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第54話 鋭き一角

 朝八時――普段どおりに早朝訓練を終えた訓練生たちは、いつものように槍と小銃を手に厩舎の前に集まっていた。その表情は一様に明るく、希望に満ちている。騎兵隊は陸軍の華であり、それも幻獣騎兵となれば特殊部隊の精鋭にも匹敵するだけの戦術的価値を見出される。自らがそのステージに立っているという事実が、少女たちを興奮させた。


「よし貴様ら――士気は上々、××××の締りも実に結構といったところだな。どいつも良い面構えをしている……根性があるのは実に結構だ」


 ベアトリクスは手にした棒で地面を叩きながら、眼前に並ぶ少女たちを見回した。


「残り一ヶ月で、売春婦のクソの山から生まれ出たウジ虫四十八匹を、ピカピカ光る幻獣騎兵に育て上げるには十分だと思わせてくれる……貴様らには、これから毎日自分の愛馬と触れ合う習慣をつけてもらう。訓練としてはもちろんだが、暇な時は必ず訪れてコミュニケーションを取るように。言葉は通じなくとも、感情を理解し合うことはできるはずだ」

『……!』


 その一言が少女たちを奮い立たせた。自分にユニコーンがそれぞれ一頭支給され、日常的にそれらと触れ合いながら訓練を行う――ただそれだけで、自らが国家の前衛たる陸軍の選良、王権の下に振り下ろされる剣の切っ先であることへの自負が、彼女たち自身を支える柱となっていた。その思いは自らの愛馬に出会ったことによってより強まり、祖国に忠誠を誓った戦士としての揺るぎない自信へと転化しつつあった。


「貴様らはどうしようもないヒヨッコのウジ虫で、金のためにおっぴろげて素肌を晒す程度の価値しか持たないゴミカスどもだ。だが、そんな貴様らにもたった一つ、膜という取り柄がある――そして、ユニコーンはそれが大好物と来た。貴様らゲロブス共の『初めて』など類人猿でも欲しがらんだろうが、幸いにもそれに価値を見出すのが貴様らの相棒だ。せいぜい破らんように気をつけろ」

『マム・イエス・マム!』

「よろしい。閉経するまで膜を保っていれば、世界記録を打ち立てられるかもしれん。七十代後半のライダーなら間違いなく世界記録だ。まあそれまで槍を持てるのならの話だが……では、全員厩舎に入って心温まるふれあいタイムだ。膜が破れていない者は入ってよし!」

『マム・イエス・マム!』


 少女たちは張りのある声で応え、一列に並んで厩舎に入っていく。アイリスもその例に漏れず一歩前に踏み出そうとしたが、瞳に焼き付いた光景――鎖に縛められ、憤怒を瞳に燃やす《ブリッツ》の姿が脳裏によぎり、一瞬だけ足を止めそうになる。だが、隣に立っていたテレサは、アイリスの背中を軽く押して彼女を前に進ませた。


「行こうぜ、アイリス――話なら私だって聞いてるさ、支えられるところは支えていく。だから、明るく笑って会おうじゃないか。そんな硬い表情じゃなくて、笑顔を見せて行けばそれで上々さ」

「テレサ……」

「だから笑いな、アイリス――いつもどおり、優しく明るく行けばいいんだ。迷うことなんて何一つありゃしない。あいつらは人の心を感じ取るんだろ? 迷ってたら、ライダーらしくないぜ」

「……分かった、頑張ってみる」


 一度だけ深呼吸し、アイリスは意を決して一番奥の厩舎へと向かう。ぎらつく瞳と鎖の音――それらを振り払うように、彼女は一歩ずつ前に踏み出すと、四十八番の厩舎の前に立った。膝を折って床に伏せていた《ブリッツ》はゆっくりと身を起こし、彼女を静かに睨みつけて、レイピアの切っ先よりも鋭く尖った角の先端を心臓へと向けた。


「……!」


 万が一にも突進され、そのまま鎖を引きちぎられれば間違いなく死ぬ――それを意識したアイリスはその場に凍りつきそうになったが、意志の力を総動員して踏みとどまり、炎が燃える瞳を正面から見据えた。

 ここで逃げれば、自分はこの《ブリッツ》との縁を永遠に失い、生涯に渡って誇りとともにユニコーンライダーを名乗ることができなくなる。そして何より、自ら救うと約束した相手から視線を逸らすことなどできるはずもない。傷も、痛みも、憤怒も――その全てを受け止めると覚悟を決めたのならば、自らの誇りに照らしても、この場から逃げることは絶対に許されない。

 政略結婚という貴族の定めからは逃げ出した――が、アイリスが貴族としての挟持からも逃げるということはありえない。ブレイザー男爵家は、少しばかり強力な騎士団を除けば何の変哲もない地方の男爵家であり、中央の政治に対する影響力もそれほど大きなものではない。だが、ブレイザーの名は彼女が彼女であるために必要不可欠なものであり、彼女自信のアイデンティティを構築するかけがえのない一要素であった。

 一歩、また一歩とアイリスは《ブリッツ》に歩み寄る。薄く虹の輝きを帯びる角が眼前に迫り、首の一振りで心臓を貫くであろう位置まで――彼女は前へと進み続ける。恐怖を感じないと言えば嘘になる。自らを実に容易に、瞬時のうちに殺傷しうる存在があるということを恐れずにいられる人間など存在するはずもない。

 ただ、彼女の思いの強さは恐怖を凌駕した。貴族の生まれというだけではない――真実、才覚と言う他にないほどの強靭な意志が彼女には生来宿っていることが、この状況において足を前に進ませる何よりの頼りとなった。折れず、砕けず、曲がらず――もとより強靭であった自我は、貴族の誇りと軍事訓練という二つの炎で鍛え抜かれ、巌の如く硬く動かざるものと化している。

 その鉄壁の自我を前にすれば、憤怒のもとに振りかざされた角の先は柔らかな布も同然となる。アイリス自信がそれを自覚しているわけではないものの、彼女は強靭な自我をもってして、眼前に突きつけられた致死の刃と正面から向き合っていた。


「……」


 無言のまま、彼女はさらに一歩を踏み出す。レイピアよりも鋭く尖った角が左胸に当たるに至って、それまでは密かに様子を見るに留めていたベアトリクスとリーアが青ざめた。二人揃って慌てて止めようと駆け出した教官たちであったが、アイリスは目の前の《ブリッツ》から視線を外すことなく、駆けてくる教官を手で制した。


「……大丈夫です。それに、もし刺されても後悔はしません」


 剣の切っ先じみた光を放つ瞳に、ベアトリクスとリーアは思わずその場に立ち止まった。これまでに経験したいくつかの戦場で、彼女らはその輝きを何度も目の当たりにしている。自らの行いに一欠片の疑いも覚えず、いっそ狂信的と言っていいほどに研ぎ澄まされた意思に裏打ちされた輝き――その大部分は、アルタヴァ王国で戦闘訓練と思想教育を受け、ヴェーザー王家を転覆せしめんと試みる集団の、純粋ながらも狂気に彩られた瞳にあった。

 アイリスの視線はそれとよく似ている、とベアトリクスは感じていた。一つの目的を定め、自らの命を危険に晒すことになっても進み続けるという行動には確実に狂気が混じり得る。軍においても自らの死を前提とした闘争はそうあるものではなく、撤退を許されない重要施設での死守命令、あるいは後衛を撤退させるための一部部隊の自爆的な遅滞防御といった極めて限定的な状況――それも、事態が相当に絶望的になった時点でのみ行われる。

 共和主義者はそれを当たり前に行う。死してなお英雄と讃えられ、自らが共和制樹立の礎になるとの確信を持っているならば、彼らは容易に自らの命を擲つ。徹底的に研ぎ澄まされた理想は、時として自らの生命を超える価値を人間の精神にもたらすということ自体は、王国に忠誠を誓った軍人としてベアトリクスも理解できる。だが、勃興して間もない新たな政治的思想に対して、それだけの狂気じみた感情を向けられるというのは、驚きばかりでなく恐怖すらも抱かせるほどであった。

 その意味合いにおいて、アイリスの行動はまさしく狂気の淵に向かって踏み出しているに等しい。軍需部の手違いで、実験小隊において「技術者のおもちゃ」となった《ブリッツ》が送られてきたことについては、事情を整理した上で陳情すれば取り戻すことができる問題である。救うにはあまりにも手間がかかりすぎ、自らの命を危険に曝すことにも繋がる。だが、アイリスは自らの意志でその困難な道程を行くことを定め、そのために死神の手が届く距離まで踏み込んだ。

 単に「嘆くものに手を伸ばしたい」というそれだけのため、自らの命すら失いかねない状況に飛び込んでいく彼女のあり方に、ベアトリクスとリーアは少なからず驚愕していた。 ひとたび《ブリッツ》が身を翻し、縛鎖を断ち切るつもりで暴れて突進すれば、刃のごとく研ぎ澄まされた角の先端は容易にアイリスの胸を貫き得る。


(なんて胆力だ)


 ベアトリクスは静かに様子を見ながらも、腰に提げていたガンホルスターの留め金を外して、万が一の事態に備えていた。ユニコーンをはじめとした高位幻獣の一部には、魔法を弾く力場を展開する力を持つ者も多い――が、物理的な一撃には通常の生物と変わらない。狂乱に陥った《ブリッツ》がアイリスを貫こうとすれば、やむを得ず撃ち抜くことになる。


(ブレイザー……貴様の愚かさ、最後まで見届けさせろ)


 しかし、最悪の事態を想定しながらも、ベアトリクスはそのグリップには手を掛けなかった。それは、ある種の期待をアイリスに抱いていたからにほかならない。角が左胸に触れてなお前に進もうとする彼女を、ベアトリクスはただ静かに見守っていた。


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