第76話 最後の試練
訓練開始から六十五日目――次々と課される卒業試験を前に、少女たちの疲労は限界に達しつつあった。試験の内容は当日にしか告知されず、どれだけの期間続くのかも判然としない。ただ一つ彼女たちに道を示していたのは、几帳面に日記をつけていた者が起床ラッパの直後に発した一言だった。
「……あと五日で、わたしたち卒業みたいだよ」
誰がそう言ったのかは分からない。だが、その一言で少女たちの表情に光が差した。戦闘訓練は地獄というのも生ぬるいほどであり、連続で休む間もなく続けられる試験は、心身の限界へと少女たちを押しやっていく。戦場が狂気に満ちた場であり、その狂気に順応するために限界を試されているということは分かる――が、積み重なった疲労ばかりはどうにもならない。
やっと訓練が終わり、多少ばかりの自由を手にできる――それを知った少女たちは互いに視線を交わしてうなずき合い、手早く軍服を着込んで兵舎を出る。今日もまた試験が始まる――だが、それもあと五日、終わりはとうに見えている。そう思って練兵場に整列した少女たちにかけられたのは、思いもよらない言葉だった。
「よし、よく来たウジ虫共。突然だが、これから五日間をかけて貴様らに最終試験を行うことになった。五分やる――基本装備を持ってきて、分隊ごとに分かれろ。最後は野外行動試験だ。詳細は後ほど説明する――駆け足!」
『……!?』
思いもよらない一言――全てが練兵場で完結するものと思っていた少女たちは、驚きに目を見開いた。だが、二ヶ月以上にも渡る軍隊生活の日々は、彼女たちに即座の行動を決意させた。
『マム・イエス・マム!』
全力で少女たちが駆け出していき、武器庫から小銃と槍を手に駆け戻る。第七分隊もその例に漏れず、自分の武器を手にして全力疾走で練兵場へと再度集合した。訓練の内容がその日決まるようなことは特に珍しいわけでなく、それすら適応性を高めるという目的の上で行われていることは理解しつつあった。
全員がその場に集合したことを確認すると、ベアトリクスは辺りをざっと見回し、手にしていた棒で地面を叩きながら少女たちを見回し、それからふっと笑みを浮かべて口を開いた。
「まずは、ここまで六十五日間をよく耐えたことを祝福しよう。クソの山を這い登ってきた貴様らが、これから何者になるのか――私は、それを今から試させてもらう。実戦を生き延びた者である貴様らに言っても今更かもしれないが、最後の試験は実戦と同じく、貴様らの肉体と精神の全てを使って切り抜けてもらうことになる」
『……』
「敢えて言っておこう。これから貴様らの前に立ちはだかるのは、並の試験ではない。貴様らをくず鉄から一振りの剣に変える最後の炎であり、審判の鎚だ。では、これより貴様らに地図を配布する。分隊各員はそれぞれ騎乗し、時間内に試験予定地へ向かってそこで試験についての最終説明を受けろ。私からは以上だ」
早口にそう言い終わり、ベアトリクス全員に地図を配って口笛を一度吹いた。それに合わせて彼女の愛馬であるユニコーンが稲妻のような勢いで駆けてくる。渡された地図を開いて確認するよりも早く、その姿はどこかへとかき消えていた。
「……えっと、どうすんだこれ」
地図を受け取ったテレサは暫しその場に立ち尽くしていたが、カレンはその背中をぽんと叩いて笑みを浮かべた。
「どうもこうもねェよ、行くだけさ。これから五日間、最後の根性を試されて、それが終わりゃ晴れて陸軍の精鋭部隊――悪い話じゃないだろう? なあ、みんな?」
カレンの言葉に全員が頷きを返す。あまりにも唐突な試験通知であったし、最終試験がこのようなものだとは思わなかった――が、少女たちの胸の中は晴れていた。これまでの六十五日間が無駄でなかったことを証明し、陸軍兵士として自らの力を示すいい機会であると、彼女たちは確かに認識していた。
「ユニコーン隊の最精鋭、不死身の第七分隊の総仕上げだ――やっちまおうぜ」
カレンが右手を差し出すと、全員がその上に手のひらを重ねる。軍に入ったきっかけはそれぞれに違う――だが、彼女らの思いは一つだった。仲間を守り、正義を貫く。分隊のために戦い、命を捧げることも今や惜しくはない。血と誇りで結ばれた絆、それが第七分隊の思いをひとつに繋ぎ止めている。
「ってわけだ――隊長、頼むぜ?」
「……ええ」
全員の視線がエリカへと集まる。本人が一人の兵士として段違いに優秀であり、なおかつ指揮官として高い適性を持つことは全員が知っているし、本人にもその自覚はある。だが、直接「隊長」と呼ばれたのはこれが初めてだった。
訓練中は便宜上の分隊長として振る舞ってきた――だが、それは教官から与えられた役目に過ぎない。エリカはそう認識し、自分が実際に部隊の命を預かることになるとは思っていなかった。
指揮官としての適性ならばアイリスにもあるし、戦史と戦略に関する造詣の深さ、そして政治に関する機微でいうならばアイリスが一段上を行き、馬上での戦闘技能においても他を突き放すだけの力を示している。そうであるのに、当のアイリスですらエリカが隊長を務めることについて、何ら異論を示してはいない。
「……私で、いいの?」
「違うよ。エリカじゃないと、駄目なんだよ」
「私が? けれど、私は貴女みたいに優しくはないし、馬上戦技の腕も――」
「けれど、私はそれでもエリカが隊長になってくれたらいいと思う。エリカには、私にない良いところがたくさんあるから」
「……そうかしら?」
「私はお人好しだから誰かを信じても疑うことはできないし、犠牲を強いられる状況になると動けない。けれど、エリカは違う。切り捨てるべきときに、慈悲を打ち切る覚悟を持ってる。それは――指揮官として、何よりも必要なことだと思う」
その一言は、研ぎ澄まされた刃のようにエリカの胸を強く打った。正しくあろうとするあまり、その言葉と行動がある種の冷酷さすら帯びることに彼女は悩んでいた。だが、第七分隊の兵士たちは、誰一人としてそれを否定しようとはしない。ただ優しいだけではリーダーにはなり得ないと理解し、非情さを秘めた心を正しいものとして受け入れる――その懐の深さに、エリカは不思議と心地よいものを感じ取っていた。
「なら――」
右手が槍の柄を握りしめる。あと一週間もしないうちに、第七分隊は最前線へと送り込まれるか、その準備に入ることだろう。そうなったとき、隊員の命を預かるのは自分だけになる。そうなれば他の何者も責任を負わず、エリカはただ自分の全てをもって、隊員を守り導くために戦わなければならない。その重責を背負ってなお、前へと進み続ける勇気がなければ、特殊部隊において分隊長など務まるはずもない。
だが、彼女のもとよりの才覚、そして生まれた家で与えられた特殊な訓練の数々は指揮官としての基礎を形成し、陸軍騎兵学校で過ごしてきた六十五日間は、その力を更に引き伸ばしてきた。エリカ自身の意志はもとより良質な鋼になるべく鍛えられており、訓練という炎と鎚によって更に強靭にされることで、前へ進み続け、作戦目標を達成できる現場指揮官としての力量を確かなものとしていた。
「――私は、全員の命を預かる。必ずみんなで卒業して、最後まで生き残ろう。アルタヴァと戦うことになっても、私たちは負けたりしない」
『……!』
全員の表情に明るさが宿る。敗北も屈辱も、この分隊には似合わない。そう知っているからこそ、彼女たちは自らの運命を知っていても胸を張れる。卒業と同時の前線への投入――恐らく平和が長続きしないだろうということを知りながら、それでも戦い抜く誇りだけは忘れない。
「これで最後よ。どうせなら、教官を驚かせてから卒業しましょうか――」
エリカがしゃんと背筋を伸ばして胸を張る。瞳には鋭い輝きが宿り、登りゆく朝日を照らして鮮やかな輝きを放っていた。
――今日のこの日、少女たちの戦いの第一歩が、静かに幕を上げた。




