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第8話 兵士のレゾンデートル

 早朝の練兵場をどれだけ走ったか少女たちが分からなくなったところで、ベアトリクスは手にしていた棒で地面を強く叩いて呼びかけた。


「よし、全員走り終わったな――では朝食にしよう、喜べ雌豚共、陸軍訓練学校ではパンとスープのおかわりは自由だ! 体が資本だからどれだけ食ってもよい! ただし、意地を張って食いすぎた者は後で教訓を得ることになる。特にそこのお前ら――『スペアリブ』と『ミートボール』! 食い過ぎには気をつけろ!」


 ベアトリクスは二人の訓練生を交互に棒の先で指した。決して肥満体というわけではない。むしろ、世間一般では理想的な体型ではあるが、兵士としては若干ばかり体の一部――戦闘状況において何ら価値をもたらさない胸囲が目立ちすぎているというただそれだけのことである。

 本来ならば反感を覚えるところであるが、昨日一日で軍隊の流儀を叩き込まれた「スペアリブ」と「ミートボール」は、しゃんと背筋を伸ばし――若干ばかり胸を揺らして応えた。


『マム・イエス・マム!』

「いい返事だ、では食堂まで駆け足!」


 ベアトリクスが号令を掛けると、少女たちは猛然と駆け出していった。実のところ、彼女たちは入隊式から二十四時間の間、一切の食事を与えられていない。もっとも、それには訓練における妥当性があった。極度の疲労と空腹は判断能力を低下させるとともに、教官に対する反発の意志を奪う。

 身体の消耗によって反抗できない状況に追い込み、その上で徹底的な打撃を加えれば、人心は簡単に屈服する。古今東西の拷問や洗脳において、睡眠と食事を奪うというプロセスは必須のものであった。どれだけ屈強で忠義深い者であっても、飢えと睡眠不足に勝つことはできない。それを緩やかな形で実践したのが、ベアトリクスによる教練であった。

 少女たちが食堂の前まで集まると、ベアトリクスは再び号令を掛けて全員をその場に並ばせ、所定の糧食――陸軍主計科によって決められたメニューの配給を受けさせた。黒パンにいんげん豆のスープ、グリーンサラダと干鱈――決して豪華ではないが、一般庶民と比較して栄養的には優れた朝食である。全員が席に着くと、ベアトリクスは手にしていた棒で食堂の床を叩いた。


「雌豚共、食ってよし! ただし無駄口は叩くな! 朝食後は陸軍史についての講義を行う。可能な限り迅速に、第四講堂に集合せよ!」

『マム・イエス・マム!』


 少女たちはそう言って、手元にあったナイフとフォークを取って朝食にがっついた。それほど味わい豊かというわけではないが、二十四時間何も口にしていなかった彼女たちにとって、それはまさに天の恵みだった。

 アイリスも同じように、手元の黒パンにかじりついた。男爵家の末端とはいえ、貴族である彼女にとって固く酸味が強い黒パンは馴染みのないものであり、お世辞にも美味といえるものではなかったが、肉体にのしかかる極限の疲労と空腹は、本能的にエネルギー源を彼女に求めさせた。

 少女たちが配膳された朝食を全て食べ終わる、あるいは二杯目のスープをを飲み干すのには十五分とかからなかった。ベアトリクスは懐中時計を片手に彼女たちを眺めていたが、その様子を見て満足そうに頷いた。


「大いに結構。雌豚どもの唯一の取り柄だな。戦場ではのんびりとメシを食っている余裕はないからな。では、行くぞ。目標、第四講堂――トレイを返却した後、出撃だ」

『マム・イエス・マム!』


 少女たちは素早く整列し、ベアトリクスの後に続いて騎兵学校の校舎を歩く。すれ違った男子学生の一団が彼女たちに視線を向けてある者はウインクしたが、それに応える余裕のある者はその場に誰一人としていなかった。空腹こそ解消されたが、全身を包む倦怠感だけは如何ともし難い。

 重い体を引きずって歩くこと数分――ベアトリクスは、分厚い樫の扉の前で立ち止まって、掲げられた真鍮のプレートを指さした。


「ここが第四講堂だ――貴様らにはもったいないほどの立派な講堂だ。では、入れ。おい、『お嬢』――開けてやれ」


 先頭に立っていたアイリスが扉を開けると、そこにあったのはあちこちが古び、随所に補修の痕跡が見られる、良く言えば年季の入った――悪く言えば、限りなく廃屋に近い講堂だった。手入れは間違いなく行き届いているが、建物そのものの老朽化には抗えないといった有様であった。

 理由は明白――部隊の新設に際して財務省が反発したが故である。隣国アルタヴァ共和国との緊張が深まる中にあって、国防に関する一切を取り仕切る防衛三省庁――陸海空それぞれの軍部省は予算の増額を求め、兵数の拡充や新型艦船の建造、あるいは航空戦力として機能するグリフォンやワイバーンの保有枠拡大などを要求した。

 無論のこと、財務省とて国際情勢の緊迫についての理解はある。ただ、正面装備の拡充――すなわち、火砲や新型艦艇といった「目に見える」装備について重点的に投資が行われる一方で、部隊の新設という目立ちにくい部分には予算が配分されにくい傾向があり、講堂の修繕などという項目は後回しにされていた。そのような状況下において第四講堂が維持され、女子騎兵部隊の訓練生のために使用可能な状況に保たれている背景には、陸軍上層部の並々ならぬ熱意があった。

 もっとも、少女たちはそのような背景を知る由もない。ベアトリクスに指示されるままに、軋みとがたつきが残る三人掛けの席に「槍仲間」とともに腰掛ける。アイリスは講堂の中ほどで着席し、隣に腰掛けた二人――カレンとエリカに目をやった。朝食中も近くに座っていたが、二人は視線を合わせることもしなかった。

 エリカはカレンをほぼ完全に無視しており、必要がなければ声をかけることもない。無駄口を叩く余裕がない訓練下においてはそれでも問題はない。だが、それはあくまで個人のレベルにおいて問題が完結している場合に限られる。騎兵はあくまでチームであり、今後はその結束を試す試練が与えられることが確実となる。

 そのとき、エリカの取っている態度は間違いなく問題となる――自分自身が完璧であることと、チームが目的を達成することは全く別の領域で語られることだ。軍人としての立ち居振る舞いが完璧であったとしても、仲間を守ろうとしない者が戦場において生きながらえることはない。


(……もう少し、助け合ったりしようと思わないのかな)


 アイリスはエリカを横目に見ていたが、やがて首を振って視線を正面に向けた。前方にはヴェーザー王国の国旗と国王の肖像画が掲げられており、ここが軍学校であることを彼女に強く認識させた。全員が席に着いたのを見てから、ベアトリクスは教壇の下から指し棒代わりの鞭を取り出し、それで黒板を強く叩いた。


「いいか、脳ミソカラッポの雌豚共――これから貴様らに、陸軍騎兵部隊の成り立ちを最初から最後まで徹底的に叩き込んでやる。私が語る全てを覚え、一人ひとりが誉れ高き陸軍の存在意義全てを認識したとき、貴様らはようやくスタートラインに立つのだ。一言たりとも聞き逃すな」

『マム・イエス・マム!』

「良い返事だ、ポン引きども。では、これより教本を支給する――いいか、絶対に紛失するな。たかが本一冊ではあるが、これら全ては国民の血税によって印刷されたものだ。おい、貴様――後ろのロクでなし共にこれを回してやれ」


 教室の最前列に座っていた訓練生は教本とノートの束を受け取り、一冊ずつ取ってそれらを回していく。アイリスもそれを受け取り、丁寧な装丁が施された表紙をまじまじと見つめた。飾り気のない灰色の表紙に、金箔押しで「ヴェーザー王国陸軍史」の文字が刻まれている。アイリスは新鮮な気持ちでそれを眺め、ページを捲った。内容そのものについては、武門出身の彼女もよく知っている。近代的国民軍が組織されるより以前――諸侯の軍役奉仕によって軍が構成されていた「騎士の時代」から、小銃が全ての兵員に支給された「兵士の時代」に至るまでの概略的なものだ。

 武門の務めとして戦史を読み解いてきたアイリスにとって、それらは概ね復習的内容に留まるものだった。だが、彼女以外の者たち――これまで軍と関わりを持たなかった平民の少女たちにとって、戦史は全く未知の領域にあるものだった。興味深げにページを捲る訓練生を前に、ベアトリクスは鞭を鳴らして呼びかけた。


「よし――まずは全員、教本の最初のページを開き、起立しろ。まずはそれを読み上げてもらおう。これから貴様らが兵士として生きる上で、最も大切なことがそこに書かれている。全員で、ゆっくりと読み上げろ」


 ベアトリクスが指示すると、少女たちはそっとページを開き、そこに記されていた一文を揃って読み上げた。


『我ら先陣に在りて、全ての兵を導かん。我ら後詰めに在りて、全ての兵を守り抜かん。安らぎは遠く、勝利は近い。打ち下ろされる白刃の下に、降り注ぐ矢の雨の下に、我らは永遠の名誉を知る――』


 その言葉は、少女たちの胸の奥に重々しく響いた。王国陸軍標語――この場においてそれを知っていたのは、武門の貴族であるアイリスと軍人の家系に生まれ育ったエリカのみである。彼女ら二人にとってはおとぎ話よりも慣れ親しんだ言葉であったが、これまで軍事とは無縁に生きてきた少女たちにしてみれば、それらの言葉は自分が軍に身を置いていることを強く意識させるものであった。


「どうだアバズレ共、少しは眠気も消えたか。では、早速講義を開始する。全員、席に着け。まだ教科書は開かなくていい」


 その場に居た少女たちが一斉に腰を下ろす。それを確かめると、ベアトリクスは黒板を軽く鞭で打ってから、彼女たちに問いを投げかけた。


「兵士は何のためにいるか、あるいは軍隊は何のためにあるか――答えられる者はいるか。これに正解はない――何でもいい、答えてみろ。そうだな……『チンピラ』、貴様はどう思う」


 すっと鞭の先を伸ばし、ベアトリクスはアイリスの隣に腰掛けていたカレンを指した。カレンは暫し考えてから、小さく頷いて口を開いた。


「外敵と戦うため……です」

「間違いではない。敵と戦い、独立を守る。それも一つの役目だな。では『芋』、貴様はどう思う」

「えっと――あらゆる危害要因から国民の命を守るため、です。戦争のみならず、内乱や災害から国民を救うためにも、軍は出動します」

「よろしい。治安維持や救援は、確かに重要な役目だ。では……そうだな、『お嬢』。何とか言ってみろ」


 ベアトリクスは鋭い視線をアイリスに向けた。アイリスは少しばかり悩み、自分なりの答えを探して口を開いた。これまで武門の娘として、ある程度はこのような思索も深めてきた。


「主権国家として、外交の場に立つためにあります」

「……面白い答えだな、もう少し続けろ――この場の全員にわかるように、詳しく言ってみろ」

「いかなる条件においても、武力による担保がなければ外交は成立しません。国家が国家として存在するために、武器を携えた集団は必然的に求められる。国家を卵になぞらえるのならば、軍隊、そして兵士はその殻となる……私は、そう考えています」


 暫し沈黙があった。やがて、ベアトリクスは何度か頷いてアイリスに拍手を送ったのち、全員をざっと見回した。


「なるほど、流石によく分かっている――『お嬢』の言ったとおり、諸君らは国家の殻だ。逆に考えれば、貴様らがいなければこのヴェーザー王国は成立し得ないということになる。貴様ら一人ひとりが兵士として完成されることによって、王国の存立が守られる。この座学も、そこに繋がっていることを心に留めておけ。では、授業を始めよう――まずは5ページを開け」


 少女たちは一斉に教科書のページを捲る。その瞳には、先程までは見られなかった真摯な思いが満ちていた。


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