第67話 愛馬との語らい、迫り来る戦い
襲撃事件とテロ騒ぎから三日――普段ならば疎ましいだけの訓練は、少女たちにある種の開放感と喜びをもって受け入れられた。三日間訓練もなく、時間潰しと言えば日々届けられる新聞と、騎兵学校の僅かな蔵書――それもおおよそ軍事関係、よくて政治に関するものばかりである。
日々の訓練が行われている間は必然的に時間を消費することになるが、それはあれこれと思い悩む必要がないということでもある。過酷な戦技訓練と難解な軍事理論の分析に時間を費やすことが日常となっていた彼女らにとって、退屈はまさしく毒物であった。
同時に、騎兵学校に対して行われたテロ行為は、敵意という形によって少女たちの団結を強めていた。全員が等しく戦火の下をくぐって生き延びた結果、炎によって戦友を焼き滅ぼさんとした者たちに対して同じく憤激し、その報復を心に誓った。
それ故、繰り返すミリタリー・ケイデンスにも力が入る。過激な言葉で共和主義者とアルタヴァ共和国に対する敵意を煽り立てる歌詞であったが、今の彼女ら――訓練という日常へと回帰し、戦場へと向かうことを強く意識し始めた四十八人の訓練生たちにとって、それらは自らを奮い立たせる言葉であった。共通の敵を見出し、それに対して報復を求める――およそ健全とは言い難いものの、それは少女たちの結束をいまだかつて無いほどに強くしていた。
「よし――ランニングはここまでだ。全員、腹いっぱい食って戻ってこい!」
『マム・イエス・マム!』
四十八人が一斉に唱和し、食堂へと揃って駆けていく。ベアトリクスはその背中を見送り、ポケットに収めていた厩舎の鍵をリーアに手渡した。
「……少し遅れたが、始めよう。例の二人は完璧にできているが、それ以外がどこまでものになるか分からん。時間はもうほとんど無いが、ある程度のところまでは仕上げられるだろう――初年度編成だから、恐らく軍も気合が入っているはずだ。あのじゃじゃ馬を除けば、そう乗りにくいユニコーンは連れてきているまい」
「ええ。その《ブリッツ》も、ブレイザー訓練生の手でかなりまともに走るようになりましたしね。少なくとも、ライダーを拒絶するようなことはなくなった。もっとも、ブレイザー訓練生以外を乗せるつもりはなさそうですけれども……」
そう言って、リーアは手にしていた鍵をポケットに収めてこれまでの《ブリッツ》について思いを馳せた。自らが参加していた実験小隊において、女装した童貞を繰り返し乗せるという「拷問」を受けて心を病んだ《ブリッツ》が、命懸けで救助を試みたアイリスに心を開き、秘められていた力――これまで実験小隊で見せていた、他のユニコーンを凌駕する能力を見せつけた。
その事実は、二人の教官にとって驚嘆に値するものであると同時に、いずれ実戦部隊として編成されるユニコーン隊において、中核的戦力としての期待を持たせるにも足りる。もとより乗馬の経験が豊かであり、実戦経験こそないものの馬上での戦闘技術にある程度の理解を有するアイリスと、育成途上にあったユニコーンの中でも飛び抜けて優秀であった《ブリッツ》の力をもってすれば、並の騎兵を凌駕することは目に見えている。
だが、それはアイリスにとって都合の良いことばかりではない。優れた者に負わされる期待は、やがて本人を押し潰すほどに膨れ上がる――それは、歴史において破滅してきた兵士たちが、己の命をもって証明してきたことであった。リーアとベアトリクスは顔を上げて、遥かに遠ざかったアイリスの背中を目で追った。
「恐らく、ブレイザー訓練生と《ブリッツ》はあの中で最優の戦力でしてよ。本人たちにその自覚がなかったとしても、最高の兵士としての期待を集めることになる。けれど、それは……」
「あいつ自信に、英雄という宿命を背負わせることになる。英雄として戦場へ赴くのなら、それは死へ駆り立てられるのと同じことだ。あいつは――全ての者にとっての希望になるかもしれないが、あいつ自身にとって、もっとも大切なものを失うことになるかもしれない。単なる兵士でいられないというのは、恐ろしいことだな」
口調は淡々としている――だが、それゆえに言葉の端々に滲む悔恨は際立って響く。力を示せば示すほどに、兵士は単なる戦闘単位でいられなくなる。英雄を求めるのは何も同じ軍人ばかりではない。戦争の熱狂に酔いしれるのは戦場に立たない民草も同じで、彼らは新聞や三文雑誌を通して語られる兵士たちの活躍や、帰還兵が酒場で語る英雄の物語を待ちわびている。英雄譚は戦争の恐怖を麻痺させる阿片となって、いつしか不自由な戦時体制を人民自らが作り上げるという逆説的な構造を生み出していく。
「……あいつは貴族だ。恐らく……その宿命から逃げない。自分が英雄となっていくことを堂々と受け止めて戦場へと向かうだろう。この間の戦いが、それを示している」
ベアトリクスはそう言って、駆けていくアイリスの背中から目をそらした。派手に戦って戦果を挙げることだけが英雄の条件ではない。民草の期待を受け止め、英雄的に振る舞おうとする精神そのものが、その者を英雄たらしめる。その意味合いにおいて、アイリスはこれ以上ないほどの高潔さを帯びている。
自らが戦士であることを肯定し、なおかつその模範となって崇敬を受けることに対して正面から向き合えるものはそう多くはない。そうした素質の大部分は貴族、あるいはそれに属する騎士団に共有される特徴であったが、小銃の急激な進歩と国民軍の形成に伴う諸侯軍の弱体化によって、英雄の道に近く通じる騎士道精神も衰退の一途を辿りつつある。その中において、アイリスのような存在は希少であった。
「あいつは生まれもいいし、騎兵としてのセンスもある。射撃はモンドラゴンの次に上手いし、何より馬術の心得がある。私たちが教えるまでもなく、間違いなくあいつは頭角を表すだろう。だが……将の才能は、呪いだ。その者が有能であるほど、呪いは人格を蝕んでいく……」
ベアトリクスは淋しげに呟き、朝日に照らされた練兵場の大地から、遠く広がる空へと視線を移した。最後の言葉は朝風に流され、遥かに褪せていった。
「よし、貴様ら全員腹いっぱい食ったな?」
『マム・イエス・マム!』
朝食後、少女たちは仮設厩舎の前へと集められていた。厩舎と言ってもバラック同然のもので、それぞれが騎乗するユニコーンに雨を凌ぐ簡易な屋根付きの部屋を与えたものに過ぎない。新造した厩舎が戦闘で焼け落ちたが故の急場しのぎであったが、他の部隊が未だに軍馬を野ざらしにせざるを得ないという状況にあることを鑑みるならば、十分に優遇されていると言えた。
ベアトリクスは全員がその場に揃い、なおかつ槍とカービン銃を手にしていることを確かめると、にやりと笑って少女たちに新たな訓練の始まりを告げた。
「では、いきなりだが貴様らにはこいつらに乗ってもらうことになった。この中で乗馬の経験がある者はいるか」
第七分隊ではアイリスとエリカ、他の分隊でも数名の手が挙がる。その全てが地方の出身者であり、農耕馬を乗用としても用いていた経験を有することを示していた――が、近代的な馬術を身に着けている者は、武門の嗜みとして騎士団形式での乗馬、それも軍馬に騎乗しての高機動と指揮を前提としたものに習熟していたアイリスと、将官の娘という社会的地位、そして彼女自身の軍事に関する執念によって軍用馬術における経験を重ねていたエリカだけである。
農耕馬とユニコーンの騎乗特性は明らかに異なる。もとより軍馬とユニコーンですら比較にならないほどの違いを見せることは、アイリスとエリカはその身をもって理解していた。基本姿勢がほぼ完璧であった彼女たちであったからこそ、実戦の場において戦闘機動としての跳躍を行っても落馬することはなかった――が、農耕馬にしか騎乗したことのない地方出身者が同じことをすれば、直ちに地面に叩きつけられることに何の疑いもない。
「……なるほど、経験者は存外に多い。これはつまらんな……そうだろう、リーア?」
「ええ。わたくしたちは無様なウジ虫が地面に叩きつけられてぺしゃんこに潰れるところがみたいのですけれども……少し残念ですわね」
「ああ。実に残念だ……さて、模範はだれがいいかな」
何か企むような表情に、その場の全員が凍りついた。特に乗馬未経験者は恐怖に青ざめる――その中には、第七分隊最強の前衛と名高いカレンの姿もあった。普段の勝ち気な彼女らしからぬ表情に気づいたのか、ベアトリクスはカレンを呼び寄せた。
「よし。ではザウアー、乗ってみろ」
「……!?」
ある程度覚悟はしていた――が、本気で指名されることまでは予想していなかったカレンが表情を変えた。半分冗談のようなものだろうと思っていた彼女は、ふらふらと前に進み出て自らの愛馬の前に立った。あらかじめ馬具を付けられていたユニコーン――《テュラン》は、カレンが近づくと静かに姿勢を低くした。
「おっ――」
これは乗りやすい――そう思ったカレンが跨がり、手綱を握って「立て」と命令した途端、《テュラン》は何の遠慮もなく立ち上がり、乗馬姿勢が不安定だったカレンは、半ば空中に放り出されるような形で落馬する羽目になった。もとより頑強な体のカレンは受け身を取って自らへの打撃を最小限に抑えたものの、腰を押さえてその場にうずくまった。
「痛ェ……何でだよ」
呻く彼女を前に、ベアトリクスはふっと笑って眼前の訓練生をざっと見回して口を開いた。
「概ねこいつらは優しい。だが、基礎的な乗馬姿勢ができていないと間抜けのザウアーのようになるというわけだ――この馬鹿が痛い目を見たようになりたくなければ、全員基礎的な乗馬姿勢の習熟に努めろ! では訓練を開始する!」




