第72話 誇りの閃光
槍を携えたアイリスとエリカは、真剣な表情で向き合っていた。もっとも、お互いの顔が見えるような距離ではない。百メートル以上はある馬上槍試合のレーン上で、二人は手にした槍を水平に構えてランスレストに掛け、相手の動きを静かに見つめている。言葉は届かず表情もわからない――だが、考えていることだけは手に取るように分かった。負けたくない――それだけだ。
もとより馬上での戦技に心得があり、お互いにユニコーンの持つ能力を十分に引き出すとともに、実戦を経験して度胸もつけたアイリスとエリカが模範演技の対象として選ばれるのは、ある種必然的であった。相手を打倒し得るのは自分以外にありえないという誇りがあり、それと同じく磨き上げてきた自らの武芸に比肩し得るのは相手の業に他ならないだろうという確信じみたものまでもが、彼女らの胸の奥にあった。
アイリスとエリカの間には、生まれながらに使命を背負った者同士の不思議な信頼関係と友情がある。武門の長女として戦争を自らの人生の一部に取り込み続けた者と、軍人一家に生まれ、自らもその優れた才覚によって軍に貢献することを宿命付けられた者――貴族と平民という違いこそあれども、彼女らは国家のために戦うことを生まれた瞬間から定められてきた。
(乗馬の技術と刺突の威力なら、騎士団で訓練を受けた私が上だけど、エリカの攻撃は正確だから、先に当てないと確実にヒットを取られる――)
槍を手に、アイリスは遥か彼方で身構えるエリカに視線をやった。突進速度は領地の騎士団で訓練を受け、軍馬に慣れたアイリスが数段上回るが、エリカにはその一撃を見抜いて反撃に転じるだけの冷静な判断力がある。迎撃の一閃が突撃よりも早く左胸を穿つということは十分にあり得る――アイリスは自らの技量を上回る業でもって応じてくると考えていたが、エリカもそれは同じであった。
(アイリスの攻撃は間違いなくこの中では最速――もし本気で突進されたら、攻撃そのものが見えないかもしれない。そうなったら、迎撃も何もない……!)
エリカにも馬上での戦技における心得はある。だが、それらは騎士団のように騎兵槍を手にした突撃戦闘というよりも、サーベルを用いた撫で斬りの技術や、拳銃を幾つも装備して馬上から連続射撃を仕掛ける射撃技能といった、近代的戦術に偏っている。槍も扱えないことはないが、それらはあくまで着剣した騎兵銃を扱う要領での延長に過ぎない。本格的な槍術の技量ではアイリスが圧倒しており、最大速度での突撃に対しては、彼女の優れた動体視力と判断力をもってしても確実な迎撃を期すことができるとは言いがたかった。
槍試合は三本勝負の二本先取、あるいは相手の降参によって勝敗が決する。突撃の速度を見切ることができなければたちどころに敗北するであろうという実感がエリカにはあった。レーン上の標的を刺突する訓練を見ていてもそれは理解できる――アイリスの突撃速度は、他の者とは一線を画している。騎乗する《ブリッツ》との相性の良さ、そして彼女自信が幼少の頃より磨き続けてきた馬術の腕前が、傍目には無謀に見えるほどの高速突撃を可能とする。
対するエリカの最大の武器は、優れた判断力による確実な迎撃にある。槍を接触させて僅かに逸らし、カウンター気味に相手の左胸を突き刺す――それを可能とするだけの動体視力を彼女は備えている。初戦こそ落とすことはあっても、二戦目には刺突の速度を完全に見切り、迅速な迎撃によって相手に先んじる。
なおかつ、基礎体力という面においてもエリカがアイリスを大きく突き放している。一度だけならば問題ない――が、二本先取となると、もともとの体力がモノを言う。アイリスも訓練生全体で見れば上位に位置する――が、幼少期から軍人となることを自らの宿命と捉え、鍛錬を重ねてきたエリカの体力はさらにその上を行く。大工仕事で鍛え抜いたテレサや、山岳での暮らしに親しんだオリヴィアといった圧倒的な力を持つ例外を除けば、彼女の体力は間違いなく訓練生の中でも最上位に属するものであった。
それ故、アイリスはただ一撃に全てを懸ける。三本目の戦いになれば、体力と判断力に優れたエリカのカウンターが炸裂することは間違いない。一本目は確実に取る――そして、二本目で更に強烈な一撃をお見舞いしてエリカの上を行く。それ以外に勝ち目はないとアイリスは感じていた。
「……行くよ」
自らの愛馬である《ブリッツ》のたてがみを一度撫でて、アイリスは槍を水平に構えた。確かにこれは訓練であり、普通の訓練生が戦ったところで致命的な結果を招くことはない。だが、戦闘技術に優れたアイリスとエリカが激突すれば、ただの一撃で重傷を負わせることも十分に考えられる。
だが、二人の顔に怯えや迷いはない。自らに刻み込んだ業の数々、そして戦士の宿命を生まれながらに背負った者同士の誇りが、苛烈な激突の予感を胸の高鳴りに変えていた。お互いに騎兵として最優の誇りを持っており、なおかつ自らを妥当し得る存在に対して最大の敬意を払っている。
二人の間に漂う空気は張り詰め、吹き抜ける風すら刃の鋭さを帯びる。その場の誰もが話すこともできないまま数秒が過ぎる――その光景は、さながら騎士同士が名誉を懸けて戦う一騎打ちのそれに近かった。事実として、彼女らは胸に誇りを懐く騎士である。小銃で武装した国民軍が形成されるにつれてその輝きは歴史の彼方に薄れつつあるが、彼女ら自信の誇りにはいささかの曇りもない。
「……勝とうか、《シュトゥルム》」
一言声を掛け、エリカも同じように身構える。銃剣のように完璧な構えはできない――が、攻撃を見抜くことに関しては何の問題もない。今まで何度となく目にしてきたアイリスの技である。それがどれほど早いか、鋭いかは誰よりもよく知っている。だからこそ負けることはできないし、打ち倒したいという欲求も人一倍強い。
「状況、用意――」
ベアトリクスの号令に合わせて全身に軽く力を入れ、アイリスはレーン上のエリカに槍の穂先を向けた。練習用の模擬槍は使い捨てで、簡単に折れて粉砕されるという特徴を持つ――が、直撃すれば相当の衝撃を与え、落馬させれば場合によっては相手の生命すら奪う。それでも、アイリスはエリカに対して何の容赦も見せない覚悟で臨むつもりでいた。この程度で死ぬならば、第七分隊の指揮官にふさわしくないという思いを持っていたが故である。
「――始め!」
ベアトリクスが演習開始を告げるや否や、アイリスは《ブリッツ》に対して全速力で駆けるように命令した。凄まじい加速度に放り出されそうになるのを耐えて、彼女は槍の穂先をエリカに向ける。突進速度の違いは二倍に近く、想定を遥かに上回る高速突撃を前にエリカが目を見開いた瞬間には、甲高い音とともに模擬槍の穂が胸甲を強く打っていた。
「なっ――」
猛烈な一撃にエリカはふらついたが、落馬寸前で踏み止まる。胸甲を貫通されたかと思うほどの衝撃が左胸から全身へ突き抜け、激しい痛みと痺れが襲ってくるのを彼女は感じていた。
(これが、アイリスの技……!)
間違いない――彼女は全身全霊を込めて前方へと突出し、その勢いのままに左胸を刺し貫いた。実戦であれば上半身が千切れ飛んでいたとしても不思議ではない。訓練用の藁人形を半分切断するほどの威力を誇る刺突を何度も目の当たりにしていたが、左胸に受けた痛打はそれ以上の破壊力を誇っている。
硬化処理された革と鉄板を重ね合わせた胸甲の表面に模擬槍の先端に取り付けられたソケットの跡が残っているのを見て、エリカは驚愕に目を見開きながらも、アイリスの次の攻撃がどれほどの勢いで振るわれるのかを予想しながら代わりの槍を手に取り、ユニコーンを反転させた。
(威力は強烈、けれども槍の筋は真っ直ぐで読みやすい。なら……!)
再び相手に向かって猛烈な突進――アイリスの突撃速度はいささかも衰えず、眼前に立ちふさがる全てを破砕する勢いで爆進する。突きで吹き飛べば落馬しかねないという恐怖は確かにあるが、エリカはそれをねじ伏せて槍を構え、僅かに速度を落としてアイリスの攻撃を精密に迎え撃った。
表面を僅かに掠めるようにして軌道を逸らし、アイリスの刺突が斜めに逸れて肩口を掠めたと同時、カウンター気味の一発――アイリスのものほど強烈ではないが、他の訓練生からしてみれば凄まじい威力を誇る刺突が炸裂した。
「っ……!」
アイリスが一瞬呻く。凄まじい速度での突進――それをカウンターとして返されたとき、受けた者には速度に比例した衝撃が跳ね返る。槍が折れるように作られているとしても、衝撃を全て殺しきれるはずもない。アイリスはよろめきながらも、ヒビの入った槍を置いて三本目を手に取ってターンし、再びエリカと相対した。
迷いはない。自らの力を示すいい機会だ――そう思って、彼女は水平に槍を構えてエリカを見据えた。三本目となれば、相当に体力を消耗する。だが《ブリッツ》が力を貸してくれるのならば、ここで引き下がるわけにはいかない。
三度目の号令――アイリスはそれが耳朶を打つと同時、二度の突撃よりも早く駆けるように《ブリッツ》に命じた。爆風に背中を撃たれたような加速――アイリス自身も制御できなくなる寸前の全力疾走でもってエリカに肉薄する。
対するエリカも今できる最高のスピードで突進し、僅かな迎撃の機会をものにしようと試みる。交錯は一秒にも満たず、勝敗は瞬時に決する。弾くつもりも、避けるつもりもない――相手を先に刺突すること以外、彼女たちは何も考えていなかった。
唸りを上げて二本の槍が交差する。その一閃は全くの同時――アイリスとエリカは、互いの左胸を全力で突いていた。アイリスは死力を尽くして突きを放ち、エリカはそれに先んじたと思った――それ故の同時である。一際鋭い音と共に模擬槍が砕け散って破片を散らし、凄まじい衝撃を受けた胸甲が歪む。それでも、少女たちは落馬することなくそこにいた。
「……また、次にやろっか」
「ええ。今度は――卒業試験で。どちらが隊長になるか、決めましょう」
――交わす言葉は短い。だが、彼女らはその一瞬の間に、確かに通じ合っていた。