第53話 傷だらけの電光
各自に軍馬――それも単なる馬ではなく、最高位の幻獣が支給された少女たちの興奮は、最高潮に達し、それは兵舎に戻っても収まらなかった。それは第七分隊も例外ではなく、普段は冷静なエリカやユイといった「優等生」ですら、興奮を隠しきれず熱の入った口調でこれからのことについて語り合っていた。
分隊員たちが自らの愛馬について思うままに語り合う中、アイリスだけは一歩引いて周りの様子を見ていた。ユニコーンの再支給を申請すれば到着する――ベアトリクスはたしかにそう言っていた。
しかし、アイリスは目の前で鎖に繋がれ、涙を流す悲劇の幻獣を目の当たりにし、それを救いたいと願ってしまった。そして、涙を流す者を捨て置けるほど彼女は冷酷ではなく、自らの誇り――全ての傷ついた者の庇護者たれというブレイザー男爵家の家訓に逆らえるほど厚顔無恥ではなかった。
「……で、お嬢はどんなユニコーンを選んだんだ?」
「えっと……それが……」
だがそれゆえに、アイリスはカレンの問いかけに上手く答えられずにいた。他の者たちが手に入れたのは、いずれも軍馬を飼育する軍所轄の牧場において、厳格な基準のもと育てられたよりすぐりである。実験小隊で軍事技術研究者のおもちゃにされてきたような個体は届けられていない。しかし、アイリスは生来嘘を言えない性分である。彼女は暫し迷って、素直に答えることにした。
「えっと……四十八番の《ブリッツ》――実験小隊上がりの子だよ」
「おいおい……それって、教官がヤベエって言ってたやつじゃねェのか? 人間不信って噂の……」
「……まあ、そうだけど」
アイリスが複雑な表情でそう言うと、カレンは額に手を当てて目を閉じた。
「軍需部に言って新しいのを……ってクチでもねェか、お嬢は。分かってて選んだって顔してるぜ、今のお嬢」
「……どんな顔?」
「悩んでるけど後悔はしてねェ……って感じさ。覚悟キマってるぜ、お嬢――いいツラ構えだ、最高だぜ」
「……そう。そうなんだ」
悩んではいるが、後悔はしていない――カレンの言葉に、アイリスは心の何処かで納得を覚えていた。確かにその通りである――彼女は自らの意思でもって、あの悩める一角獣を救おうと決めたのである。
「で、なんでそいつは人間不信になっちまったんだ。そんなにひでェのか?」
「……結構重症かもね。私が近づいた瞬間、角を向けて突進してきた」
「おいおい……なんでそんなのを送って寄越したんだ。騎兵学生が串刺しにされてもいいってのかよ?」
「そこまでは知らないよ……でも、酷い目に遭ったって聞いた」
アイリスがそう言うと、第七分隊の全員は顔を見合わせた。
「……酷い目って? 私らにどうにかできるかもしれないなら、やってやろうじゃん。まあ――私はただの大工の娘だから、大それたことはできないけどさ……」
真剣な表情でテレサが問う。アイリスは暫し迷ったが、分隊の仲間たちが手を貸してくれるのであれば、と思って分隊の前で真実を語り始めた。
「私のユニコーン――《ブリッツ》は実験小隊上がりで、いろいろ実験をしてたんだよ。その中には、乗り手不足を解消するための実験もあった」
『うん』
「基本的にユニコーンの乗り手は清らかな乙女――けれど、そうそう簡単に容易できるものじゃない。軍の女性比率は低いし、騎兵の適性があるのは一握りだから」
『わかる』
「それで……軍の技術部門は、女装した……その、女性経験のない兵士……を、ユニコーンに乗せることにしたんだって」
『えっ』
「五〇回目まではうまくいったんだけど、五一回目で……その、ライダーのズボンが下着ごと破けて……《ブリッツ》は……直接……その、アレというか……まあそんなこんなで、人間不信になって……今の状態ってわけ。教官が教えてくれた」
『うわあ』
分隊の五人は一様にげんなりした表情を浮かべた。カレンは首を振り、側頭部を手で押さえて目を閉じた。
「ヤベェな。それ半分強姦だろ……」
「半分じゃなくて五割増しで強姦よ。私だったら気が狂うわ」
彼女が呟いた言葉に、エリカが真剣な顔で――だが、どこか疲れたように応じた。真実その通り――清らかな乙女以外に背中を預けないユニコーンにとって、童貞のナマの局部を押し当てられるというのは、発狂に至る拷問にも等しい行為であった。
彼らユニコーンをはじめとして、高位の幻獣は並の人間を遥かに凌ぐ強靭な自我と抽象的思考能力を有している。ただお互いの意志を完全に通じ合わせる言葉がないだけであって、幻獣は人間と比較して遜色ない、あるいは一部において上回るほどの知性と自我が発達しているというのが、今日の魔術的研究における見解であった。その意味合いにおいても、背中に童貞の局部を直接押し当てられた事実は、《ブリッツ》の自我を粉砕して余りあるだけの威力を有していた。
話を聞いたカレンは首を振り、アイリスの肩に手を置いて何度も頷いた。
「……で、お嬢はそれと本気で向き合おうってわけか。苦労するぜ――でも、やめるつもりはねェンんだよな?」
「……うん。何ていうか……苦しんでるなら、助けてあげなきゃって思うから」
「お人好しだぜ、ったく――アタシみたいな悪党相手じゃ、いつか足元掬われるぜ……でも、そんなお嬢だから……本気で支えないといけねェって気にもなるもんさ。そうだろ?」
カレンが周りを見回すと、第七分隊の少女たちは一斉に深々と頷いた。それを見たカレンは満開のバラのような笑みを浮かべると、アイリスの背中を強く叩いた。
「自由時間ならまだ一時間はあるぜ――相棒はアタシらだけじゃねェんだ、今日から仲間になったお嬢の相棒に、一発ガツンと挨拶してきやがれ」
「――了解!」
少しばかり崩した敬礼――カレンはそれに対して、親指を立てて応えた。
「悪党も善人も、最初の一歩が肝心だ。お嬢の覚悟、相棒に見せてこい!」
騎兵学校のユニコーン部隊訓練生であるとアイリスが説明すると、拳銃を手に厩舎を警護していた軍属はあっさりと厩舎の扉を開けた。恐らく、ベアトリクスとリーアが事前に言い含めておいたのであろうとアイリスは思い、根回しの良さに半ば呆れながらも厩舎に入ち、一番奥――《ブリッツ》が体を休める四十八番へと向かった。
もとより自意識の強い幻獣であるため、彼らに与えられるスペースは通常の軍馬と比較しても三倍近くの広さがある。その中央で《ブリッツ》は穏やかに体を休めていた。だが、アイリスが一歩足を踏み出した瞬間に《ブリッツ》は目を開いた。
じゃらり、と鎖が鳴る音が辺りに響く。突進された記憶が蘇り、アイリスは思わす体を固くした――が、すぐに思い直してその場でしゃんと背筋を伸ばし、《ブリッツ》と正面から向き合った。眠りから叩き起こされたことに苛立っているのか《ブリッツ》は開いた目に鋭い輝きを宿してアイリスを睨みつけ、威嚇するようにその角の先端を向けた。
「……!」
虹の輝きを帯び、剣のように鋭く尖った角の先端を向けられたアイリスは、思わずその場に凍りつきそうになったが、歯を食いしばってその場で踏みとどまり、目を逸らすことなく《ブリッツ》に視線を向け、ゆっくりと語りかけた。
「貴方がどんな思いをしてきたのか、私は知っている――けれど、それだけで貴方の絶望と怒り、全てを理解したつもりにはなったりしないし、できるほど傲慢にもなれない」
「……」
角の先は揺らぐことなく、アイリスの心臓に狙いを定めている。今でこそ鎖の縛めに服してはいるが、全ての力を解き放てばこの場で縛鎖を断ち切って猪突し、その胸を電光のごとく刺し貫くであろうことはアイリスにも予想できた。この上なく危険な状況――だが、彼女は自らの命が危機に晒されていると知りながら、その場から下がろうとはしなかった。
もしここで一歩引いてしまえば、《ブリッツ》は二度と自分に心を開こうとしないだろうと、彼女は心の何処かで感じていた。傷ついて倒れた者にとって真っ先に必要なのは憐憫などという陳腐な感情ではなく、その痛みを理解し受け入れようとする姿勢そのものであると、アイリスは知っていた。
憐れみは傲慢の一種であると理解していなければ、真実の救いをもたらすことはできない――僅か十五年ではあるが、彼女自身がこれまで得てきた人生哲学であった。相手を上から見下ろして憐憫を「与える」のではなく、同じ場所に立ってその痛みを分かち合い、心の内部で分解していくことが必要な過程であると理解しているからこそ、彼女はその場から動かず《ブリッツ》と見つめ合っていた。
そのときになって、初めて彼女は《ブリッツ》の額に稲妻型の模様があることに気づいた。初めて会ったときは驚愕に打ちのめされていた故に気づかなかった――が、そこに美しいものがあることを知ったアイリスは、胸の前で指を組んで一歩前に踏み出した。虹の輝きを放つ鋭い角が目と鼻の先に迫る――だが、彼女は恐怖を押し殺して《ブリッツ》に語りかけた。
「貴方の痛みも、傷跡も――全てを理解した上で、それでも私は貴方を選ぶわ、《ブリッツ》。絶望と怒りの全てを受け止めることはできないかもしれないけれど――少なくとも、貴方に同じ絶望は与えないし、これから先降りかかるどんな絶望からも、私は全力を振り絞って守り抜く。約束するわ――貴方を傷つけさせはしないと」
その言葉が通じるのかどうか、アイリスには分からなかった。人間の言葉を理解しているらしいという話こそあれども、お互いに完全なコミュニケーションが成立した例は未だかつて存在しない。
だが、アイリスの真剣な眼差しと嘘偽りのない言葉に打たれたのか、《ブリッツ》は警戒こそ解きはしないものの、低く頭を下げて狙いを定める姿勢を解いて一歩下がり、正面から彼女を見つめ、それから四肢を折って地面にその身を伏せて目を閉じ、小さく声を上げてそのまま体から力を抜いた。
(潮時、かな)
一夜目にしては上々――アイリスは小さく頷くと、《ブリッツ》の前から静かに離れた。大きすぎる絶望を前に、全てを理解できるなどとは言えない。だが、その一欠片を胸に抱くことには意味がある――それを知った彼女は、行きよりも軽い足取りで厩舎から出ていった。




