第56話 流転する情勢
夜八時――全ての訓練が終わり兵舎に静寂が訪れても、練兵軍曹を始めとした教育隊関係者の仕事が終わることはない。ベアトリクスは届けられた大量の書類――その大部分がユニコーン隊を実戦編成するにあたっての諸手続き――にかかりきりになっていた。
僅か四十八騎の騎兵小隊ではあるが、彼女らが帯びるであろう任務は特殊かつ苛烈そのものであり、特殊部隊にも匹敵する作戦遂行能力を要求される。僅か七十日の共通基礎訓練期間で実戦投入可能な騎兵を育て上げるのは並大抵の訓練では不可能であり、実際のところ少女たちに日々課される戦闘訓練の密度は、通常の騎兵部隊の教練に倍するものであった。
ベアトリクスは手元の書類を手早く片付けると、脇に押しやって手元のティーカップを取り、既に冷めた紅茶を一口啜った。
(……あと一ヶ月で、こいつらを実戦レベルの騎兵に育て上げる……戦列歩兵ならどうとでもなるが、幻獣騎兵――それも、特殊部隊に匹敵する自己完結した作戦遂行能力を持つ部隊を育成するのは、恐らく不可能だ。だが……)
ティーカップを置き、ベアトリクスは手元の書類に視線を落とした。訓練期間の延長はこれを認めず、規定通り七十日間の基礎戦闘訓練の終了後に編成を行い、特殊部隊として実戦配備すべき――無機質な銅板活字で記された通告文書に向かって、ベアトリクスは拳を打ち下ろした。
「……畜生、本当に――殺すつもりか、こいつらを」
ベアトリクスは苛立ちに任せて書簡を握り潰そうとしたが、苦しげな表情で首を振ってそれを乱暴に折り畳み、机の引き出しに放り込んだ。基礎戦闘訓練で兵士としての最低限の技能――白兵と火兵における一定の技能を叩き込むことはできる。
だが、あくまでそれは歩兵として最低限戦うだけの技能に過ぎない。機動的な運用が前提となる騎兵、それも強力な幻獣騎兵となれば、必要な技能は格段に多くなる。基礎戦闘訓練で得られるのは、あくまで一般的な歩兵――隊列を構成し、命令に従って一斉射撃と前進を繰り返すだけの戦列歩兵としての技能のみである。
七十日程度の訓練では騎兵としてまともに運用できる領域に達するはずもなく、敵の騎兵隊と交戦した際には瞬時に殲滅されるであろうことは容易に想像できた。ユニコーンの機動力は通常の軍馬とは段違いに高いものの、それだけでは彼女らの未熟さを補うには不十分であった。
(国際情勢の逼迫は、外務省の言うことを信じるなら紛れもない事実……この間のゲリラ騒ぎだってそうだ、開戦前夜でなければあんなことは起きないはずだ。あれを前哨と見るのならば、いつ戦端が開かれてもおかしくない。外務省も軍評議会も焦るのは分かる。だが……)
すっかり冷めた紅茶を一気に飲み干し、ベアトリクスは机に顔を伏せた。状況は決して好ましいとは言えず、訓練が不十分なままで実戦配備しなければならないという現実が目の前に迫っている。練兵軍曹が小隊付先任下士官となる原則こそあるが、即時国境配備ということにでもなれば、戦闘技能に不安を抱えたままアルタヴァ共和国の第一陣――強力な騎馬砲兵と魔導兵による連合部隊の打撃を受け止めなければならない。戦闘における第一撃は互いに膨大な死者を出すことは歴史が証明しており、ユニコーン隊もその洗礼を逃れ得ない。
(詰み、だとは思いたくない。他に方法があるなら……)
思い当たる可能性に考えを巡らせ、ベアトリクスは机の上のペンを手に取った。なるべくならば考えたくない――だが、軍評議会と外務省のご機嫌次第で即時前線送りという可能性すらある中で頼れるとすれば、それらと拮抗しうる強大な権力を持つ者以外にない。
(……オットー・ハーネル少佐。陸軍情報部なら、あるいは)
数日前に接触してきた陸軍将校の顔を、ベアトリクスは脳裏に思い描いた。若年ながら情報部少佐の地位に上り詰めた――それにどのような背景があるのか、ベアトリクスは知らない。ただ、あまりにも若年に過ぎるということを考えれば、真っ当な方法でないことは間違いない。情報部内で出世工作を行い、自らの上官であった人物を蹴り落として軍から追い出すといったことは、権謀術数をもってよしとする情報部においてはありがちなことであり、下の者に弱みを握られるような惰弱は瞬時に切り捨てられる。
そうした場所で若年ながら生き残り、若くして少佐の地位を手に入れたハーネルは、諜報や工作に関しては掛け値なしに優秀であると言い切れる。持ちかけられた同盟を受け入れれば、彼はユニコーン部隊の訓練期間延長に協力するであろう、とベアトリクスは読んでいた。軍情報部はタカ派が多いが一枚岩というわけではなく、収集した情報をめぐって見解が分かれることも多い。
同じく開戦やむ無しの状況にあっても、即時攻撃を提言する者があれば、交渉で煙に巻きつつ戦闘準備を行い、入念な下ごしらえの末に背後から一突きすることで初戦を優位に進めていこうとする者もいる。ハーネルはユニコーン隊を手中に収めることに重きを置いており、十分な戦力として育ててから手足として使うべきであると進言すれば、十分に協力の目はあるとベアトリクスは踏んでいた。
(情報部に手綱を握られるのは気に食わんが……他に方法がないなら、私は――)
小さく息を吐き、ベアトリクスが手元にあった便箋を引き寄せたそのとき、不意にドアを開ける音が響いた。何事か、と思って振り向いた先には、軍服を丁寧に着込んだリーアの姿があった。彼女は一度ウインクして、ポケットに入れていた、カードの入った封筒をベアトリクスに手渡した。
「……これは?」
「お誘いでしてよ。今夜、一杯だけ付き合ってくださらないかしら、ということですの」
「一杯だけで終わったためしがあるものか。突き返してこい……と言いたいところだが――こいつは裏があるな。リーア、手紙に香水をふりかける文化は、貴族のものだな?」
「ええ、そうですけれど……」
リーアがそう言うと、ベアトリクスは渡された封筒からカードを取り出した。そこには何も記されていない白紙が一枚入っているのみ――カードからは強い柑橘類の香りがして、ベアトリクスはその香りを嗅いで小さく頷いた。
「なるほど、面白い仕掛けをする……子供の頃によく遊んだやり方だが、こんな方法で来るとは思わなかった。白紙のカードを送りつけるのも貴族の流儀か、リーア?」
「まさか。お手紙なら藍色のインクで送りましてよ?」
「なら、こいつは……」
ベアトリクスは燭台に目をやり、手にしていたカードをその火で軽く炙った。それと同時に文字が浮き上がると、彼女はふっと笑ってその文面を読み上げた。
「夜八時半、貴殿をゲーレン街三丁目『セイレーンの口笛』にて待つ……か。全く、今すぐ行かないと間に合わないじゃないか。デートに誘うには、いささかばかり非常識だとは思わないか」
「きっと、強引な殿方なのでしょう。人の迷惑も考えない、せっかちなお方」
「ああ。それだけじゃない――そいつは多分、人の噂に耳聡いやつだ。アルタヴァ語も堪能に違いない――行くぞ。最低限だが、拳銃とナイフだけは持っておけ」
「了解」
ベアトリクスとリーアは二人して立ち上がると、壁際に掛けていたガンホルスターを素早く身に着けて拳銃を収め、その横にナイフを差した。さらに上から軍用の厚手のコート――両腕、脇腹、胸、背中の四箇所に硬化処理を施した革を張り込んだ防刃仕様のものを羽織ると、一瞬だけ視線を交わして執務室を出る。その瞳には冷酷な炎が燃えており、およそ「夜のデート」といった雰囲気ではない。
歩哨に一度会釈して二人は営門を抜け、そのまま夜の町へと足を進めていく。軍関連施設が密集する地域の歓楽街は非番の兵士たちで賑わっていたが、彼女らはそれを無視して静かな裏通りへと向かう。
表通りは兵士や下士官たちが集う盛り場であったが、裏通りは高給士官たちが密かに通う上品なバーが立ち並ぶ。時折擦れ違う中高年の士官たちは、人目を避けるように半地下式のバーへと姿を消していった。
ベアトリクスとリーアは店の看板に視線を巡らせ、指定されたバー――『セイレーンの口笛』を見つけ出すと、そのドアを押し開いた。カウンター席が僅か四席設置されている他にはなにもなく、地上部分には小さな商店があるばかりといった、ごく小さな半地下式のバー――その席には、一人の男が静かに腰掛けていた。
彼はベアトリクスとリーアに気づくと、手にしていたグラスを置いてひょい、と手を挙げた。灰色のロングコートと、大振りなシルクハット――あまりにも目立つその格好を、二人はよく覚えていた。
「……やあお二方。元気だったかね」
「元気も何も、この間ご馳走になったばかりだ――リューテック上級調査官、また面白い仕掛けをしてくれたな。デートのお誘いにしてはいささかばかり迂遠ではあるが、演出そのものは気に入った。ただ、もう少し早めに言ってくれれば軍服ではなくドレスを用意したのだが」
「そいつは失礼……まあ掛けてくれ、確かに御婦人を夜中に呼び出すのは非礼であったかもしれんな――お詫びに一杯奢ろうか。何がいい、またいつかのように酒で語ろうか」
「魅力的な提案だ。リーア、お前が決めてくれ――何が呑みたい?」
ベアトリクスの問いかけに、リーアはふっと笑みを浮かべて答えた。
「では……いつかのお返しに『愛国者』はいかが?」
「酒の趣味も良いようだ――マスター、頼む」
リューテックは人差し指をすっと伸ばしてオーダーを出し、手元にあったグラスからワインをぐいと飲み干して二人を見つめた。先程までの穏やかな雰囲気は瞬時に消え、その瞳にはナイフのような輝きが宿っている。
「……さて、素面のうちに政治の話をしておこうか」
『……!』
ベアトリクスとリーアの表情に緊張が走る。リューテックはそれを見て人差し指で軽くカウンターを叩きながら口を開いた。
「訓練期間の延長を申請したと聞いている……どこから聞いたかを問い糾すようなことはしないでくれたまえ――こちらも仕事なのでな。その件だが、恐らく叶うことはない」
「……何故言い切れる?」
「外務筋の一部が軍評議会のタカ派に同調する動きを見せている。微妙な調整でアルタヴァとの関係を調整するよりも、戦後の利権に乗っかるほうが遥かに楽なのだろう」
「……貴様は、どちらだ?」
剣を突きつけるような問いかけ――だが、リューテックはそれに答えず、曖昧な笑みを浮かべて首を振った。
「それは言えない。自分の立ち位置を明確にし過ぎるのは危険だからね」
「では、貴様と組むことも無いだろう――少なくとも、ハーネル少佐は自分の立ち位置を明確にした」
「……彼を信用すると? 出世工作でのし上がった強請り屋だぞ」
「重々承知だ――それを言うのなら、貴様とて潔白なわけではあるまい?」
「……」
その言葉に何か感じるものがあったのか、リューテックは急に無言になって、目の前に置かれたカクテル・グラスをじっと見つめた。好機と見たベアトリクスは、畳み掛けるようにリューテックに言葉をぶつけた。
「我々には時間が必要だ。最低でも三週間――可能ならば、五週間。それだけの時間を稼げる者以外を相手にすることはない。恐らく、ハーネル少佐ならば我々の頼みに答えるだろうな」
「情報部に魂を売ると? あの連中は内部工作で……」
「ああ、確かに一枚岩ではないな。だが、自分の立ち位置すら明らかにしないものよりも、まだ信頼が置ける。ハーネル少佐は最低限の仁義として、自分がどこに立っているのかは明確にしてくれた。貴様はどうだ、リューテック調査官」
鋭く尖った刃のような言葉――それを向けられたリューテックは苦々しげに視線を逸らすと、手元のカクテルを一気に呷って立ち上がった。
「……今日はここまでだ。興が削がれた」
「もう一杯なら奢ろうか」
ベアトリクスは、グラスを片手に余裕の笑みを浮かべた。もとより長話をするつもりはなく、この場を凌いで追い返せば十分と彼女は考えていた。そればかりでない――自信家であろうリューテックに一瞬でも苦々しい思いをさせることもまた、彼女の計画の一つであった。
だが、リューテックが渋い表情をしていたのは僅か一瞬だった。先程までのそれが炎技であったかのように笑みを浮かべると、彼は肩越しにベアトリクスとリーアに視線を向けて口を開いた。
「いや、結構――だが、帰る前に予言を残しておこう。お前たちは、何にも頼れなくなる。文民風情と侮ったお前たちの負けだ。計略は破綻する……ではな」
コートの裾を翻し、リューテックが夜の闇に消えていく。それを見送ったベアトリクスとリーアが、酒の残りを飲み干したそのとき――不意に、市街地に爆発音が轟き渡った。何事か、と思ったリーアとベアトリクスは反射的に拳銃を抜き、カウンターに小銭を叩きつけて市街地へと飛び出していく。
「近いぞ」
「ええ。爆発音の感じから見て大通り……!」
全力疾走で裏路地を駆け抜け、二人は一気に大通りへと飛び出す。その瞬間、彼女らの視界に半壊した馬車の姿が飛び込んできた。ほぼ原型を留めないほどに粉砕され、所々に鮮血が飛んでいる。何が起きたのか――困惑する彼女らの耳に飛び込んできた憲兵の叫びは、事態の急転を告げた。
「やられたのは軍情報部の士官だ! 名前は……ハーネル、オットー・ハーネル少佐だ! 誰でもいい、応援の憲兵を呼んでくれ――爆弾テロだ!」




