表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/11

10:遭遇

   10:遭遇



 室内は、モノと異臭に溢れていた。


 モノがなければ決して狭くはない部屋の四方には、幾つもの棚が並び置かれ、棚の上には、古びた大量の書籍の他、硝子瓶や湿気を寄せ付けない金物の缶箱が、並べられるだけ並べ置かれ、入りきれない物は棚から溢れ、床の上にも重ね置かれていた。


 瓶は液体で満たされ、その中に浸けられた様々な器官が、沈むことも出来ず、瓶の中頃に、頼りなげに浮いている。

 多くは、眼球であったり耳であったり、臓物の一部であったりしたが、中には、生まれることのなかった胎児のようなものもあった。


 薄暗い続き部屋には、多種多様な鳥や獣が、床を埋め尽くすように置かれている。

 どれも舌をだらりと口から出し、動く気配は全くなかった。 異臭は、明らかにこの部屋から生じていた。

 横たわる獣に囲まれるように、一人の痩せぎすの男が、部屋の中央に座り込んでいる。

 男は口の中で、呪文のような言葉を唱えながら、指先に赤いドロリとした液体をつけ、新しく仕入れたモノに、印を描いていた。

 唱える呪文は歌のようで、男はとても幸福そうに、うっとりとした顔をしている。


「――おや。 客が、お越しのようだな」


 男は、呪文を唱えるのを一旦止めると、嬉しそうに笑い、印付けの作業の手を早めた。


「では、まず、お招きの準備をしなくては、だな。 ふふ。 楽しみだね。 客人が来るなど、ないと思っていたからね。 どう? 君達も、一緒にお出迎えに行くかい?」


 男の問いかけに応えるように、幾対もの赤い光が、薄暗い室内のあちらこちらで、鈍い輝きを放ち始めた。


     ***


 開けろと言われた鉄の扉は、外で開けた最初のものに比べると、厚みは大差なさそうだがサイズは小さく、今の自分ならば、片手でも開けられそうだと思った。


「なんだ、こんなの――」


 カラは気軽に請け負い、ごつい金輪の引き手に手をかけ、引いた。

 予想通り、鉄の扉は簡単に開いた。

 ただし、想像だにしない、凄まじい音を伴ってだった。 グウォン、と重く鈍い音が岩壁の内に幾重にも響き、本来の音の何倍にも大きく、長く響いた。


「な、何やってんのよっ。 言ったでしょう、 "静かに開けて"ってっ。 あんた、本当に人の言うこと聞いてんのっ?」


 岩壁に反響する音に負けぬ大声で、アルは耳を塞ぎながらカラを罵った。 そのどちらの音にも負けぬ声で、カラも反論を試みた。


「こんな音がするなんて、アル注意しなかったじゃないかっ。 だいたい、誰もいないんだろ、ここ。 それなら別にそんなに気にすること――」


「黙ってっ!」


 突然、アルはカラの言葉を遮り、その口を押さえた。 カンテラの火を吹き消し、カラを自分の背後に回すと、アルは構えるように、さっと周囲に視線を廻らせた。

 ひゅっと、風を切る鋭い音を耳にした途端、硬い金属を撃つ音が闇中に上がった。

 アルが短い叫びを上げると同時に、アルの手のカンテラが弾け飛び、落ち、ガラスが割れる音がした。


「あんまり大声で喚かれたらぁ、煩いんだよねぇ。 ここ、響くだろぉ? おまけに、お前達ガキの声は、耳障りなんだなぁ。 俺の耳に、キンキン響いてよぉ――」


 耳障りな声が、闇のどこからともなく、滲み出すように聞こえてきた。 男の声とも、年老いた低い女の声とも聞こえる、気味の悪い、ねっとりとした喋り方だった。


「だ、誰っ」


 アルは声を張り上げながら、カラの腕をよりきつく握った。 暗闇で利かぬ目を眇め、カラを護るように気丈に立っているが、カラを掴む手からは、小さな震えが伝わってきた。


 胃がぎゅっと縮むような痛みを、カラは感じた。 アルは、ここは無人だといっていたのに、この声の主はいる。 最初からここにいたのか、カラ達の後をつけて来たのか分からなかった。 声が複雑に反響し、どこに声の主が居るのか分かり難くしている。

 それでもカラは、金の瞳をしっかりと開き、見渡せる限り、具に、目に映るものを見た。


「いたっ。 あれだ――」


 カラは、天井に蜥蜴のようにへばりつき、自分達を見下ろしている人の姿を見つけた。

 その顔は、人間の形をしているのに、中身は本当に蜥蜴か蛇のようだった。

 顔の左右に離れた、針金のような瞳孔の赤い眼、縦に穴が開いただけの鼻、耳まで裂けた口からは、時々赤い二股の舌が飛び出る。

 薄い、髪の毛らしきものが申し訳程度、岩に生える苔のように頭の上にある。 岩壁にへばりつく手足は、鋭く長い鉤爪が生えているらしく、その指先から肘にかけては、硬そうな錆色の鱗がびっしりと覆っていた。

 人間の言葉を話してはいても、その身体の造りが、人間とは違う、別の存在であることを如実に物語っている。

 まるで、物語に出てくる化物の下っ端みたいだと思った。

 空想の中で、自分が戦う悪の親玉の足下を、ちょろちょろとしていそうな弱い奴――が、こんな姿をしている、とカラは思い描いていた。

 しかしあくまで、その存在は物語(空想)の中のもので、自分が実際に、このような形で遭遇するなど、考えてもいなかった。

 一度目にしたら、そう簡単には忘れられない奇妙な蛇顔の男。 間違いなく、初めて目にする異形の存在。

 けれど、どこかで、この奇妙な姿を見たことがある、とカラは思った。


――どこで? つい最近だ。 どこで? 光の中に出られないで、じっと獲物を見ていた。

 この感じ、確かに――。


「あ――、思い出したっ。 こいつアルをつけてた奴だ。 この前、君が朝早く旅籠前の道を走ってた時に、その後をつけてた奴だ!」


 四日前の早朝、アルの後をつけていた男。

 陽の射す通りに出られないかのように、狭い路地の影にへばりつき、獲物を狙う蛇のように、アルを見ていたあの男だ。

 アルは、大きな目を見開いて、カラを振り返った。 手の震えが増したことを、カラははっきりと感じた。


「あたしの後を、つけていた――?」


「そうだよ。 ほら、あそこ、あの男。 知ってる奴? まるで蛇みたいな顔した――」


 カラは天井を指差し、アルに小声で教えた。

 アルもカラの言葉に従い上を見たが、黒く、どこまでも深い闇しかそこにはなかった。


「見えない。 あんたの瞳が光ってるの以外、あたしには、こんな真っ暗じゃ、何も、見えない――」


 カラは今更に、他人は暗闇では物が見えないのだということを知った。 そして、見えないことが、より大きな恐怖を与えることも、アルの表情や声から感じられた。

 蛇顔の男は細長い舌を数回、裂けた口から出し入れすると、にたりと赤い口を開け、嫌な粘り声を上げて笑った。


「へぇ、おまえ。 いい目持ってんなぁ? それ、俺達と同じか? 闇の中でも物が見えるのか? へぇえ。 人間にもまだそんな目、持ってるのがいんのなぁ。 けどよぅ、その色は気に入らねぇなぁ。 嫌ぁな、色だぁ。 おまけによぅ、何? おまえ、人間じゃぁないのか? その身体、透けてんじゃないかぁ? 人間の臭いぷんぷんのくせによぉ、闇に半分、溶け込みかけてるぜぇ? ひひぃ。 おまえ、闇好きか? へへぇ、面白れぇなぁ」


 カラに向けていた目を三日月のように細め、蛇顔はヒィヒィと奇妙な笑い声を上げると、目の玉をグルリと回転させ、今度はアルの顔を、舐めるように見た。


「あぁ、しかしさぁ、お姫さんから来てくれるとはぁ、ありがてぇことだぁよ。 そろそろお招きに上がれって、言われてたんだよぉなぁ。 あぁ、どうせならこっちじゃなくて、あっちの方に出向いてくれたらぁさ、もっとありがてかったのになぁ。 そうしたらぁよ、運ぶ手間、省けたんだけどぉなぁ――」


「ひ、姫って、誰のことよ――。 あたしの後つけてたって、いったい、何のためよっ」


「"姫"っていやぁ、女だろ? ここには女はあんたしかいないよぅな。 そうだよ、何度もつけた。 あんた、ほとんどは反対の町側の入り口からだったけどよ、よく来たろぅ? こっち側の外の大扉の前にも、よく立ってたろぅ? 行きも帰りもあんた、注意を払ってたからぁ、こっちがもっと注意を払ってやってさぁ、つけてたんだよぅ。 あんたさぁ、あいつに、なんにもぉ、聞いてないんだぁ?」


 蛇顔男はまた奇妙な笑い声を上げた。

 笑いながら、じりじりと場所を移動し、カラ達に近付いている。


 カラはどうしたらよいのか分からなかった。

 危険。 確実に危険が迫っていると感じているが、それがどういった危険で、どうやって逃れればよいのか、分からなかった。

 首筋にぞわりと、冷たくざらついた感触が走る。 胃がぎゅっと縮まり、身体が小刻みに震えている。 口が、喉が、干乾びていく。

 無意識に、服の下に隠すように帯びていた短剣に手を伸ばしていた。 常に身につけているようにと、ラスターから渡された護りの短剣。

 短剣の柄を、助けでも求めるようにカラは握った。

 蛇顔は赤い舌を数回出すと、目をさらに細め、ぴたりと動きを止めた。 

 誰も、何の音もたてない沈黙が闇を覆った。

 しかし、それも束の間、シュッと矢の放たれるような音を聞いた直後、蛇顔はカラ達の前に、ゆらりゆらりと揺れながら立っていた。

 カラとアルは小さな悲鳴を上げ、互いを抱えあうように数歩後ろにさがった。


「突然襲いかかるなんて、そんな非礼なことは、しないさぁ。 これでも、紳士なんだぁ。 お姫さんのことは、ずっと見てるだけで、手を出さなかったろぉ。 いくらでも手を出して、喰える機会はあったのにさぁ……。 へへぇ。 遠くで見ても思ったけどさぁ、姫さん、やっぱり綺麗な顔してんなぁ。 ほんと、上の階あたりにある彫刻と同じ顔してるやねぇ。 あぁ、あんたにはこの闇じゃぁ俺の顔、見えてねぇのかぁ? 残念だなぁ。 俺も、結構いい顔してるんだぁぜぇ」


 目の前に下りてきたことで、アルにも蛇顔の様子が、ぼんやりだが分かった。 自分達より弱冠高い位置に、赤い光が二つある。


「まぁそんなで、俺は紳士だから、ちゃんと言ってから襲うことにするよぉ。 あんた達を、俺、襲うよぅ。 安心しな。 姫さんは、出来るだけ無傷で連れてこいって言われてるから喰わないよぅ。 けど――」


 蛇顔男はカラの顔を見て、舌を幾度も出し入れした。 ぬらりとした、薄い鱗に覆われた顔には、薄笑いが常に浮かんでいる。


「黄色の目のガキは、なんも言われてないからなぁ。 喰って、やるよぉ」


 にたりと笑う裂けた口に、カラはぞっとした。 細かな鑢のような歯が、前後二列にびっしりと生えているのが見えた。 ぬらぬらと不気味な赤い舌が、口の中で別の生き物のように蠢いている。 こんな口になんか喰われたくない。 そう、本気で思った。

 アルは蛇顔の動きが見えず、カラは足が竦んで動けずにいた。 緊張に身体が強張り、息をすることにも、重い苦しさを感じる。

 その苦しさに抗うように、カラは頭を振った。 そのほんの僅かの間、蛇顔の姿が視界から消えた。

 そして、カラが再び同じ場に視線を戻した時、蛇顔の姿はそこになかった。

 見間違ったかと思った。

 目を瞬き、今一度確認しようとした瞬間、カラは左頬に熱く鋭い痛みを感じ、続いて左肩にも、同じ痛みが走った。

 カラは短い叫びを上げ、掴んでいたアルの腕を離すと、大きく身をよじった。


「な、なにっ、どうしたの、ねぇっ! ねぇってばっ! どうしたのよっ」


 アルは硬い上ずった声で、急かすようにカラに問い、答えを求めた。

 頬に手を当てると、生温かい、ぬるりとした液体が、カラの頬を伝い流れていた。 左肩にも、じわりと生温いものが広がっていく。

 頬のぬめりを拭って見ると、それは赤い、血だった。

 蛇顔はいつの間にか、もといた場所に立ち、爪に付いたカラの血を、長い二股の舌で嘗め取って味わっていた。


「ガキはさぁ、嫌いなんだけどよぅ、血は、美味いやねぇ。 甘いっていうか、濃いっていうか――。 おまえ、喰いではなさそうだけどよぉ、血の味はなかなか、いいじゃぁないかぁ」


 蛇顔は裂けた赤い口から舌を出しながら、赤く光る目でカラを舐めるように見た。


「あんたっ、怪我したのねっ? こいつに、怪我をさせられたのね。 どこ? どこをやられたのっ」


 アルは確かめるように、カラの腕を幾度も上下にさすった。 傷には触れなかったが、肩の痛みにカラが小さく呻くと、アルはみるみると蒼ざめ、泣きそうな顔になった。


「ど、どのくらいの傷なのっ? 血が、たくさん出てるんでしょう? あぁ、見えないから、止血も出来ないじゃないっ」


「だ、大丈夫、大丈夫だよ。 頬っぺたと肩がちょっと切れただけだから。 でも、あいつ、動きがすごく、速いよ――」


 カラの膝も身体も震えている。 震えは、手を介してアルにも伝わっているに違いない。

 情けない奴、と思われているだろうと思った。 けれど、そう思ったところで、震えは止められなかった。

 怖い。 助けて――。 そんな言葉が、今にも口から漏れ出してしまいそうだった。

 だが、そんな言葉を口にするより先に、カラの身体に新たな緊張が走った。

 爪の血を舐め尽くした蛇顔が、じりと、わずかに姿勢を低くしたことを、カラの瞳は見逃さなかった。

 次の攻撃が来る。 すぐに、来る――。


「アルっ」


 カラは思わずアルを突き飛ばすと、自分も後ろへ飛び退った。 足場が悪く尻餅をついてしまったが、顔を下に向けることは、決してしなかった。

 寸前まで二人が立っていた闇間を、蛇顔は矢のように飛び抜けると、カラの開けた鉄扉の上壁部に、頭を下に向けてへばりついた。

 舌をちらちらと出しながら、腰を抜かし、バラバラに座り込んだ二人の子供を、細めた赤い目で見下ろしている。


「へぇ? よく、俺の動きが見えたなぁ。 まぁ、折角の獲物。 焦らせて愉しませてくれるってのも、またいいものなのかもなぁ。 喰う愉しみの前に、弄ぶ愉しみ、を与えてくれてるってぇわけだぁ――」


 残酷な光が、蛇顔の目の底で、熾火のようにちらちらと踊り揺らめいている。

 カラは、こんな赤い目に、かつて遭ったことを思い起こした。

 同じように、不気味で、残忍で、感情のない赤い目。 だがあの目は、この目以上に強い光を放ち、怖ろしかった。

 背筋が寒くなった。

 赤い目に見下ろされていることが、カラは耐え難く不安で、不快で、吐き気を感じた。

 岩に着いた手から、じわじわと体温を奪われていく気がした。 頭の芯に、じんとした痺れを感じる。

 まるで、闇森で《影》を奪われた時のようだった。 心臓が、あの氷のような、ガサガサの枯れ枝の手で掴まれ、締め上げられているかのように、冷たく、痛く、苦しい。

 あの目を見てはいけない、逸らすんだ、と、頭の奥でガンガンと鐘が鳴り続けている。

 それなのに、カラの目は吸い寄せられるように、蛇顔の赤い目を見続けた。

 緊張が視界を白く霞ませ、眩暈が襲った。


――もう、もう、だめだ……。


 すぅっと、意識が遠のきかけたその時、ふっと、暖かなものがカラの手に触れた。

 はっと、閉じかけた目を見開き横を向くと、アルの両手が、カラの左手を包み込むように握っていた。


「あんたの金の瞳。 やっぱりいいわよ。 この暗闇であんたがどこにいるのか、あたしにもすぐに探し出せたわ。 その瞳の光が、導いてくれたお陰でね」


 アルは、カラの瞳の光を頼りに、這ってここまで来たようだった。 カラの手をしっかりと握ると、アルはカラの瞳を見つめた。


「あんた、すっごく緊張してるでしょう? 手、氷より冷たくなってるわよ?」


 アルの顔を見ると、いつも以上に白く蒼ざめ、表情は硬かったが、それでも励ますように笑顔を作り、カラを見つめていた。

 その懸命な笑顔が、カラの痺れた頭を覚まさせた。 自分がたくさんの汗を流していたことに、カラはその時初めて気が付いた。

 右の手で、胸元のペンダントを握り緊めると、カラは側面の文字を指先でなぞり、ほうっ、とひとつ息を吐いた。


「――あんた、じゃないよ。 オレの名前は、カラ、だよ」


 アルは黒の瞳を瞬かせると、先程までよりも自然な笑いを、顔一面に浮かべた。


「あら、失礼。 で、カラ。 まさか、腰を抜かして動けない、なんてこと、言わないわよね?」


「も、もちろんだよ――」


 温かなアルの手の感触と笑顔と言葉が、カラの硬くなっていた身体を柔らかくした。

 カラはアルの手を握り返すと、小さな声でアルに質問を出した。


「アル、ここに来たこと、あるの?」


 アルは小さく頭を振った。


「入ったことがあるのは、こことは反対側の地下なの。 ここは今日が初めて。 でも、文献を読んで、おおよその構造は、頭に入れてきたわ」


「じゃあ、その扉の先がどうなってるか、知ってる? 逃げ込んだら、追い詰められるだけに、ならない?」


「この先を行ったら、私が何度か出入りした反対側の出入り口に繋がっていて――その途中のどこかに、聖獣が閉じ込められているはずなの」


 アルはカラの手を更に強く握り、力強い目で見つめた。 アルの震えも、まだ完全に止まってはいなかったが、声にはいつもの調子と落ち着きが戻ってきていた。


「アル。 オレの左腕に、しっかり掴まって、オレが合図したら、腕が押す方向に真っ直ぐ走って。 あいつがいる壁の下。 そこにさっきの扉が、開いてるから――」


「あたしだけ逃げろって言うのっ。 そんな――」


 アルは蒼ざめた顔で、怒った様に反論しかけたが、カラはアルの口を押さえ、言葉を遮った。


「だって、この闇の中じゃ、アルは何も見えないだろう? でも、オレは何もかも、見える。 あいつを倒せなくても、撒くことくらいは、出来るかもしれない。 だから――」


 アルは俯き、少しの間、眉間を曇らせ考え込んだが、顔を上げ、カラの瞳を真っ直ぐに見つめると、こくりと頷いた。


「――わかったわ。 でも……無茶はしないで。 絶対よ」


 アルの真剣な眼差しに、カラはぎこちなく笑って見せた。

 カラは小声で、行く先にどのような石や窪みなどの障害があるかを伝えると、アルの腕を支えながら立ち上がった。 そして、深く息を吸い込むと腹に力をいれ、拳をきつく握り、蛇顔の顔を睨みつけた。

 いつまでも黙りこんで、自分が相手に怯えきっているなんて、思わせたくなかった。


「な、な、なんでオレが、お、お前なんかに喰われなきゃいけないんだよっ」


 頑張って張り上げたものの、自分でも可笑しいくらいにひっくり返った声だった。 それでも、沈黙しているよりはましだと思った。


「間の抜けたこと聞くガキだぁなぁ。 何でってそりゃぁ、俺の目の前にいるから、だろぅ?」


 蛇顔が壁に這わせた身体の向きを変え、目を細めた。 じりりと、蛇顔の周囲の空気が動くのが、カラの緊張した肌に伝わった。


「今だっ、走ってっ」


 カラの押し示す方向へ、アルは素晴らしい跳躍をし、巧みに足下の障害を避け、飛び込むように扉の先へ駆け入った。

 アルを押すと同時に、カラは腰の短剣を素早く抜き、前に払った。 とりあえず、相手の最初の一撃をかわすことだけに、全神経を集中させた。

 真っ直ぐカラに襲い掛かってきた蛇顔は、カラの振った短剣の刃をするりとかわすと、後方にくるりと円を描き、着地した。

 カラは自分も、いつでも逃げ込めるよう扉を背にして立った。 転ばないよう足下を注意しつつ、しかし、相手の動きも見逃さないよう、視線を蛇顔から決して逸らさず、短剣を前に突き出すように構えた。

 期待はしていなかったが、やはり傷を負わせることは出来なかった。

 いつか見た、ラスターの流れるような動きほどではないが、蛇顔の動きはやはり速い。

 かすり傷の一つ負っていないことは、分かりきっていた。

 ドクンドクンと、耳の直ぐ後ろに心臓があるように、激しい鼓動が聞こえる。 神経がきりきりと張り詰め、こめかみを痛ませた。

 蛇顔は左右に裂けた口の隙間から、割れた舌をしきりに出し入れし、愉しそうにカラの様子を見ていた。 そのいやらしい笑い顔から、カラは決して目を逸らさなかった。

 

「なんかよぅ、動いたらさぁ、腹がもっとさぁ、空いちまったよ。 お前の後にさぁ、あの姫さんの血も、少しさぁ、頂いちまおうかなぁ。 きっと、お前よりよぅ、美味いだろうなぁ」


 言葉の後に、ひぃひぃと、粘る笑いを蛇顔は付け加え、弓形に細めた赤い眼で、カラの反応を愉しむように見ている。


「そんなこと――絶対させるもんかっ」


  カラの腹に怒りが生まれた。 腹を焦がすような熱い怒りは、大きく膨らみ、腹から胸、そして頭へと駆け上がっていった。

 目の前でにやついている蛇顔に、なんとしても一太刀、斬り付けてやりたいと思った。

 蛇顔の動きは早いが、爪でカラを引き裂こうとするため、攻撃の際、脇から下に隙が生まれている。 その隙を突いて、すり抜けざまに蛇顔の脇腹を切ることができれば――。

 姿勢を低くすると、カラは短剣を逆手に持ち直し、腹の横に付けた。 呼吸を整え、飛び出すタイミングを、計った。


「ひっ、いぃひぃぃひぃいぃ」


 突然、奇妙な叫びが蛇顔の口から漏れた。

 蛇顔は顔を引きつらせ、恐怖の叫びをなおも上げながら、縮こまるように、不恰好にその場に座り込んだ。


「ひぃいぃっ。 そ、その光。 そいつ、そいつ――ひぃぃひぃいぃっ」


 蛇顔は、震える鉤爪でカラの短剣を指差し、じりじりと後方へ退いていく。

 蛇顔の指し示すままに視線を短剣に移すと、柄の先端にあるオスティルが、普段よりも数倍強い、黄金色の光を放っていた。


「オスティルが、光ってる――」


 思わず、カラもその光に目を奪われた。

 普段から、常に淡い光を湛える神秘的な石であったが、今は常以上にはっきりと、闇夜を照らす月のような、煌煌とした光を放っている。

 威圧的でなく、しかし、気高さを感じさせる黄金の光。


「どうしたのっ。 大丈夫なのっ?」


 扉の奥から、アルの切迫した声が飛んできて、カラははたと我に返った。 

 慌てて視線を前に戻すと、座り込んでいたはずの蛇顔は、いつの間にか姿を消していた。


「あ、あれ。 いない。 いない、や……」


 カラの膝は小刻みに震えていた。 短剣を持つ手も細かく上下している。

 しかし、とりあえず、目の前の危険はなくなっている。 少なくとも、カラの目に見えないところまで、退いてしまったようだった。

 ほっと大きく息を吐き出すと、カラはいま一度、何者もいないことを確かめ、再び、光りを放つ貴石に目を移した。


「カラ。 本当に大丈夫なの? さっき何か光ったみたいだったけど――」


 アルは、扉の陰から顔を僅かに覗かせていた。 こちらの様子が気がかりで、じっと待ってなどいられない、といった様子だった。


「大丈夫。 今、そっちに行くから」


 オスティルの光は、幾分小さくなっていたが、今だ闇を明るく、柔らかく照らしている。

 カラは光を放つ短剣を手に、アルの待つ扉の先へと走った。



お疲れ様でした。

最後まで読んで下さり、本当に有難うございました。

話は 第三章『白日の月』へと続きます。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ