1:地下
1:地下
朝告げ鳥の澄んだ声が、白々とした明けの空にひとつふたつと聞こえ始める。
一日のうちで最も神聖な光と、冷たく清んだ空気が大地を覆う時間。 いま少しすれば、その日最初の風が、天と地の間を静かに渡り始め、瞼の重い地上の者達の目を覚ましていく。
しかし、そこに光は届かず、風は吹かなかった。
地下深くにあるその空間に窓はなく、外界とつながるただひとつの入り口には、二重の黒い鉄扉があった。
かつて、この地下空間の存在目的は、背信者の収監――つまりは牢獄であった。
神の教えが人々の生活の最上位にあった時代、神の教えに背く行いをした者に、その罪を償う為の労働を行わせた、更生の場であったとされている。 神を信じない不敬の輩を改心させるため、陽光の射さぬ地下で拷問紛いの苦行を課し、それでも尚改心せぬ者には、苦しみを伴う死を与えていたなどと、様々な噂が囁かれていたが、現実の使われ方など当時の市井の人々にとっては、世間話のネタになったとして、大した感心ごとではなかった。
そして現在。
神の教えなどに頼らず活きる人々の多くなった時代、これら地下に置かれた過去の遺物を記憶に留める人々は、数少なかった。
間隔を置いて配されている、燈芯草の焔が揺らめく分厚い岩壁の表面はごつごつとして、無骨で造りの荒い印象を与えたが、その積み重ねられた岩と岩の隙間は、薄いナイフの刃一枚も突立てることが出来ぬほど、巧みで頑強な造りだった。
外ではブナの葉が黄色く色付き、からりとした好天が続いていたが、この岩壁の内側は、いつでも陰鬱でじっとりとしていた。
逃げ道のない地下の空気は、ほとんど流動することなく、何かを抱え込んでいるかのようにずしりと重く、淀んでいる。
ツンと目鼻を突く、酸味の強い刺激臭が、そこには常にあった。
四本の歩廊に挟まれた三列の分厚い岩壁には、岩を穿つように造られた大小数十の牢が連なっている。
それら牢内の住人が排泄した糞尿が、岩牢の内と漏れ出でた歩廊の溝で腐敗し、地下空間の衛生をより劣悪なものとしていた。
牢の内からは、幾種類もの鳥獣の唸りが、傷つけられた樹皮から滲み出す樹液のように、絶えず漏れ聞こえている。
岩牢は闇の先へ先へと、途切れることなく連なっていた。
だが、延々と続くかに思えた岩牢は突如途切れ、四本の歩廊はひとつに交わり、更に数十歩進んだ先に、巨大なドーム状の天井を持つ異空間が現れる。
中央には、白大理石に赤・青・緑の玉や金箔で装飾された長方形の壇が設けられ、四方の壁と床は磨き上げられた黒輝石で造られており、水鏡のように、その場に在るものの姿を映し続けている。
壇上の四隅には、燭台に挿された蝋燭の焔の灯りが、煌々と堂内を照らしている。
にもかかわらず、そこは岩牢以上に陰鬱で、腐水に満たされた泥湖に沈められたかのように、胸の悪くなるような、息苦しく凍えた空間だった。
この地下に集う者達は、その場を〈祭壇〉と呼び、様々な儀式を行っていた。
先刻、行われ始めた儀式で用いられている、献上の香〈沈麝薫香〉の濃厚な甘い香りが、〈祭壇〉の間から岩牢の歩廊を通り抜け、遥か離れた詰部屋にまで漂ってきていた。
外界に一番近い詰部屋は、二重の鉄扉から十数段の階段を下りた踊り場の、直ぐ向かいにあった。
常に二・三人、雇われの牢番が交代で、岩牢の住人達が万が一にも逃げ出さぬよう見張っているのだが、都合が付かなかったのか、現在部屋には一人しかいない。
窓のひとつもないので、日夜を問わず大きめのオイルランプに火が灯されている。
ランプの放つ光は、燈芯草の小さな灯りが僅かにあるだけの岩牢に比べたら、黄色に暮れた色合いであっても、格段に明るさを感じられた。
ランプの下には、昨夜の宿番であった大柄で体格の良い男が机の上に足を組み上げ、椅子の背にだらしなくもたれかかりながら、瓶ごとの安物ホーシュ(地酒)を時に呷るように、時に嘗めるように飲んでいた。
「――いつまで、そんなところで眺めているつもりだ?」
男はだらりと頭を落とし、つぶやくように言った。 伸びたばさばさの黒髪に隠れ表情は見えないが、その目は濁り虚ろなことが、低くかすれた声に現れていた。
(……――――――……)
ランプの灯りの届かない、階段下の踊り場で、ひとつの人影が怯えたような、落ち着かぬ様子で立っていた。
薄暗いうえに外套のフードを目深に被っているため、その年齢も性別も判然としないが、闇に浮かび上がる程に白い手をしている。
手を組み合わせた胸元には、鈍い輝きを見せる銀細工の鎖が時折、薄闇に浮かぶように見え隠れしている。
人影は幾度か足を踏み出し、男に何かを語りかけようと口を開いているようだったが、躊躇いがあるのか、言葉を発せぬまますぐ身を引いてしまう。
「無駄な努力は、せぬことだ。 お前の望みは俺の望みと同じ――」
男の言葉の最後は、闇を引き裂くが如き獣の奇声――いままさに訪れた死の叫喚、によって掻き消されてしまった。
踊り場の人影は明らかに動揺し、救いを求めるように、再び男に向かい言葉を発しようとしたが、その言葉もまた音にすることが出来ず、人影は細く白い手で顔を覆うと、幾度も頭を振り、激しく苦悩している素振りを見せた。 手に覆われた顔の下で、銀細工の鎖の先に下がる透明な滴型の石が、水を湛えた玻璃杯のように揺らめき、幽かな光を放っていた。
だが男は、何も知らぬ風にホーシュを大きく呷った。
己の肩を掻き抱き、幾度か大きな呼吸を繰り返すと、踊り場の人影は男の顔を睨み付けた。 しかし、その行為は無駄と知ってか、直ぐに諦め、怒りをぶつけるような勢いで階段を駆け上がり始めた。
その音は、小さな小鳥が羽ばたくよりも軽やかで、どこか儚げな印象だった。
鉄扉が二回、開かれ閉じる重く鈍い響きが、地下に幾重にもこだました。
その鈍重な響きのむこうに、小さく軽い足音が遠ざかっていくことを、男の耳ははっきりと知ることが出来た。
先刻、闇を劈いた獣の断末魔の残響は消え去り、現在はただ、甘い〈沈麝薫香〉の香りに融け込んだ新鮮な血の、胸をつく生暖かな臭いが、詰部屋までを侵そうとしていた。
断末魔の声と血の濃香は、岩牢に封じられている鳥獣達に激しい動揺を与え、彼等の怒りと恐怖を露わにさせた。 理性の欠片もない狂った咆哮に、地下の空気は激しく揺さぶられ、全ての人間を切り裂き殺さんばかりの憎悪の刃を、男は全身の皮膚で感じた。
もちろん、実際に傷を負うことない。
かといって、殺意を顕かに感じさせる程強烈な憎悪の対象であり続けることは、例え獣のそれであれ、快いものではなかった。
だが、皮膚を裂くが如き激しい憎しみと怒りを身に受けることで、男は望んだものを、成すべき事を、そのために選んだ道を、忘れることなく胸に刻み続けることができた。
ともすれば、道半ばでかつていた陽光の下へと戻りたくなる、己の心の弱さや迷いを、憎悪の叫びは薙ぎ払い、新たな決意を成し遂げるべく、むしろ鼓舞さえしてくれる。
男は残りのホーシュを一気に呷ると、そのまま頭上のランプに目を止めた。
「そうだ。 全ては我が意思。 自ら選んだ。
思い描くだけでは、待つだけでは、為せぬ望みを、果たす為――」
町中に、一日の始まりを告げるラッパの音が響き渡った。 地下にも遠く聞こえるこの音は、地下の住人にとっては、地上の者達の大まかな時刻を知るという以外、無意味なものでしかなかった。
男は酒に濁った目をゆっくり、詰部屋から続く岩牢の闇へと向けた。
目には見えぬ、闇に沈む岩牢の内には、数知れぬ鳥獣が封じるように押し込められ、これら岩牢の闇の先にある〈祭壇〉では、〈聖血奉還〉の儀式が、数日に一度行われていた。
――古の民。 正しき血脈。 真の神に、レーゲスタの大地へ再臨いただく――
男には愚かな妄想にしか思えぬそれが、この地下空間に集う者達の願いであり、その妄想が、彼等のいかなる行動にも正当性を与えていた。
男は、全てを知った上で、自ら望んでその内に身を投じ、その手足になると誓約をした。
だが、未だ心のどこかで、ここに集う者達に――自身に、抑え難い嫌悪を感じずにはいられなかった。
《――長き……望み……捨てる……か――》
しわがれて、今にも消えてしまいそうな老人の干乾びた声が、闇のどこからか、枯れ草の風に鳴る音のように滲み聞こえてくる。
男が迷いを感じる時、必ずと言ってよいほど、不鮮明な、だが妙に心に掛る声で問いかけてくる。
「おい、あんたをお呼びだ。 どうも、大がかりな〈狩り〉をするらしい。 大物が掛かりそうなんだとよ。 ここの守りは交代だ」
二重の鎧扉を、紙の板のように軽々と開け閉めし下りてきた鬚面の男は、先程耳にした声とは対照的に野太かった。
大陸の標準語であるシュア語を話してはいるものの、早口な上に北方特有の巻舌音が酷く、この鬚面の言葉を聞き取るのは骨が折れた。
だが鬚面の男は、相手の心中などお構いなしにべらべらと話しを続けた。
「それにしてもよ、この〈儀式〉後の臭いは何度嗅いでも生臭くて堪らねぇな。 酒と煙草をいくらやったところで、到底ごまかせねぇ。 ゲロの臭いの方がよっぽどマシってもんだ。 聖獣とかってのは、見た目はいいが、中に詰まってるモンは最悪だな。 臭いは酷えわ、猛毒をもっているか知らんが、床にこびりついていた血に触れただけで、大火傷負ったみたいに爛れやがるし、ろくなモンじゃねぇ。 なあ、そう思わねぇか?」
男は胸ポケットから、くしゃくしゃになった巻煙草を取り出すと、ランプのシェードを押し上げ、火を点け口の端にくわえた。
「しかしよ、 今日の贄は――〈大鳳〉だったか? あの四対の白羽。 あの羽だけでも、売れば二・三年分の遊び金が出来るってのになあ。 生きたまま金持ち共に吹っかけりゃ、一生喰いっぱぐれねぇだけの値が付いたかも知れねぇってのに。 その〈聖なる御子〉様とかってのは、なんでまた、聖獣の血肉を大量に必要とするのかねぇ。 いまどき、そんな神話の世界の獣なんざ、そうそういるもんか。 大陸中の聖獣、その血を少しでも引く鳥獣共を見つけ残らず掻き集めて来い、なんてよ、無茶言うよなあ? もうとうに絶滅している種族だって多いって話じゃねぇか?」
鬚面の言葉など聞こえぬように、男は空いた瓶を鬚面の顔横すれすれに投げた。
投げた先が丁度、ゴミ捨てになっていたからなのだが、鬚面の顔は明らかに引きつり険しくなった。 背丈はどちらの男も大差なかったが、重量面で、鬚面の男が明らかに勝っていた。
鬚面は拳を握りしめ、俯き座ったままの男をしばし睨みすえたが、怒りをなんとか飲み下すと、嘲るような笑いを浮べ話を続けた。
「ほんとによ、ご立派な経歴を持ってるあんたが羨ましい限りだ。 入って半月足らずの新入りだってのに、随分と重用されるもんだ。 これで〈狩り〉は五度めか? 七にはなるか? あやかりたいもんだな。 〈狩り〉の報酬はいいからなぁ。 こんな詰部屋の守り番とは違って。 酒も女も買いたい放題だろう? もっとも、元〈騎士〉様というだけで、女は選り取り見取り、女の方から擦り寄ってくるんだろうな。 あんたは女好みの顔をしているしなぁ? どうだ、今度オレも一緒に〈宿〉に飲みに連れて行ってくれねぇかい? 俺の行きつけの〈宿〉程度じゃ、好い女になかなか当たらなくてよ。 なあ、ダンナよ」
鬚面は下卑た笑いを浮かべながら、馴れ馴れしく男の肩を叩いた。 鬚面のくわえた巻き煙草から、灰が男の肩に降り落ちた。
《源の思い、忘れたか――。 その為に要するを、排するべき、を、忘れたか――……》
枯れた老人の言葉が、男の耳朶で幾度も繰り返し響いた。
男は、鬚面の存在自体を無視するように、無言のままゆらりと立ち上がると、重い足で外界へ続く階段を上り、二枚の鉄扉を開いた。
次回〈2:見知らぬ街〉へ続きます。
次回よりようやく、主人公が再出いたします。