに近付こうとしたが、イリスは手で孫の動きを制した。
「ラスター、お帰り――」
カラは、視線を合わせないラスターの背に、何とか言葉をかけた。
無言のまま外套を脱ぎ、腰の長剣をはずし寝台の上に置くと、ラスター自身も寝台に腰を下ろした。 視線を、膝の上で組んだ手に落とし、表情はよく分からなかったが、明らかに普段とは違っている。 衣は所々擦れて汚れ、幾分疲れているようだった。
何も言わず座るラスターを見ているうちに、カラは大きな物が欠けている事に気がついた。
「ねぇ、ラスター。 ガーランはどこに行ったの? 一人で夜空の散歩――してるの?」
ラスターは何も答えなかった。 ただじっと、物思うように視線を落とし、座り続けた。
ランプの焔の揺らめきに合わせ、壁に映し出される影が小さく揺れた。 その動きに誘われたかのように、ラスターはつっと立ち、窓辺に寄り暗い夜の空を仰ぐと、初めて言葉を発した。
「ガーランは――狩られた」
カラも、その場にいるイリスもアルも、一様に驚き、互いの顔を見合わせたが、言葉は誰も持たなかった。
「このキソス近隣に〈狩り人〉が出ると、耳にはしていた。 その事実を探るつもりだったが、見誤っていた」
カラは「おや」と思った。
ラスターが自分の質問に答えるなんて、滅多にないことだった。 だが、ラスターは相変わらず無表情で、ガーランの事を、悲しんでいるようにも苦しんでいるようにも、カラには見えなかった。
「〈狩り人〉って、猟師のこと? ガーラン、た、食べられたり、毛皮売られたりとかするの? そんなの、あんまりだ。 ねぇ、助けられないの?」
言葉に詰まりながら、カラはラスターの顔を覗き込んだ。
アルも、不安そうに二人の会話に耳を傾けている。
「決まっている――」
何が、とは聞けなかった。
一瞬、カラはラスターの口許に、微かな変化を見た。
笑っている。 そう、感じた。
ランプの焔がまた、ゆらりと揺れた。
白い壁に映る影もまた、不安気に揺らいだ。
次回〈4:小さな事の始まり〉へ続きます。