第55話 一人と一頭
逃げ出せば誇りを失うが、それと同時に踏み込みすぎれば命を失う――アイリス・フォン・ブレイザーという少女にとって、戦場とはそういうものであった。武門に生まれた彼女にとって、戦争に備えることは自らの人生のレールを敷くのと同じであり、戦場に誉れと共に立つことは、自身が磨き上げた誇りを陽の光の下に示すのと同義であった。
それは別段、矢弾飛び交い刃鳴り散らす血みどろの戦いにおいてのみ示されることではない。自らが内包する誇り、武門の娘として剣の輝きをもって王国に忠じる存在としての名誉を試される全ての瞬間が、アイリスにとっての「戦場」である。
その意味合いにおいて、間違いなく彼女は戦場に立っていた。眼の前には彼女の愛馬となる存在――最高位の幻獣であるユニコーンの《ブリッツ》の姿がある。だが、それは恭順の意を表明することなく、油断なく角の切っ先を自らの主となる者へと向けている。レイピアよりも鋭いその先端は、アイリスの心臓に狙いを定めていた。
「……!」
だが、アイリスはそれに臆することなく――とは言い切れないが、覚悟を決めて一歩前に踏み出した。万が一が一歩前に踏み出せば、即座に左胸を刺し貫きアイリスを死に至らしめるであろうほどの距離にある。戦闘服の左胸が角の先に当たっても、彼女は下がろうとはしなかった。
ここで死んでも後悔はしない――ベアトリクスとリーアに向かって言い放った言葉に、嘘偽りは一欠片もない。真実、彼女は自らの命を失う覚悟まで決めて行動を起こしていた。実験小隊で繰り返された非情な実験に苦しみ、鋼の鎖によって閉ざされた心を開くには、自らの命を捧げる覚悟をもって言葉を掛けなければ意味がないと、アイリスは心の何処かで感じていた。
鋭く尖った角は戦闘服に穴を開け、アイリスは左胸に刃物で突いたも同然の痛みを感じた。戦闘服の生地に僅かに血が滲んだが、ここで苦悶の表情を浮かべてはならないとアイリスは感じ、両手を前に広げて《ブリッツ》を見つめた――その瞬間、左胸に突き立てられようとしていた角の圧力が弱まり、正面から燃える瞳でアイリスを睨んでいた《ブリッツ》は、半ば飛び退くように後ろに下がった。
『……!』
拳銃を抜こうと身構えていたベアトリクスとリーアの表情が驚愕に染まる。今まで人間に対して警戒と攻撃以外の意思を示そうとしなかった《ブリッツ》の思わぬ反応は、熟練の騎兵であり、かつては特務士官としてユニコーン部隊の実験に携わってきた彼女らでさえ驚嘆させるに値するものであった。
あらゆるライダーを拒絶し、自らの生存に必要なことを除いては絶対に人間にその身を委ねない――恐らくは殺人を躊躇わないであろうと思っていた鉄の心の軍馬が、アイリスを死に至らしめることを避けて一歩下がった。ただそれだけの事実が、今は驚くべき発見であった。
そして、それを可能にしたのはアイリスの類まれなる精神的強度であることは今や一片の疑いもない。彼女はもとより一塊の鉄材のようなものであり、武門の娘という生まれと、与えられてきた教育が一定の強さを彼女に与えていた。それが軍事訓練という炎によって練磨されたことで一振りの剣となり、眼前に立ちはだかる分厚い壁を叩き斬るに至った。
「……そう、怖がらなくていいよ」
努めて穏やかな口調と表情で、アイリスは目の前の《ブリッツ》に呼びかけた。言葉が通じるかどうかは分からないが、そうする以外に方法がない。眼前の《ブリッツ》は未だに炎を瞳に燃やしているが、つい先程まで見せていた殺意にも似た輝きは既に薄れていた。
戦闘服が僅かに切れ、突き刺した左胸の傷が痛みを伝えたが、それでもアイリスは迷うことなくさらに一歩踏み出すと、柵越しに両手を伸ばして《ブリッツ》に触れようとした。その瞬間、《ブリッツ》は鋭く尖った角を跳ね上げて風を切る音を立てた。
強靭な首の筋肉と、並の刀槍より遥かに鋭く尖った先端から繰り出される威力はフルプレートアーマーすら貫通する――が、アイリスはそれを前にしても動かずにいた。恐怖に抗いながらも相手に歩み寄るという行為には、常人離れした凄まじい集中力を必要とする。相互の意思疎通が完全でない相手と向き合い、相手の気が変わればその場で串刺しにされかねない状況にあってなお理解を見せるのは、並の人間に可能なことではない。
自らの威嚇が通じないと知ったのか、《ブリッツ》はやや困惑したように地面を蹴った。頭を下げて角を低く構え、アイリスが何らかの動きを見せれば一突きに貫かんと身構えているが、アイリスはそれを前にしてさらなる行動に出た。
暫し《ブリッツ》の目を正面から見つめて、それから少し遠くで拳銃を抜けるように構えているベアトリクスとリーアのもとに歩み寄ると、アイリスは真剣な表情で二人と向き合い、自らの望みを口にした。
「……教官。《ブリッツ》の鎖を外してください」
ある程度予想はできていたのだろう――ベアトリクスとリーアはさして驚いた表情も見せなかった。だが、彼女の頼みには首を横に振った。
「駄目だ。死ぬぞ」
「駄目でしてよ。あの子に殺されますわ」
二人して同じ答え――だが、アイリスの決意は変わらない。ここで逃げ出せば、自らがこれまで為してきた全てが無駄になる予感がして、彼女は引き下がることができなかった。アイリスは両の足で地面を踏みしめると、凛とした声でもって応じた。
「……私もユニコーン騎兵候補生です。自らの愛馬に触れる権利はあり、またそれは騎兵として修練を積むに当たって必要な義務でもある――私にも、周りの者と同じように《ブリッツ》に触れる権利があるはずです」
そう言って、アイリスは周りの訓練生たちを見回した。その背に乗る者こそまだ居ないが、背中を撫で、言葉を掛けて思い思いに触れ合っている。騎兵学校に入って以来の初めての安らぎと、愛馬を得た誇りがいずれの訓練生たちにも満ちている。その中において、ただ一人自らの愛馬に触れることができずにいるという状況を、アイリスが快く思うはずもない。
その思いはリーアとベアトリクスにも理解できることであり、同時にある程度の共感も覚えていた。しかしそれと同時に、自らが手にしている鍵を渡すにはまだ早いとも思っていた。アイリス・フォン・ブレイザーの指揮官としての才覚は小隊を率いるに十分であり、同時に一人の兵士としての技量も他の者とは一線を画す。
万が一にもここで《ブリッツ》の角が彼女を刺し貫けば、部隊がその場で即時に被る損失、そしてアイリスという人材を失うという長期的損失は、訓練過程の終了後、即時の実戦配備が予定されているユニコーン隊において致命的な打撃となりかねない。優秀な兵士は教育によって用意することが可能であるが、優秀な指揮官は教育だけでは生まれてくることがない。
部隊指揮官を養成する上で、戦術各論や戦史についての知識を叩き込むことは確かに重要である。最新の戦術、そして過去に生み出された綺羅星の如き軍事理論の数々を理解し、応用していく――それは、軍が教育において行うべきことである。だがそれ以上に重要な、個人の「将器」と呼ぶべきものは、単に訓練や教育だけで伸ばせるものではない。
一定限度まで――それこそ通常の歩兵部隊を指揮する小隊長程度の指揮技能であれば、二等兵から始めても当たり前に得ることができる。だが、一人ひとりが圧倒的な武装を与えられ、戦線構築において重要な役割を果たすであろう精鋭部隊の指揮官となるべき者については、生来の才覚に左右される部分のほうが大きい。
通常の歩兵小隊長程度であれば、自分ひとりで戦況を判断することはありえない。上位の指揮系統に従い、配下の部隊に攻撃か待機かのみを命令するばかりである――が、ユニコーン隊に与えられる任務は国境や敵の制圧下などといった、味方部隊による支援攻撃が望めに場所で敵の背後に回り込み、あらゆる魔法を弾く幻獣の障壁と軍馬に倍する機動力を活かした高機動遊撃戦である。
そのような条件下においては、司令本部から一貫した命令など通達されるはずもない。現状、アイリスやリーアが危惧するような使われ方――すなわち、軍情報部と協力して諜報から得られた軍事情報を活用し、敵の戦力を背面から大きく削ぐような用兵――危険で秘匿事項が多く、露見すれば即座に国際問題に発展、一応は締結された休戦協定の一方的破棄からの致命的事態を招きかねないような作戦への投入が現実味を帯びつつある。
そのような中で、指揮官としての能力を生来備えたアイリスを失うことだけは、二人は許容できなかった。彼女は既に十分に自らの意志を示し、ライダーを突き殺さんばかりの絶望に囚われた《ブリッツ》に角を向けられてもなお生きて帰り、逆に《ブリッツ》をひるませるほどの気迫を見せた。それを前にすれば、間仕切りを開ける鍵を渡したい気持ちにもなる――が、ベアトリクスはポケットに入れていた鍵を、血がにじむほど強く握りしめて首を振った。
「だめだ。今日一杯は時間をやるから、あと少しだけ待て。まだ完全に心を開いたわけじゃない。貴様の気持ちは分かるし、馬上戦闘訓練や騎乗時の機動戦については出遅れないように配慮する――だが、命を失いたくなければ今はよせ。これは命令だ」
「……マム・イエス・マム」
命令、という言葉を聞いたアイリスは、渋々といった具合で後ろに下がると、未だ警戒を解かないでいる《ブリッツ》を正面から見つめた。角は確かに心臓へ向けられているが、先程までの張り詰めた雰囲気――矢が放たれる直前の弓のような、殺意が剥き出しの空気は霧散していた。未だ晴れぬ猜疑心と、それを許す心のせめぎあいの中に、一人と一頭は立っていた。
(……ここから先は、長期戦だ)
アイリスは一人、静かに覚悟を決めて自らの愛馬と向き合った。並々ならぬ傷を心に抱え、軍の実験体として扱われてきた《ブリッツ》の悲しみを全て理解することは、自らの一生を擲ったところで不可能である。だが、悲しみの全てを知らずとも痛みの淵から救い出すことだけはできる。
アイリスはそう信じて、努めて穏やかな声で《ブリッツ》に語りかけようとその瞳を見つめ、炎の揺れるその瞳が、思いの外に美しい――さながら、澄んだ宝石にも似た光を帯びていることに気づいた。恐れるばかりで見えなかったものがそこにある――それに気づいた彼女は、正面から《ブリッツ》を見つめて笑顔で語りかけた。
「……私はアイリス・フォン・ブレイザー。貴方のような高貴な幻獣と共に戦えることを、私は心から誇りに思うわ。よろしくね――」




