9:闇中を行く
9:闇中を行く
「――暗いんだ」
外から見た時、建物の上部が崩れていたので、内部にもそれなりの光が差し込んでいるのかと思っていたが、内部は月のない夜のように真っ暗だった。
大扉から十数歩も進むと、扉から差し込む光すらも届かない、しんと静まり返った深い闇に包まれた。
小さな窓ひとつない、四方を漆喰の壁で囲まれた、奥へと深い、がらんとした空間。
陽光の暖かさに慣れていた身体に、このただ広いばかりの空間は、寒々しく感じられた。
旧宝物庫は、地上二階地下一階の三層に別れており、崩れたのは最上階の一角のみで、階下は堅牢な石壁に護られた闇を保っているのだと、アルは口早に説明をしてくれた。
天井は高く、左右は大型の乗り合いの馬車が行き違える程、ゆったりとした幅がある。
廊下の両脇には、十数歩おきに、人と馬の彫像が交互に置かれていた。
人の彫像は、地まで伸びた長い髪や浮世離れした美しい顔立ちから、エランであろうと思われた。 エラン像と並ぶように置かれている馬の像は、とても精悍で躍動感ある姿をしていた。 中には、背に翼を生やしている馬の像もあった。
「すごいなぁ。 まるでエアルースみたいだ。 こんなに綺麗な像なのに、なんでここに置かれっぱなしなんだろ。 他の宝物が多すぎて、引越し先に入らなかった――のかな?」
左右の壁面には、これは木製であろう扉が等間隔に延々と並んでいる。 旧宝物庫というからには、それぞれの扉の先に、宝物が納められていた部屋でもあったのだろう。
アルに手を引かれたまま、カラは周囲をきょろきょろと見回しながら歩いていた。
アルは小さなカンテラで進む先を照らしながら、慎重に、しかし歩む速度を落すことなく、勢いよく歩んでいく。 外にいた時と変わらぬように振舞っているが、この闇中を進み行くことに、少なからず緊張していることが、握られている手から伝わってきた。
恐らく、灯りの照らす僅かな範囲しか、アルには見えていないのだろう。
一方カラは、この暗闇に内心ホッとしていた。
闇を見透す瞳を持つカラは、暗い闇中にいることが、元々不安でも不快でもなかった。
むしろ最近は、闇中に在ることに、安らぎに似た心地よさを感じることも少なくはない。
濃い影の中、暗い闇の中では、姿が薄れていることも、《影》がないことも気にする必要はない。 暗ければ暗いほど、それらのことに気を置く必要はなくなる。
陽の下を、堂々と誰の目を憚ることなく歩きたい、という願いを持つ自分がいる一方で、ごく普通の人々が怖れる、一条の光も見出せない、真の暗闇に在ることに安堵を覚える自分がいることを、カラは確かに感じていた。
――でもさっきみたいに、陽の光を嫌だと、感じることなんて、なかったのに――
宝物庫の外で、陽の光に感じた異質な感覚。
これまで感じたことのなかった不快感に、カラは戸惑いを感じ、それが胸の奥底で、妙にもやもやとわだかまっていた。
陽光を怖れ、忌避する者――それは、昔語りでは決まって闇に潜み蠢く存在。 平たく言えば、魔物か夜盗のような、人々に嫌悪される存在でしかない。
「――やだなぁ……」
「あんた、さっきから何一人でぶつぶつ言ってるのか知らないけど、もう少し早く歩けないの? 早くしないと、ラスターが帰る前にガーランを見つけて帰ること出来ないわよ」
考え事に気を取られ、歩みが遅くなりがちなカラを、アルは握る手に更に力を入れて引っ張った。
引っ張られたことで、一瞬バランスを崩したカラは、アルの口から出た「ラスター」の名に、また別の憂鬱な現実を思い出した。
「あのさ――もしかしてさ、ここでラスターとはち合わせする、なんてこと、ないよ、ね……?」
カラは無意識に左頬を押さえた。
物腰穏やかな外見の印象とは違い、ラスターは意外とすぐに手が動く。
カラはこれまでに数度、ラスターに頬を打たれたことがあった。 ラスターの身のこなしは速くて鋭い。 恐らく、力の加減はかなりしてくれているのだろうが、打たれた後は、刃物で切られたかのように、熱く鋭い痛みが残る。 受けずに済むなら、二度と受けたくないものだった。
「さぁ? でも何で?」
鋭く短いアルの問いかけに、まさかラスターに叩かれるのが怖いから、などとは言えず、カラはさり気なく会話の方向を変えていった。
「うぅん。 ただ、その、ラスター、どこに行ったんだろって思ってさ。 まさか、実は何処かで怪我をしていて動けない――なんてこと、ないよね?」
「ラスターはね、レーゲスタで一・二の腕を持つと讃えられる剣の達人、騎士中の騎士なのよ。 そう簡単に傷を負わされるわけないでしょう」
ラスターを見くびるような発言をしたことで、アルの口調は明らかに厳しくなった。
「でも、ラスターは獣騎士なんだよね。 人間一人で〈騎士〉やってる人と、聖獣と一緒の〈獣騎士〉って、同じに考えていいの?」
「獣騎士も騎士も、同じよ。 ただ、聖獣が傍らにいて、その力を主人たる〈騎士〉に貸すってだけで、騎士としての能力は、騎士も獣騎士も同じ。 〈方円の騎士団〉に認められて、正式に叙任されなければ騎士にはなれないのよ。 あんた、イリスに話聞いてなかったっけ?」
ピリピリとしたアルの言葉に、カラは首をすくめた。 救いは、アルが振り返らず、歩きながら答えてくれていることだった。 お陰で、あの黒の瞳に睨まれずに済んでいる。
「そういえば、聞いた……かな?」
〈獣騎士〉という騎士が存在することを、カラはラスターと会うまで知らなかった。
イリスに聞いた話では、〈獣騎士〉は〈騎士〉と公に認められた者の中でも、ごく少数の存在なのだという。
聖獣は、〈獣の器を持った精霊〉ともいわれ、火水風地などの精霊に近い存在で、何かしら、自然と呼応する力を有していることが多いという。 イリスの話では、ガーランは火と風の力を宿す聖獣なのだそうだ。
獣騎士となる者は、精霊の言葉を解し、その力を引き出し統べる能力をも要求される。
それは〈精霊使い〉と称される者達と同じく、単純に騎士としての精進だけでは得られない、生まれながらに具え持った、偶然の能力に由る処が大きい。
それ故、聖獣を従わせる獣騎士は、騎士でありながら、在野の神官と称される〈精霊使い〉に近い存在なのだともいわれている。
〈精霊使い〉は、神に近い存在である精霊と言葉を交わし、精霊の力を己の力として行使することの出来る術者であり、多くは、神殿や教会のない小さな村や町に在り、土地の人々の求めに応じ、その祈りの対象である精霊と、人間達との仲立ちを勤めている。
その中でも特に、火の精霊と交感する者を〈火師〉、水を〈水の守〉、風は〈風使い〉、地の精霊と交感する者を〈地の長〉と称した。
精霊は、自分の認めた人間としか言葉は交わさず、その力を貸し与えることはない。
運良く精霊に遭遇し、人間が呼びかけ、精霊が口を開いたとしても、精霊が言葉を"聞かせる"意思がなければ、人間がいくら耳を傾けたところで、その言葉を理解することは出来ないと言われている。
「そういえば、ラスターはガーランの鳴き声を聞いて、色々なことを判断してたみたいだけど……ひょっとして、ガーランの鳴き声って、ラスターにはちゃんとした言葉に、聞こえてるのかな?」
「なに今更なこと言ってるのよ、あたりまえじゃない。 ガーランとラスターはお互いを選んで一緒にいるのよ。 獣騎士と聖獣は対の存在なんだから、たとえ言葉がなくたって、互いのことは分かるの」
声を抑えつつ、アルはイライラと答えた。
建物内部の冷たく動かない空気が、黒い闇とひとつとなり、そこに侵入した者を拒むが如く、じわりと圧力をかけてくる。
その息の詰まるような重さを、アルは全身で感じていた。 先の見えない闇の怖ろしさは、頭で想像していた以上に大きく、そう簡単に慣れられるものではなかった。
「へぇ、そうなんだ。 オレにはガーランの声、ただの獣の声にしか聞こえないのに。 ガーランの言葉って、オレ達と同じ言葉なのかな? それとも他の国の言葉みたいに、ぜんぜん違うのかな? ね、アルはどんなだと思う?」
自分の緊張と対照的な、暢気で間の抜けたカラの質問に、アルは苛立ちを感じ、それまで握っていた手を乱暴に振り払うと、立ち止まってカラを見返った。
「いい加減にしてっ。 よくそう暢気にぺらぺら喋っていられるわねっ。 知らないわよっ、あたしにだってガーランの声は――」
カラを睨みつけたアルの顔から、みるみると怒りが消え、驚きとも怖れともつかない表情が、それに代わり浮かんだ。
「――? アル、どうかした?」
「――瞳……光ってる」
アルの言葉で、表情で、カラは自分の瞳のことを思い出した。
魔物と罵られ、化物と打ち据えられる原因となる、金色の瞳。 暗がりで、獣のように輝き光る、闇をも見通す眼。
「あ、あの、これは――」
カラは、アルの目を避けるように俯き、視線を床に落とした。
旅に出てからは、透けた身体や《影》のことばかりに気を取られ、瞳のことなどすっかり、とまではいかないにしろ、忘れかけていた。
瞳は変わってはいない。 変らない。
カラは、アルの顔に視線を戻すことができず、目に付いた落ち葉や鳥の羽を拾うふりをして屈みこみ、視線をかわそうとした。
「僕の、瞳は――」
「〈オスティルの瞳〉――月の光を宿し、闇を照らす〈聖なる眼〉」
凛とした声が、カラの頭上に降ってきた。
「――〈オスティルの瞳〉?」
カラは上目遣いにアルを見た。 そういえば、アルと初めて会った晩にも、アルは、カラの顔を覗いて同じようなことを言っていた。
「そうよ。 あんたの瞳はエランと同じ、〈オスティルの瞳〉と言われる、とても稀少な瞳。 あんたの短剣の柄にある貴石オスティルと同じ、とても強い破魔の力を持ち、見得ぬものを見通す眼、だといわれているわ。 ――聞いたことなかった?」
カラはただこくりと頷いた。
「あたしもね、その瞳を持つ人に会ったのは、あんが初めて。 〈オスティルの瞳〉については、イリスから聞いて知っていたけど、本当に、こんな綺麗な金色をしているなんて思わなかったし、何より、こんなに光り輝くなんて、正直言って、驚いたわ。 ――見えるんでしょう。 あんた。 こんな灯りがなくても、この真っ暗な室内の何もかも。 陽の下で見るように、全てが、はっきりと、見えるんでしょう?」
アルの声は、怒っているでも怖れているでもなく、静かで、畏まった響きをしていた。
カラはどう答えてよいか分からずに、蹲り俯いたまま、再び小さく頷いた。
「そう――なんだ」
小さく息を呑む音がカラの直ぐ頭の上で聞こえた。
暗闇からすべての音が消え、カラの身体を押し潰すかのような沈黙が、束の間、その場を覆った。
「――で、あんた。 まさかとは思うけど、その瞳のこと、恥じてるんじゃない――でしょうね?」
いつもの乱暴なアルの声に戻っていた。
その勢いにつられ、カラはアルの顔を見上げた。 アルは帽子を後ろ前に被り、腰に手を当て、カラの顔を覗き込んでいた。
小さなカンテラは、腹の前に器用に結び付けられている。
「だって……この瞳、化物の目だって思ってるんだろ。 気味……悪いんだろ?」
ぼそぼそと、カラははっきりしない口調で答えた。 アルは大きく息を吸い込むと、カラの耳を掴み、無理矢理に立ち上がらせた。
「馬っ鹿じゃないの、あんたっ。 今までのあたしの話、ちゃんと聞いてた? その瞳は、誰もが望んで得られるものじゃない、エランと同じ瞳。 〈聖眼〉と讃えられるほど貴重な瞳なのよ! 生まれたばかりの人間達が闇に迷わぬようにと、エランが人間に贈った宝の瞳とも言われてるんだから。 昔はね、〈導く者〉にのみ与えられる神の瞳として、信仰の対象になったくらい貴いものだったのよ。 今では、その瞳を受け継ぐ人間はほとんどいないから、そういった信仰は廃れたみたいだけど――」
「でもっ――」
アルの言葉を遮るように、カラは突然大きな声を出した。
「でも――この目が獣と同じだって、化物の目だって……何処に行っても、そういうふうにしか……言われなかった」
かつて、人々から受けた仕打ちが頭の中に甦り、腹の底がぐじぐじと気持ちが悪かった。
カラは俯き、堪えるように拳を握り締めた。
握っている拳が僅かに震えているのを見て、アルは、しばらく間を置き、声を和らげて言葉を続けた。
「――確かに、エランの瞳が金の光を宿していたってことは、あまり広くは伝わってないらしいから、〈オスティルの瞳〉の事を知らない人も多いんだろうけど、知っている人は知っているわ。 その瞳は化物の目なんかじゃないってね。 あたしもその一人よ」
優しくなったアルの声に、カラはおずおずと視線を上げた。
「――アルは、この目、気持ち悪くない? 僕のこと――怖いって、思わないの?」
すがるような気持ちで、カラはアルの顔を見た。 アルもカラの顔を真っ直ぐに見ていた。 アルの瞳に映る自分の顔の、金の瞳だけが、より強く揺らめいて見えた。
アルは大きく息を吐き出すと、カンテラを手に持ち直し、帽子を元の向きに被り直した。
「その瞳を気味が悪いなんて思う奴ら、放っておけばいいのよ。 だいたい、瞳の色が何色だって、あんたを知る上ではあんまり関係ないんじゃないの? それに何より、お父さんお母さんから貰った身体を、周りがとやかく言うから恥じるなんて、卑屈極まりないわ。 それこそ――恥じるべきことよ。 誇りなさいよね、その瞳。 それに綺麗じゃない。 満月みたいな優しい金色。 あたし――好きよ、あんたの瞳」
ぷいと背を向けると、アルはすたすたと歩き始めた。
カラは、アルの言葉が耳に馴染まず、ぼんやりと突っ立ったままその背を見送っていた。
その動かない気配を感じたのか、アルは立ち止まり、振り返りざまにカラを睨み付けた。
「はぐれたら困るって、最初に言ったでしょう! さっさと歩い、て――」
カラの金の瞳から、ボロボロと大粒の涙が落ちていた。 しゃくり上げまではしていなかったが、鼻を啜る音が、一定の間を置いて聞こえてくる。
「な、何? なんで、泣いてるの。 ねぇ、どうしたのよ、ね、えっと――カ、カラ?」
アルは困惑したような、おずおずとした調子で問いかけると、カラを気遣うように近付き、涙の止まらぬ顔を覗き込んだ。
「だって、この目、好きだって――言われたこと、な、なかったから――」
言葉を口にして、カラは余計に激しく涙を流しだした。 アルはどうしてよいのか分からずに、おろおろとしたが、雑嚢の中から綺麗な布を取り出すと、カラの顔を優しく拭いてやった。
「そんなに、嫌だったんだ。 その瞳」
アルの声は、今までに聞いたことのない優しさがあった。
「だって、この目のせいで、みんなに、嫌われて、殴られたんだ。 化物だって、追っ払われて、蹴られたんだ。 綺麗だって、言ってくれた子もいたけど、それだって、この目が、闇でも見えるとか、本当のこと、知らなかったから――。 こんな透けた身体になったら、とうとう僕のこと怖がって、目も合わせてくれなかった……」
「瞳が光ろうが暗闇が見えようが、姿がちょっとくらい薄れて透けてしまおうが、そんなこと程度で態度が変わるなんて、そいつはその程度の度量、小心者で上っ面だけいい奴だったってことよ。 そんな奴、むしろ縁が切れて良かったのよ。 今はいいじゃない。 ラスターやイリスがいるし、何てったってあたし、がいるんだから文句ないでしょ?」
「――うん。 でも、フォーリンも、身体がこんなになるまでは本当に親切だったんだ。 すごく優しい声で、僕の名を呼んでくれてたし、時々、お菓子もくれたし」
優しかったアルの手が、ぴたりと動きを止めた。
「――フォーリン? それ、女の子の名前、よね?」
カラは少し落ち着きを取り戻し、アルの顔を見た。 優しかった声が、何故か刺々しい響きに変わっている。
「うん、フォーリンは女の子だよ?」
「ふうん? ――で、そのフォーリンとあんたって、どういう関係?」
「どういう関係って、オーレンにいた時に雇われてた鍛冶屋の娘さん」
「ふぅん、そう? そこで一緒に暮らしてたんだ。 で、その子、可愛かった?」
「うん。 アルと同じで編んだ長い髪をしていて、深い青色の目をした、オーレンでは一番可愛い子だったんだ」
鼻を啜りながら、カラは素直に答えた。
アルは涙を拭ってやっていた布を、カラの顔にぎゅっと押し付けると、くるりと背を向けすたすたと歩き出した。
「のろのろしないでさっさと付いてきなさいよね。 あんたに付き合ってたら、日が暮れちゃうわよっ」
何がアルの気に触ったのか、カラは全く分からなかった。 それでも、このままぼやぼやしていたら、キツイ言葉の三つ四つが飛んでくることは、考えるまでもなく分かった。
「ま、待ってよ。 置いてかないでよっ」
意味もなく拾った品々をズボンのポケットに突っ込むと、カラは慌ててアルの背中を追った。
***
昼を過ぎても、アルフィナは厨房に現れず、厩に行ってもカラの姿はなかった。
「あらまぁ。 やっぱりアラスターの言った通りになったわね。 困った子達だこと」
イリスミルトは、おっとりと頬に手をあてると、慌てるでもなく「どうしましょうか」と、独り言を口にした。
イリスは目の不自由を感じさせぬ足取りで、厩の一番奥にいる黒馬の前まで進んだ。
「エアルース。 あなた、ご主人の香りを纏った少年のこと、覚えているかしら?」
黒馬は答えるように鼻息を一回吐いた。
「あの子とアルフィナがいなくなってしまったの。 ガーランを探しに行ったのでしょうけれど、きっと逃げ戻らなくてはいけなくなるわ。 その時、あの小さな二人ではすぐに追いつかれてしまうと思うの」
イリスは流れるような、柔らかな手付きでエアルースの首筋を撫でると、ふっと小さなため息を吐き、困り笑いの表情でエアルースに再び語り始めた。
「本当はあなた自身、危険な立場なのだけれど、それを承知でお願いをしたいの。 あの子達を迎えに、行ってくれるかしら?」
エアルースは左前足で数回、土をかいた。
イリスは穏やかに微笑むと、エアルースの前に掛けられた太い柵の丸太を外した。
エアルースはゆっくりと囲いから出ると、イリスに額を摺り寄せ挨拶をした。
「エアルースだけを行かせても、子供達が腰を抜かしていたら、乗ることすらできないかもしれませんよ?」
イリスの後ろに、薄汚れた暗緑色の外套を着た男が、眠そうな顔をして立っていた。
「私も行きますよ、イリス」
欠伸を噛み殺しながら、男は寝ぼけた笑顔を見せた。
今朝早くに旅籠に着いたばかりの男の肌は浅黒く、無造作に束ねた黒髪は埃を被り、衣服は全体に白茶けた、かなり疲れきった見た目をしていた。
「着いたばかりで、疲れているでしょう? あなたはお客様なのだから、ゆっくりなさっていていいのよ、ナハ」
イリスは柔らかな微笑を、ナハと呼びかけた男に向けた。 ナハは苦笑しながら頭を掻いた。 その胸のポケットでは、小さな白ネズミが鼻をぴくぴくとさせながら、二人の会話に耳を傾けていた。
「客、といわれると、辛いですね。 いつもツケで泊まらせて頂いている身ですから。 だから、たまには何か一つくらい仕事をしなくては、私も身の置き場がない。 そもそも今回は、そのためにここへ来たのですしね」
人懐こい笑顔を見せるナハの顔を、イリスは目を細め見つめた。
「けれどあなた、こういったこと、苦手でしょう?」
ナハは照れたように短く笑うと、姿勢を正し、イリスに真っ直ぐと向き合った。
「仔細は先日アラスター殿に聞いていますし、自分に出来る範囲のことしか、私はしませんし、やれもしません。 あとはまぁ、やってみないと、でしょう?」
イリスは口元を押さえ、上品な笑い声を上げた。 ナハもつられて苦笑をした。
「そう? では、ここはひとつ、お願いしても宜しいかしら? カナルにも手伝ってもらえると、速いかもしれないわね」
小ネズミはポケットから抜け出すと、ナハの肩に座り、イリスに答えるように短く鳴いた。 ナハもにこやかに頷いた。
「エアルース。 君は、私を乗せてくれるかい? あと、このカナルもね」
首を優しく撫でながらナハが問うと、エアルースは額をナハの頬に擦り付けた。
「いい子だね。 同じ主人に寄り添う仲間でも、ガーランとは大違いだ」
イリスは一瞬俯き、深く息を吐くと、顔を挙げ、毅然とした表情でナハを見つめた。
「地の長・ナハ=ラスクス。 子供達に――カラに、そしてアルフィナに、御助力を願います。 少し痛い目に遭った方が、あの子達には経験となりますが――彼奴等の手にだけは落ちぬよう、お力添えを」
「ご期待に副えるよう、最善を尽くしますよ。 あ、そうだ。 よければ、帰ってきたら湯を使わせて下さい。 半月以上野宿したものですから、"臭う"と、カナルに言われてしまったもので――」
照れくさそうに頭を掻き笑うナハの肩で、白ネズミのカナルが、チィッ、チィッと、不満を訴えるように数回鳴いた。
イリスは微笑みながら、ナハの手を取り、両の手で包んだ。
「あなたの好きな鳥を煮込んだシチューと、甘パンにワインも、用意しておきますよ。 カナルの大好きな白チーズのムースも、ね」
満面の笑みを浮べると、ナハはエアルースに鞍を置き、手綱を取ると厩の外へ向かった。
陽は、天頂から西に傾いていた。
ナハは、見た目からは想像できない軽い身のこなしで黒馬に跨ると、馬首を廻らせ、ゆったりと中庭を抜け門へと向かわせた。
高い壁に囲まれた中庭には、陽の射す場所は僅かにしか残っていなかったが、表の通りには、陽がまだたっぷりと射している。
イリスは、光の中に消えていくナハと黒馬の影を見送った。 黒馬は通りへ出ると徐々に速度を上げ、駆け出したようだった。
「さてと。 では、わたくしも支度を、しておきましょうか――」
額にかかった銀の髪を耳に掛けやりながら、イリスはゆったりとした足取りで母屋に向かった。
***
「――あった。 きっとこれだわ」
カラとアルは狭く長い階段を下り、地下の空間に立っていた。 先程までの階上の空気も冷えていたが、階下の空気は更に冷たく、服に覆われていない指先などには、軽い痛みを感じるほどだった。
「この鉄の扉。 この扉の先は、ガーランが閉じ込められているかもしれない部屋に、つながっているはずなの。 だからこれを、静かに、開けて欲しいの」
アルの表情はそれまで以上に硬く、強張っているように見えた。 何かに緊張している、そう、カラには感じられた。
目の前にある黒い扉はさして大きくはなかったが、重厚で、威圧的な厳しい印象を、その前に立つ者に与えた。
本来は黒の無地だった扉の表面には、後から彫られたものであろう、文字のような文様が八つ、刻み付けるように彫られている。
傷のような彫り跡に、カンテラの小さな灯りが当たって影を生み、その文様をよりはっきりと目立たせていた。
アルは「ちょっと待って」とカラを留めると、雑嚢から硬く煉られた墨棒を取り出し、八つの文様にそれぞれ一本の線を描き足し、更に一つの文様を、それらの文様の上部に描いた。
「さ、いいわ。 やって――」
アルの大きな黒の瞳が、カラを真っ直ぐに見つめた。
次回、最終話〈10:遭遇〉に続きます。