第7話 小さな軋み
古今東西を通じて、概ね軍隊の朝は早い。それはヴェーザー王国陸軍騎兵学校においても同じことで、ユニコーン騎兵を目指す候補生たちにも、起床の時刻は平等に訪れる。学舎に鳴り響くラッパの音を合図に、少女たちはゆっくりとベッドから抜け出し、全身の筋肉に走った激しい痛みに、揃って床に突っ伏した。それはアイリスも例外ではなく、腰と肩に走った鈍痛に苦悶の声を上げた。
「ぐっ……あ……っ!」
およそ乙女のものとは思えない苦悶の声が部屋に響く中、三段ベッドの一番上に居た人物――エリカだけは淡々とした表情でハンガーに掛けていた戦闘服に着替え、自分のベッドを素早く整えて、床に突っ伏したまま苦しんでいるアイリスとカレンに視線を向けた。
「早くして。ベッドメイクのやり方なら、入校前に配った教本に書いてあったはずだけど。『槍仲間』の不手際は私の不手際にもなるのだけど。足を引っ張らないでくれるかしら」
槍仲間――それは、三人一組で構成される騎兵部隊の最小構成単位を指す。互いに援護し、背中を守り、穂先を揃えて敵陣を突き破るための最低限の人数――それは、昔から一度も変わったことがない。
三人一組となって支え合い、戦場を駆ける集団こそが、エリカの言う「槍仲間」である。そして、槍仲間には完璧な調和と統制が求められる。三騎の騎兵が一体となって戦う関係上、あらゆる動作において仲間に遅れることは許されない。それ自体は武門の生まれであるアイリスもよく知っていた。だが、肉体に受けた打撃は彼女の円滑な行動を著しく阻害し、結果としてエリカに大きく遅れを取らざるを得ない状況に追い込んでいた。
軍隊ではベッドメイクは必須――それは、アイリスも重々承知である。シーツの端を丁寧に折り畳む練習そのものは、屋敷でメイドたちとともに重ねてきた。本来の彼女であれば難なくこなせたであろう。だが、全身に受けた激しい殴打と六時間にも渡る夜間訓練、そしてそれらに伴う寝不足の影響で、彼女の身体は所定の能力を発揮できないまでに追い込まれていた。
上がらない肩を無理に動かし、ぎこちない手付きでベッドメイクを進めるアイリスを見て、エリカはため息をついて首を振り、そっと手を差し伸べた。
「……手伝うわ。見ていられないもの――貴女たちが懲罰を受ければ、私も同じように責任を取らされるのよ。わかって?」
その言葉には少なからず棘があった。反感を抱かれるのも仕方ない、と思う半面、アイリスは彼女に対して、どこか敬意にも似た感情を抱いていた。エリカは手早くベッドメイクを済ませると、一人で四苦八苦するカレンに視線を向けた。
「貸して。時間の無駄よ」
「嫌だ。お前の力なんて借りるもんか」
「くだらない意地を張るのはやめて。貴女には出来ないわ」
「くだらないって何だ、おい――」
カレンの視線が鋭さを帯びる。その瞬間、エリカはカレンの手からシーツをひったくると、止める間もなくベッドメイクを終えてしまった。カレンがきょとんとした表情でそれを見つめていると、エリカはつまらなさそうに背を向けて、一瞥することもなく首を振った。
「……貴女のためじゃないわ。私はただ、自分に懲罰が降りかかるのが嫌だっただけ。お礼なんていらない」
「……ああそうかよ、今の一言がなきゃ、少しはありがたいと思ったんだがな――けっ、何が『槍仲間』だ、陰険フナムシ女が」
「何とでも言いなさい。私に迷惑を掛けなければ、それでいい」
「ああそうかよ――感謝したアタシが馬鹿だった」
苛立ちを隠そうともせずカレンはエリカの背中を睨みつけ、それから苦々しげな表情で丁寧にメイクされたシーツを眺めた。
「……ったく、ムカつくビッチだ。行こうぜ、お嬢。点呼が始まっちまう」
「う、うん……」
初日の深夜に行われた三人一組で丸太を手に走り続ける訓練は、まともに走れたのは最初の一時間で、残りの五時間は丸太を担いで息も絶え絶えの状態で歩きながら殴られるという惨憺たる結果に終わったが、その地獄の六時間はある種の連帯感を少女たちの間に生み出していた。周囲への敵愾心を隠そうともしていなかったカレンも、言葉遣いこそ乱暴なままだが、今ではアイリスと普通に会話する程度に落ち着いていた。
入隊初日の不安の中で突如として与えられた試練に対し、曲がりなりにも共同戦線を展開して対処したという事実は、少女たちの中に確実に戦友意識を生み出していた。同じように苦しみ、同じように汗を流したという経験がそうさせる。
だが、同じ苦境にありながら表情一つ変えることなく任務を完遂し、ただの一度も鉄拳を浴びること無く完璧な所作を見せつける者がその中にあったとすれば、その者に対して向けられるのは、称賛ではなく苛烈な敵意である。自分たちが苦しみながら走り続ける中で、ただ一人表情を変えることなく全てを完璧にやり遂げたとなれば、その余裕に対して「凡人」はある種の怒りを覚える。嫉妬というにはあまりにもどす黒い、だが人間としてはありがちな感情が、エリカに対して少なからず向けられていた。
駆け足で練兵場へと向かうエリカの背中を追いながら、カレンはアイリスに問いを投げかけた。
「なあ、お嬢――あのインテリ、どう思うよ」
「どうって?」
「人間として、だよ。確かに軍人らしいといえば軍人らしいけどさ、なんつーか……その、思いやりがねえだろ、アイツ」
「……そう? ベッドメイクも手伝ってくれたけど」
「そうじゃねえんだって……仲間を思って助けたようには見えねぇだろ、アレ」
言われてみればそうである、とアイリスは感じた。エリカ自身もはっきり言っていた――足を引っ張らないで、と。それだけではなく、貴女たちのために手伝ったわけではない、とも言っていた。何が彼女にそうさせるのかは分からない――だが、そこには明確な拒絶の意志が見える。
「まあ、確かにちょっと冷たい人だけど」
「冷たいなんてもんじゃねえよ、ほとんど機械人形だ。訓練中何回かコケたとき、お嬢は助けてくれたよな。でもアイツは、丸太こそ持っていたけど、アタシのほうを向こうともしなかった。お嬢がコケたときも、そうだった。気に食わないやつだ」
「……そ、そうかな」
「まあ、訓練中は協力するけどな。デキるのはわかるけどよ、一人だけエリート気取りは気に入らねえ――行こうぜ」
カレンはペースを上げて、練兵場へと走っていく。入隊して二日目――訓練部隊に早々に火種が生まれつつあることを感じたアイリスは複雑な心境でカレンの後を追った。
「おはようクソッタレのアバズレ諸君――よく眠れたか? 隣に客のいないベッドはどうだった? ××××は寂しくないか?」
練兵場に到着した少女たちにぶつけられたのは、昨日の一日で耳に馴染んでしまったベアトリクスの下品な罵声だった。だが、彼女たちの感性はとうに麻痺していることに加え、極度の疲労がその罵声を当然のものとして受け入れさせた。
「どうした売春婦諸君、元気がないではないか――男を求めてケツを上げてみろ、これまで路地裏でやってきたように、品を作ってみせろ! 三秒やる、笑えないやつの脳天には鉛玉を食らわせてやる、ほら笑え、手本を見せてやる――3、2、1……」
ベアトリクスは腰に提げた拳銃に手を掛けながら、嗜虐的な笑みを浮かべて少女たちを見回した。無理にでも笑わなければ殺される――そう思った少女たちは、半ば無理矢理に笑みを浮かべた。それに満足したらしいベアトリクスは、拳銃から手を離して何度か頷いた。
「大いに結構――若者は元気が一番だ。では、朝の体操といこうか。陸軍式××××おっぴろげ体操の時間だ。全員、ある程度距離を取って散開しろ。それから、羞恥心があるなら今のうちに捨てておけ」
不穏な言葉に、少女たちは顔を見合わせながらも少しばかり距離を取って練兵場に整列した。ベアトリクスはその前に立ち、彼女たちの前で体操の基本動作を一つ一つ行っていく。それらは概ね一般的な健康体操に近いものだったが、時折脚を大きく広げて腰を突き出すようなポーズが入り混じり、少女たちを困惑させた――だが、真似ることに僅かでも恥じらいを持った瞬間、手にしていた棒の一撃が彼女たちを容赦なく打った。
「貴様ァ! もっとケツを突き出せアバズレ! 夜ごとにやってきたことだろうが、何故出来んのだ芋女! クソ田舎の娯楽は人殺しと×××ではないのか、ええ、何とか言ってみろ! 出来るのか、出来ないのかどっちだ!」
「マム・イエス・マム!」
殴打された少女――「芋」のホーリーネームを受けたカーラは、三つ編みの髪を振り乱して腰を突き出した。屈辱に閉じた目の端には、涙の粒が滲んでいる。ベアトリクスはにやりと笑い、次の獲物を探して目を光らせた。屈辱的な気分を味わっていたのはアイリスも同じことで、暫しの間、腰を突き出すポーズの意味を考えていたが、自分の後ろで誰かが殴られる音を聞いて、その意味を考えることをきっぱりと中断した。
十分程度の殴打と罵倒が続いた後、少女たちはようやく「陸軍式××××おっぴろげ体操」の苦痛から解放される運びとなった。確かにウォーミングアップにはなった――だが、早朝から辱めをうけた少女たちの表情は一様にして暗い。だが、ベアトリクスは彼女たちの苦しみを一切斟酌せず、練兵場に積み上げた丸太の山を指差して叫んだ。
「昨夜と同じようにやれ! 少しでも遅れたり、隊列を乱したりしてみろ――朝から特大の×××でファックして、××××からポット一杯分のミルクを飲ませてやる! どうだ、やる気は出たか!」
『マム・イエス・マム!』
少女たちが一斉に唱和し、地面に置いてあった丸太を手に取る。アイリス、カレン、エリカの三人も同じように丸太を手に取ったが、他の隊のように協力的な雰囲気は見られない。どこか薄い膜に包まれたような――あるいは透明な仕切りによって隔てられているかのような具合がして、アイリスは居心地の悪さに首を振った。
(大丈夫、まだみんな慣れてないだけだから――)
嫌な予感を打ち消すように脚を動かす。もちろんながら軽快にとはいかない。彼女の動きを鈍らせているのは、三人組の中に漂うなんとも言えない緊張感に他ならない。背後から感じるひりついた空気から逃れるように、彼女はただ前に向かって駆けた。
その背後には、苛立ちを隠さないカレンと、それを冷たい表情で見つめるエリカの姿がある。そして周りには、不穏な空気を感じて目を逸らす者と、最初から完璧に全てをこなすエリカに対して、強い反発の念を抱く者がいた。
――ユニコーン騎兵訓練部隊が編成されて二日。既に、少女たちの関係は軋みを上げ始めていた。