第96話 陸軍省の魍魎
裏口から議場に入った少女たちを最初に出迎えたのは、筋肉隆々たる巨漢の衛兵だった。見た目そのものの抑止力も意識してのことであろう彼らは無表情のまま第七分隊を一斉に取り囲むと、右手を差し出して感情の感じられない声で命令を下した。
「ナイフを渡せ」
『……!』
尋常ならざる様子に少女たちは思わず身構えたが、すぐに腰に提げていたナイフを鞘ごと外して男たちに手渡した。議場での武装は衛兵隊と王族の親衛隊を除けば厳禁であり、将軍といえども容赦なく儀礼刀の武装解除が行われる。
その場に居た全員が、ナイフを渡すことに関して不安を抱いていたのは紛れもない事実である。突然軍評議会の議場に呼び出され、終戦工作を行う軍関係者の警護につけと命令を受ければ当然そうなる。
部隊指揮官であり彼女らを教導したベアトリクスですら、現状には少なからず不安を覚えていた。政治的な案件に巻き込まれることは予め承知はしている――が、裏工作の片棒を担がされるような事態は想定していない。
成立の経緯からして政治的ではあるが、露骨に軍政のいざこざに巻き込まれるという状況を彼女は快く思っていなかった。衛兵に案内されつつも、彼女は辺りを警戒すると同時に状況の裏を読み取ろうと試みていた。
(評議会に加わっている将官の警護なら、軍評議会に詰めている衛兵隊がやればいい……わざわざ思想的にふるいにかけて、国軍の中から特に忠誠心の強い王党派を選んで部隊を結成しているんだ。わざわざ設立されたばかりの部隊――それもイロモノ揃いの第七に依頼することはない……)
第七分隊は平均的な能力で見れば他の分隊には一歩譲る。どうにか苦手を潰して鍛え直すことには成功したものの、合格最低限のレベルに到達するのが限度であった。どの分野にも一定の適性を発揮し、なおかつ指揮官としての能力を持っているエリカとアイリスはまた別として、腕力が自慢の前衛となるカレンやテレサは戦術の理解に欠け、狙撃とサバイバルの達人であるオリヴィアは乗馬に不慣れで、戦場でのファーストエイドや基礎医学に造詣が深いユイは基礎体力に不安を抱えている。
スペシャリストはあくまで後方支援、あるいは狙撃戦隊や山岳部隊といった特務部隊としての運用に徹するというのがこれまでのヴェーザー陸軍の原則であった。国民軍の結成に連れて軍組織の専門化と高度化が進行し、それぞれの専門分野に応じた編成がなされるようになってから、兵科分離の流れはより加速した。
だが、第十三独立幻獣騎兵部隊という特殊運用を前提にした部隊――それも敵地への単独突入すら作戦想定に含んでいる関係上、最低限一つの分隊だけは特殊任務を遂行しうるスペシャリストの集団である必要があった。それが第七分隊――平均的であることを重んじる軍という組織にありながら、最前線で戦い続ける集団の正体である。
だからこそ――彼女らを招集したことにベアトリクスは納得のいかないものを感じていた。軍政に理解を示しつつもボディーガードとしても相応に役立つ副官としてアイリスやエリカを利用したいのなら分からないでもないが、森林や山岳での狙撃戦闘を得意とするオリヴィアや、野戦築城技術や家屋の修理を専門とするテレサに出番があるとは思えない。
(何故第七なんだ。ただ連れ歩くだけなら他の分隊でもいい――第二や第三にも、こいつらの専門分野ほどではないにしろ腕利きはいる。それなのに、なぜ……)
さらに状況を掘り下げれば何かが見えてくるかもしれない――ベアトリクスはそう思ったものの、彼女の思索は案内に立っていた衛兵の言葉によって中断された。
「こちらへ。軍務局外務班長がお待ちです」
外務班長――その言葉を聞いて、ベアトリクスとエリカ、そしてアイリスの表情が途端に緊張を帯びた。魑魅魍魎揃いの陸軍省においても、特に謎のヴェールに包まれた集団――陸軍情報部と深いコネクションを有し、陸軍における外務交渉を一手に握るとされながらも、その正体を決して明かすことはない。
大陸国家であるヴェーザー王国において、外務交渉と軍事力の行使は常に一体である。国民国家の成立に伴って国内に多数の省庁が整備され、かつては王家に一任されていた国家運営が分業ならびに分権化を伴う官僚制度によって行われるようになってからは武力行使と外交は名目上分離されたものの、依然として軍部が外交に関与することはそう珍しいものではない。
無論ながら、外務省とてそれに黙っているわけでもない。外務省が独立した情報機関を自ら設立し、独自の戦略情報の収集に熱心に取り組んでいることもまた事実である。その根源は軍部によって情報経路の一切を握られることに対する組織的反発であり、同じく国際情報の収集を主任務とする陸軍情報部とは致命的なまでに相性が悪い。
そのような状況下において陸軍省の高官――それも外務班長という陸軍行政のトップと接触するという行為は、外務省との決定的な対立を招くことにもなりかねない。既にベアトリクスは外務省からの協力要請を一度撥ね付けており、その直後に彼女らに協力的であった陸軍情報部員――ハーネル少佐が暗殺されるという怪事件に見舞われている。
考え過ぎではないか、という思いはベアトリクスの胸中にも少なからずあった。悪い状況が重なることが軍事において珍しくないのは十分に理解している。だが、あまりにもタイミングが合いすぎている。外務省の国際情報セクションが独自の武力を有しているのではないかという嫌疑は度々持ち上がるが、その噂はすぐさま鎮火する。暗殺の疑いは絶えないがそれを立証する術もないとなれば、誰もがそれについて沈黙する他にない。
(どうしようもないほどに厄介だ。だが――舵を切るべき頃合いでもあるか。それに……この連中の手前、不安がらせたくはない)
ベアトリクスはドアノブに手を掛けながら、後ろに続く第七分隊の兵士たちに視線を向けた。この尋常ならざる状況を理解しているアイリスとエリカの表情は強張りきっており、正視に耐えないまでに緊張を帯びている。軍政の総本山である陸軍省、それも魑魅魍魎が跋扈する外務班となれば、政治的知識があるほど緊張するのはやむを得ない。ベアトリクスは一度深呼吸して覚悟を決め、ドアをノックした。
「……ベアトリクス・ブレーダ以下、第十三幻獣騎兵独立部隊・第七分隊――到着しました」
「……入れ」
すぐさま、重々しい声が響く。分厚い樫のドア越しを貫くような圧迫感――それを前に、少女たちの足取りは重くなった。状況を把握しきっているのはアイリスとエリカの二名であるが、他の者にも自分たちが戻れぬ道へと踏み込みつつあることへの自覚はあった。
ドアを押し開けたその先に腰掛けていたのは、一人の初老の士官――軍服を脱げばその辺りで退屈そうに座っていてもおかしくはないただの男であった。だが、軍服の胸元につけた中将の階級章と、その瞳に宿る苛烈なまでの闘志の炎だけが、薄暗い執務室の中で異様なまでの輝きを放っていた。
(……愛国者の、眼だ)
その尋常ならざる輝きを前にして、アイリスは足を地面に縫い付けられたような気分になった。武門の生まれであるが故、彼女は多くの国軍将校と面会してきた経験がある。その中には、極稀に常に瞳の奥に炎を燃やしている者たちがいた。
その根源は野心でもなく、欲望でもない。ただ純粋に国家の扶翼者であることのみを志向するが故の、刃にも似た純粋な……だが、危険な色を帯びた輝きがそこにある。尋常でない熱量でもって現実を理想へと近づけていく一種の超人――それをして、アイリスは「愛国者」と呼んでいた。
「よく来てくれた。まだ話せないことばかりだが……ともかく座ってくれ」
将校に勧められるままに少女たちはソファーに腰を下ろす。もはや自分が何を考えているのかも分からない緊張の中、彼女らは続く言葉を待っていた。
「私がツェーザル・フォン・シュヴァイガート……陸軍外務班長などをやっている者だ。第十三幻獣独立騎兵部隊の諸君には、アルタヴァ共和国政府との終戦工作を行う間、私の護衛として内外の脅威に対処してもらうことになったのだが――何か、聞いておきたいことはあるかね。今だけなら――何であろうと話そう。せめてもの仁義だ」
暫しの沈黙が続く。それを真っ先に破ったのは、アイリスだった。シュヴァイガート中将の鋭い視線が射抜いたが、彼女は胸を張って正面を見つめ――声を震わせながらも問いを投げた。
「なぜ、私たちなのですか? 護衛なら他にも適格な部隊が存在します」
全員の視線がアイリスへと向けられる。誰もが疑問に思いながらも口にしなかった言葉――それに対して、シュヴァイガート中将は淡々とした口調で答えた。
「簡単だ。君たちが背負っている個人的な事情によるものだよ――ブレイザー家の君ならば、分かるはずだ。この部隊には、生まれつきの軍関係者……それも高級士官や貴族の家族が意図的に集められている。存在そのものが、政治的なカードになるのだよ。単なる護衛でこの仕事を終らせるつもりはない」
「……」
それについてある程度は予見できていたおかげで、アイリスはそれほど衝撃を受けることはなかった――が、続けて放たれた言葉に、彼女は意識を凍りつかせた。
「――そう、自分は無関係であると思っている三人……カレン・ザウアー、オリヴィア・モンドラゴン、テレサ・ヘンメリ。貴様らも、そのうちに入っている」
『!?』
途端に表情を変えた三人を前にして、中将は一瞬だけ唇を歪ませ――そして、すっと人差し指を立て、その言葉でもって少女たちに戻れぬ道を指し示した。
「貴様ら自身も知らなかったことだ。だが――我々の手元には全ての情報がある。もし任務を完全に終わらせたなら……その情報を握りつぶすなり、これからの軍での地位確立に使うなり、好きにする権利をくれてやる」




