第63話 暗殺者
陸軍庁舎なら脱出して数分――アイリスとエリカは、抜き身のナイフを片手に握りしめて路地裏を這うように移動していた。軍庁舎裏手の旧市街地は昼間であるというのに閑散としており、軍服姿で路地を駆ける二人を見つめているのは軒先の猫だけである。
だが、二人は一言も発することなくただ無心に駆け続けた。まるで背中に敵の手が迫っているかのような必死の形相――事実として彼女たちは追われる立場にあり、身に帯びる武器はタクティカルナイフただ一本であるが故、必死にこの場から遁走する以外に生き延びる手段は見当たらない。
(……私たちはただの訓練生だ。戦術的な価値を帯びているといっても、組織の内部情報には換えられない。もし外務省の部隊が私たちを見つけたら――)
恐怖にすくみそうになる足を無理矢理に前へと進ませ、アイリスはただひたすらに駆ける。時折辺りを見回しては敵の気配を探り、薄暗く曲がりくねった路地を休むことなく走り続ける。これまでの彼女であればその場に倒れ伏していたところであったが、騎兵学校での苛烈な教練――持久力と忍耐力をただひたすらに鍛え抜いてきた日々は、彼女を裏切らなかった。ペースを落とすこと無く走り続け、表通りへと通じる路地からそっと顔を出す。
「……どう?」
ナイフを鞘に戻しつつ、エリカが控えめに問いを投げる。アイリスは辺りの様子を窺いながら、手にしていたナイフをそっと収めながら答えた。
「……大丈夫だと思う。表通りを抜けて向こうの路地に入るまでは安全圏のはず。流石に人目が多いところで仕掛けては――」
こないはず、と言い掛けて、不意にアイリスは口をつぐんだ。鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が何かを捉え、彼女は再び腰のナイフを握り直した。勘としか説明できないものに導かれて辺りを見回したその刹那、金属が鳴る小さな音が辺りに響いたかと思うと、アイリスはほぼ反射的にエリカを真横に突き飛ばして、同時に自らも体を滑らせていた。
「!?」
エリカが目を白黒させる――が、次の瞬間には彼女の鼻先を掠めて一本の短剣が飛来し、二人の間を分かつように地面へと突き立った。黒く染められた刃には溝が彫られ、そこには不気味な輝きを放つ紅い粘着質の液体が塗り込まれている。恐らくは致死性の毒物――アイリスはそう判断し、ナイフの飛来した方向へ視線を向けた。そこには四人組の兵士と思しき者たちの姿があったが、身に纏っているのは正規軍の採用している濃緑色の戦闘服ではなく、フード付きの黒いジャケットである。男女の判別もつかないその一団は拳銃を手にしているように見えたが、それは拳銃ではなく小型のクロスボウであった。アイリスはそれを見据え、すっと目を細めた。
(ナイフを投げつけて注意を逸らし、クロスボウで仕留める――)
銃器の発達によってクロスボウが戦場から姿を消して随分と経つ。しかしながら、暗殺などでは毒矢を装填したクロスボウが極稀に軍事利用されることがあり、歩哨の殺害などには用いられる。しかしながら、真っ当な軍人が使う武器ではない。
「……アイリス・フォン・ブレイザーとエリカ・シュタイナーだな?」
四人のうちの一人が、低く静かな声で二人に呼びかける。だが、アイリスとエリカは押し潰されるような感覚を覚えていた。アイリスとエリカは返事をせず、油断なくナイフを構えて頭上の四人組を見据えていた。
「持っている書類があるだろう。それをおとなしく渡せ。抵抗しなければ、書類を持って我々も消える」
「……」
エリカは、自らが手にした灰色の封筒に視線を落とした。これを渡せば生きて帰ることができる――眼前の相手はそう言っている。だが、彼女はその言葉を信じず、手にしたナイフを静かに水平に構え、視線でもって拒絶の意志を顕にした。
「どうした、書類を置いていくだけでいいのだ。そうすれば我々は何もしない。おとなしく従え、さもなくば――」
手にしたクロスボウが、アイリスとエリカの心臓に向けられる。恐らくは強力な毒矢が装填されているだろうそれを前にして、二人は堂々と胸を張って真正面を見据えた。外務省の機密文書を持って逃げた結果、目の前に所属不明の暗殺者が現れた――答え合わせとしては、それだけで十分だった。
それに加えて、書類を置いていくように命令しているという事実から、彼女たちは自らの価値が相手にとっても毀損し難いものであることを認識していた。ユニコーン隊はいずれも精鋭揃いの特殊部隊候補であり、それを政治的に掌握することは国内の情報機関のバランスに大きな影響をもたらす。中でも、全ての分野に飛び抜けた能力を見せるエリカと、これまで誰にも心を開かなかった《ブリッツ》の主となったアイリスは、いくら情報を持って逃げているとしても簡単には殺せない。だからこそ、自分たちに差し向けられた暗殺者は大げさにもナイフを投げつけ、クロスボウを突きつけて降伏を迫っている。最初から書類だけが目当てなら、何の容赦もなく小銃で頭を射抜いていく。
「……エリカ。書類を貸して。方法が一つだけあるから。それと――ジャケットを脱いで」
アイリスはそう言ってエリカに視線を向け、続けて地面に転がったナイフを一瞥する。エリカは一瞬驚いたように目を見開いた――が、すぐに真意を理解して彼女に灰色の封筒を手渡すと、軍服のジャケットを脱いでトレーニング用の半袖シャツ一枚になる。
アイリスは手にしていたナイフを腰の鞘に戻して、両手で封筒を持ったままそっと前に一歩踏み出した。軍靴の爪先が、暗殺者の一団が先程投げつけたナイフの柄に僅かに触れたところで彼女は立ち止まり、頭上の建物から視線を向ける暗殺者に視線を向けて口を開いた。
「分かった、置いていく――代わりに約束して。私たちを安全に見逃して、仲間にも手を出さないと」
「無論だ、ブレイザー訓練生。君は陸軍に必要な人材であり、君の仲間も同じく重要だ。王国は君たちに期待を寄せている」
その言葉に少なからず欺瞞を感じつつも、アイリスはそっと身を屈め、左手で持った封筒を地面に置くふりをした。異常なまでに心拍数が高まり、頭の奥が熱を持つ。異常なまでの緊張と興奮が体感時間を引き伸ばし、アイリスの世界から色と音が遠く褪せていく。
「それなら――」
視線は地面に転がったナイフへと向け、爪先と開いた右手に集中する。機会は一度きり――一撃して相手の動揺を誘い、そのまま追っ手を振り切って一気に離脱する。それ以外に勝ち目はない。あとはエリカがどこまで反応しきれるかが全てだ。
「――私たちは、止まれない」
屈めた体を跳ね上げる。同時に右足を強く蹴り上げると、爪先で跳ね上げられたナイフが宙を飛んだ。同時に右手でその柄を掴み取ると、アイリスは渾身の力で直近の暗殺者目掛けてナイフを投げつけていた。稲妻のような一撃――薄暗い路地を斬って駆け抜けた銀の閃光は、クロスボウを手にしていた暗殺者の一人を貫いて薄闇に鮮血を散らした。
『……!』
瞬時に辺りに殺気が満ち、残った三人の暗殺者が一斉にクロスボウを放つ。だが、その一射には仲間の一人が投げナイフに打ち倒されたことへの衝撃による惑いがあった。時間にしてみれば一秒の遅れ――だが、この場に居る二人の軍事的秀才にとっては、その一秒は十分な余裕であった。放たれた矢はいずれもアイリスの心臓へ向かって直進する――が、その隣に猛然と駆けたエリカは、つい先程脱いでいたジャケットを射線上に投げて広げ、三本の毒矢を絡め取って叩き落とした。
「――アイリス!」
エリカの鋭い声が飛ぶ。それを合図に二人は揃って駆け出し、三人の暗殺者が二の矢を放つよりも早くに大通りへと飛び出してそれを横断し、向かいの路地へと駆け抜ける。息は荒く顔面は蒼白になり、興奮と緊張のあまり口の中が乾ききっている――が、二人の胸中には不思議な満足感があった。自分たちを殺すつもりで追ってきた者たちを出し抜き生存した――その事実は、確かな誇りを彼女らに与えていた。
(やった、これならもう追っ手は――)
ここまで来られない。そう思ったアイリスが僅かにペースを落とす。だが、安全な状態に入ったという認識は明らかに誤りであった。暗殺は確実に実行されるからこそ暗殺としての価値を帯びるものであるというのが古今東西の軍事組織の常識であり、それは外務省調査局の武装局員においても同じく共有されていた。
「アイリス、上――!」
一瞬早く脅威に気づいたエリカが叫ぶ。だが、それはあまりにも遅きに失した。手前左側の建物、そのベランダに伏せていた大柄な男――先程と同じフード付きのジャケットを被った工作員が飛び出すと、手にしていたクロスボウをアイリスへと向ける。
警告は一切無し――明確な殺意を込めて照準し、トリガーに指を掛ける。エリカは全力で疾走し、アイリスを横合いから押し倒した。直後、唸りを上げる矢が頭上を通過する。男は外したと見るやベランダから飛び降り、空中で黒染めされたナイフを抜き放って二人のもとに突進する。敵はそればかりではなく、建物の影からさらに三人が、いずれもナイフを手に飛び出した。
(……やるしかない!)
覚悟を決めたエリカもナイフを抜いて身構えたその瞬間、彼女の背後から遠く銃声が聞こえ、エリカに向かって突進しつつあった工作員の左胸に鮮血が散った。
「え――」
何が起きたのか分からず、エリカはナイフを持ったままその場に立ち尽くす。凄まじい狙撃――そして、その銃声に続いて響いた声に、彼女はさらに目を白黒させた。
「何だよ、インテリもお嬢もこんなトコに居たのか。探すのに手間取ったぜ」
声の調子は至って明るい。アイリスとエリカが後ろを振り向くと、そこには軍服の袖を捲った戦友の姿があった。彼女は軽く腕を回して三人の暗殺者に視線を向け、好戦的な笑みを浮かべて言葉を続けた。
「――三人くらいで、『アタシたち』をどうにか出来ると思うンじゃねェぞ?」




