2:見知らぬ街
2:見知らぬ街
十の月に入り、過ごしやすい爽やかな天気が続き、旅人にとって実によい季節となった。
夏の厳しい陽とは違い、この時期の陽光はまろやかで柔らかい。 さらに、紅に黄に色付いた木々の葉が、目を楽しませてくれる。 春先と並び、旅には最高の季節かもしれない。
現在旅をしているキトナという地方は、旅立ちの前まで住んでいたオリアス地方より、かなり北に位置する。
同じ十の月でも、オリアスではまだ暑さで汗ばむことが多く、木々もまだ青々としていたものだ。 場所が違うと、季節もずいぶん違うものだと、感じずにはいられない。
澄んだ青空の下、森の動物達は隠れることもせず、陽の光の心地よさを楽しんでいた。
おそらく、もうひと月もすると木々の葉はすっかり落ち、冷たい冬の風ばかりが、大地を嘗めるように走りだす。 それまでの限られた幸せな時間を、如何に楽しむか、彼等はよく知っている。
オーレンという町の鍛冶屋で下働きをしていた頃、午前の仕事が終わった僅かな空き時間に、自分もよく人目のない気に入りの場所に座り込み、陽の光を思う存分に浴びていたことを思い出した。
「けっこう、贅沢な時間だったんだよな、あれって……」
がっくりと頭を落とし見た自分の影は、あるかないか分からないほどに薄い。
木の葉の茂る森の中を歩いているとはいえ、陽の光は葉の間をすり抜け、自分の身体の上にも注いでいる。 それなのに、土の上には木々の枝葉の影ばかりが目立っていた。
〈魔物の王〉とも言い伝えられる〈闇森の主〉と取引をし、《影》を奪われて以来、どんなに照り付ける陽の下でも、影はほとんど生まれなくなった。
命の有る無しに関わらず、この世界に存在するものは、等しく、光の下では自分だけの《影》を持つものだ。
言いかえれば、《影》を持たぬものは、少なくとも一般的な人々にとっては、あまり普通の存在とは見なされない。
おまけに、《影》を失うに併せ、身体は色硝子のように透けてしまった。 辛うじて色が残っているお陰で、輪郭が多少ぼやけつつも、人間の姿を保って見えるが、自分の身体を透してその先の景色がはっきりと見える、というのはあまり気持ちの良い状態ではない。
自分でも気持ちよくないのだから、他人が見たら、はっきり言って不気味な存在だろう。
故に、旅人が使う普通の街道ではなく、人目のないこの森の中を歩いている次第である。
オーレンを出てからの旅暮らしも、もう五ヵ月目に入っていた。
鍛冶屋でこき使われていた時とは違う、歩き詰めの日々に耐えられるのかと、自分でも不安に感じた時期もあったが、身体は意外に早く慣れた。 野宿も、愉しいとは言えないが、食べる物と暖かな火が必ずあったので、たびたび食事を抜かれたり、部屋に小さな灯火すらもなかった鍛冶屋での生活に比べたら、いっそマシだと思った。
しかし、人の目を避け続けることが、こんなにも疲れることだとは思いもしなかった。
オーレンの町でも、周囲の嫌悪をかわぬよう、目立たぬよう、(自分としては)控えめに暮らしていた。
身元の知れない流れ者の孤児であり、小柄で非力な上に不器用で、雇い主達の満足いく働きができなかったため、怒鳴られ殴られることはしょっちゅうだった。
しかし何より、雇い主ほか、多くの人々の嫌悪を招いたのは、自分の金色の瞳の所為だと知っていた。
ただ「金色」というだけならば、明るい茶系色の瞳ということで済んだかもしれない。
だが、その瞳は闇の中で光った。
夜動く獣の眼のように、暗い闇夜に輝く月の如く自らが光りを放った。
迷信深い人々は、その瞳を魔物の眼と罵り、怖れ、忌み嫌った。
周囲のいらぬ不安を招くことは、自分の身を危険に曝すことだと身に沁みて知っていた。
自然、人の目のある通りを歩く時には端を歩き、目は伏せがちに道ばかりを見ていた。
このような経験上、人目を避けるという点では、何も変らないと思っていた。
しかし、現実には大きく違っていた。
以前は瞳さえ見られなければ、知らない人間にはただの小さな子供で済んでいたが、今の自分は姿すら見られてはまずい状態だった。
道に外れた行いをしたわけでもないのに、堂々と陽の下を歩けない。 夜盗などの方が、よほど堂々と明るい陽の下を歩いているに違いないと思うと、自分が招いたこととはいえ、なんともやるせない気持ちになる。
「カラ。 ひとやすみしよう」
先を行くラスターが立ち止まり、視線で大きなブナの木を示した。 黄色く色付いた葉が陽に輝き眩しかった。 ラスターの少し暗い金色の髪も、全身を包む白い衣も、陽の光に照らされ眩しかった。
ラスターの肩を離れ、一足先にブナの太い枝へ舞い降りた有翼獣のガーランは、気持ちよさ気に伸びをすると、枝の上に伏せ、すっかり昼寝の体勢に入ってしまった。
――カラ、カラ……えぇっと、あぁ、オレか。
カラは、ぼんやりする頭を振りながら、首から下がる古い木製のペンダントを手に取った。 その表面に彫られていたはずの自分の名前は、鑢で削られたかのように見えなくなっていたが、厚みのある側面の彫り物は、今もはっきりと読み取ることが出来る。
古い北方の文字ユーアで彫られた「カラ」という彼の愛称と、両親が自分に贈った守りの言葉だった。
「カラ。 カラ――オレはカラだ。 しっかり覚えろよなぁ」
カラは彫り物の側面を白い指でなぞりながら、何度も口の中で自分の名を繰り返した。
常に自分自身で注意していないと、自分の名前でありながら、全く思い出せなくなる。
カラは、〈闇森の主〉との取引で、《影》だけではなく《名》も失いかけた。
幸いにも、両親の遺したペンダントの側面の文字が残っていたおかげで、いまも「カラ」という愛称だけは持っていたが、〈欠けること〉のない完全な《名》は、どうやっても思い出すことができなかった。
〈闇森の主〉に《名》を渡した者は、その後、如何なる名であろうと持つことが出来なくなると、取引の前、〈闇森の主〉は忠告をしていた。
その忠告は正しく、カラ、という愛称に限らず、他の適当につけたありがちな《名》を名乗ろうとしても、自分はおろか、周囲の人間もその《名》を覚えおくことは出来なかった。
拭い取られるかのように、《名》の記憶は薄れ、失われていく。
そして終には、「カラ」という少年の存在自体が、記憶から消し去られていくのである。
現在は旅暮らしで、ひとつ所に長く留まることはないに等しいので、この呪いの影響はあまりないようにも感じられるが、そも、自分が自分の名前を覚えておけないなんて、あまり笑えた事ではなかった。
一足先に、大きなブナの木陰に入っていたラスターの横に、カラも足を投げ出すように座り込んだ。 風が、火照っていた頬をやんわりと撫ぜながら通り過ぎていく。
「ラスターも座ったらいいのに」
横に立つ長身の青年の顔を見上げながら、カラは水袋から一口の水を含んだ。
ラスターは何も答えず、しばらく東の空を眺めていた。 その右肩に、樹上にいたガーランがふわりと舞い降り、主人の頬に額を摺り寄せ、甘えるしぐさをとった。 ラスターも応えるように、ガーランの喉下を撫ぜた。
「ガーランは本当にラスターが好きなんだなぁ。 オレのことは嫌いなくせに……」
ガーランが煩いといわんばかりに、長い尾を一回激しく振った。
「――ふん。 邪魔して悪かったね」
拗ねたように、カラはそっぽを向いてまた一口水を飲んだ。 天気が良いせいか、妙に暑く喉が乾く。
涼やかな風が、また通り過ぎた。
横目でラスター達を見ると、ガーランは猫のようにクルクルと喉を鳴らし、幸せそうに目を細めていた。
神殿にある神の彫刻のように、端整な容姿のラスターと、輝く黄金の翼を持つガーランが一緒にいる姿は、まるで一枚の絵画のようだと、カラは常々思っていた。 そんな彼等の姿をぼんやり見ていることが、カラは結構好きだったのだが、ガーランは「見られているだけ」でも気に触るらしく、あからさまな威嚇の視線(と感じられる、険しい目付き)を、カラに向けることがしばしばあった。
察するに、彼女は大好きなラスターとの旅に、カラが加わったことが気に入らないのではないかと思った。 邪魔者を疎ましく思うのは、恐らくは当然の心理だ。
ガーランはグリフィスという聖獣の一種で、猫よりも一回り大きな黄金色の身体をしており、顔面には鷲の様な黒く鋭い嘴と、鮮やかな緑の宝石の様な瞳を、通常の左右一対の他、額にもひとつ有していた。
背には一対の大きな翼が生えており、陸を行くも空を行くも気ままな様子だった。
見るからに気位の高そうなガーランは、人間の言葉をかなり正確に把握するらしく、うっかり彼女を傷つける言葉(例えば「獣のくせに」などという見下した言葉)を吐こうものなら、気が付いた時にはその鋭い爪か嘴が、発言者の肉のどこかを引き裂いている。
カラも「ただの動物じゃないか」などと勢い口がすべり、幾度となく顔を引っ掻かれた。
高く澄んだ鳥のさえずりが、あちらこちらから聞こえてくる。 穏やかな陽の光を浴びて輝く色付き始めた木々の葉や、風に揺れる草花を見ていると、自分が何のために旅をしているのか忘れてしまいそうになる。
「気持ちいいなぁ……」
心地の良い音色に眠気を誘われ、カラはゆっくりと瞼を閉じた。
五ヵ月前のあの日まで、自分がこんな旅に出ることになるなど、いくら空想好きなカラでも、想像だにしなかった――
***
レーゲスタ大陸東南部、オリアス地方にオーレンの町はあり、その北辺に〈闇森〉と土地の人々から怖れられる、広大な黒い古の森があった。
千年を生きる魔物の長〈闇森の主〉は、この森の奥深くに棲んでいると云われていた。
如何なる願いも叶える力を持つこの魔物の長に、ある時カラは遇い、願いを訴えた。
〈闇森の主〉は、願いを叶える代わりに、カラの持つ《ふたつの宝》を渡すことを条件に出した。
《名》と《影》
それが、〈闇森の主〉の言う《ふたつの宝》だった。
カラは迷わずに応じた。
〈闇森の主〉は、そのふたつを渡したところで死ぬわけではないと言った。 死ぬことがないのであれば、そんな物はなくても、どうとでもなると思った。 そんな物より、殴られ罵られ見下され続ける状況から抜け出せるだけの力が欲しかった。
金や宝石、などとも思ったが、使えばなくなる(盗難の怖れもある)物より、自分と共に在り続けるものをカラは望んだ。
しかも、大胆にも〈闇森の主〉に《ふたつ》宝を渡すのならば、自分もふたつ願いを叶えて貰ってよいはずだと訴えた。
五の月の風のない終月の夜、〈闇森の主〉は、カラの訴えを聞き、《ふたつの宝》と引き換えに、ふたつの願いを叶える約束をした。
先にカラの願いを叶え、その後に〈闇森の主〉がカラの《ふたつの宝》を貰い受けることとなった。
〈闇森の主〉は約束どおり、カラの願いを叶え、そして、《ふたつの宝》をカラの身体から引き離す呪いを始めた。
呪いは、完成されるかに思われた。
しかし、聖都ティルナの〈精霊王殿〉に仕える獣騎士、アラスター=リージェスが現れ、〈闇森の主〉の呪いの完成を妨げた。
有翼の聖獣ガーランと共に〈闇森の主〉を追い続けているというラスターは、結果、〈闇森の主〉の手からカラを救ってくれた。
あの時ラスターが現れ、〈闇森の主〉の呪いを妨げなければ、カラの《影》は完全に奪われ、愛称の「カラ」という《名》の欠片ですら、ペンダントからは削り去られていたのだろう。
――《名》は光、《影》は存在――
レーゲスタ大陸に古くから言い伝えられる言葉があるという。
――〈光ある世界〉に存在するものにのみ、《名》は与えられ、この世界に存在する者にしか、光は注がず、《影》は生まれない――
《名》と《影》を失うということは、この〈光ある世界〉での暮らしと縁を切る、ということになるのだと、漠然とだがカラにも理解は出来た。
〈闇森の主〉の呪いが完成しなかったこと、ラスターから渡された短剣にある、命を護るという不思議な貴石〈オスティル〉の力に護られている現在はまだ、カラはこの〈光ある世界〉に留まっているが、それはぎりぎりの境界線に立っているようなものだと、ラスターはカラに言った。
この状況を変えたいと、以前と同じ暮らしの出来る身体に戻りたい、と望むのであれば、〈闇森の主〉に奪われた《ふたつの宝》を取り戻し、完全な《名》と《影》を持つ、「普通」の存在となることが必要だ、という結論にカラは達した。
ラスターは、どんな問いや疑問にも、明確な答えとなる言葉を口にしてはくれないので、それが真に正しい選択なのか確信は持てないのだが、ラスターがカラに、旅への同行を提案したことから考えても、カラの決意は、おそらく大きな間違いではないのだろう、と信じることにしていた。
カラは太陽も月も、灯明の小さな灯りすらない、〈無の闇の世界〉になど行きたくはない。 そうである以上、選択の余地などは無いに等しいとも言えた。
〈闇森の主〉を追っているというラスターに同行し、自分の意思で〈闇森の主〉に渡した《ふたつの宝》を、自分の手で〈主〉から取り戻す。
自分の《名》と《影》を取り戻すための旅。〈闇森の主〉を捕らえ、《ふたつの宝》を奪回するまで続く、どれほどの歳月を要するとも知れぬ旅。
ラスターから得られる僅かな情報によれば、カラから《ふたつの宝》を完全には奪い損ねた〈闇森の主〉は、オーレンから北に向かい、移動を続けているのだという。
だが、オーレンを出てのこの五ヵ月、〈闇森の主〉の行方は杳としてつかめなかった。
以前、カラはこれから先、どのようにして〈主〉を追っていくのか、と尋ねたことがあった。 その問いにラスターは、「あれ(ラスターは〈闇森の主〉とは決して呼ばない)の残した痕跡を拾い、辿り、進んでいく」とだけ答えた。
どのような〈痕跡〉を、どのようにして拾い辿っているのか、また、行った先々で、どのような情報を得られたのか得られていないのか、ラスターはカラに何も語ってくれない。
仮に、ラスターから事細かな説明を受けられたところで、理解しきれる自信はなかったが、何も知らず、何も知らされず、次に向かう地すらも知りようがないカラはただ、淡い焦りと無力感を抱いたまま、ラスターに従い付いて行くしかなかった。
旅はまだ、始まったばかりなのだ。
***
うつらうつらとしているうちに、いつのまにかすっかり寝入ってしまったようだった。
遠くから人々の話声が聞こえている。
寝入る前に聞いていた小鳥のさえずりとは随分ちがって、せわしなく煩い気がする。
まだ瞼は重く、寝起き直後の浮遊感をもう少し楽しんでいたい気分だった。
大きな枕の上でゴロリと一回転すると、また程よい眠気が襲ってくるのが分かった。
このゆらりゆらりとした感覚。 波間に揺られる小船に乗っているみたいだと思った。
もしかしたら、さっきまで秋の森をふぅふぅ言いながら歩いていたのは全部夢で、本当は、波蹴立てて走る船で旅をしているのではないかとさえ思えてきた。(船には一度も乗ったことは無いのだが……)
先ほどからずっと身体に感じ続ける、緩やかで心地の良いゆらり感。 この感覚は、もうどれほど昔のことか忘れてしまったが、夏の盛り、水浴びに行った小さな湖の水面に浮かんで眼を閉じ、水の優しい揺らめきを全身で愉しんだ、あの波の揺り籠に似ていた。 おまけに、少し遠いが時折聞こえてくる汽笛の音。 昔語りに聞いた、穏やかな海を航海した勇者の感想にとても似ている。
「ふぅうん。 波に揺られるって、本当に気持ちいいもんなんだなぁ。 ……けど、なんで船なんかに、乗ってんだろ――?」
次第に頭は覚醒を始め、目は、周囲の様子を徐々に、はっきりと映し始めた。
「――ここ……どこ――?」
明らかに知らない場所だった。
どうみても、夢の中で思い込みかけた波の上の船室ではなく、陸上の室内のようだ。
その証に、寝台から起き上がり足を床に着くと、先程まで感じていたゆらり感は消え、どっしりと安定した固い床板の冷たい感触が脳天にまでさっと伝わった。
顔を上げた正面にある窓から聞こえてくる人々の語らいの声や、車輪を引く蹄の音から察するに、ここは結構な人口を抱える、小・中規模の街ではないのだろうか? 遠くには、これは聞き違いではなく、確かに汽笛の音がする。 港を有する街ということだ。 そうなると、予想以上に大きな都市かもしれない。
自分の置かれている状況がつかめず、慌てて首もとのペンダントをまさぐり、側面の文字を指で何度も何度もなぞった。
「オレは、“カ……”えっと、“カ――カラ”で、旅の途中――なんだよな。 それで、ええっと――」
比較的広い室内をカラはきょろきょろと見回した。 二つの寝台とその横に置かれたそれぞれの小机。 部屋の真中にはランプが置かれた円卓と椅子が三脚、入り口の右横には水差しと水盆が乗せられた小机がある。
天井には太い梁が渡され、所々が僅かに色褪せてはいたが、隅に蜘蛛が巣を張ることもない、掃除の行き届いた、どう見ても中級以上の旅籠の一室だった。
「なんで――オレ、こんなとこにいるの?」
カラは窓の外を見ようと、寝台から立ち上がった。 軽い眩暈に襲われたが、気になどならなかった。
窓の外の陽は落ち、街の通りは人口の灯火で明るく照らされていた。 男を誘う、酒場女の甘ったるく鼻にかかった声と、既に酒が入り気の大きくなった男達の声が、あちらこちらの薄暗い通りから聞こえてくる。
カラは目を閉じて、思い切り頭を振ってみた。 眩暈だけが更に酷くなった。
ずるずると窓枠に寄りかかるように座り込むと、ぽかんと口を開け、ただ天井の太い梁を見つめた。
次回〈3:新たな出逢い〉へ続きます。