第50話 再び、前へ!
午後五時――全ての訓練が終了し、六時半の夕食時間になるまでの間、訓練生の少女たちは思い思いの方法で過ごしていた。座学の復習をする者、共同スペースで雑談に興じる者、あるいは床に身を横たえてトレーニングに励む者――その過ごし方は様々であるが、一部の者たちは小銃を手に、校舎裏の射撃訓練場へと向かっていた。
その中には第七分隊のオリヴィアの姿もあり、支給されたマスケット銃を大事そうに抱えていた――が、その表情は硬く強張り、普段の快活さは失われていた。ただ無言のまま小銃を手に射撃訓練場に入り、先に待っていたらしいリーアから火薬と実弾を受け取って足早に射撃レーンに入った。
彼女は一つのミスもない完璧な動きで弾丸を装填し、小さく息を吐いて約五〇メートル先に設置された的紙に狙いを定めた。銃を扱うようになったばかりの訓練生が撃つ標準的距離――だが、オリヴィアにとっては近すぎるほどの間合いである。
僅かな静寂を経て、彼女はトリガーを引き絞った。鋭い衝撃――刹那に轟音と爆風が突き抜ける。放たれた一射は風を切って猛進すると、的紙の中心から拳一つ分下に命中した。彼女は続けて発砲――その全てが的の中心を穿つことなく、周りに散らばるようなパターンを描いた。
周りでも訓練生が狙いを定めて射撃を続けていたが、そのほとんどが大きく外れて、彼女たちはことごとく尻に蹴りを入れられた。
「どこを狙って撃っていらっしゃいますの!? ケツの割れ目に目玉を挟んだまま忘れてきたと申すおつもりかしら! ブッ殺しましてよ、この、この! あと五発撃ってくださいまし、それで改善しないようでしたら、目玉をそのへんの石ころと交換いたしますわよ!」
狙いを大きく外した訓練生の尻をリーアは狂ったように蹴りつけ、容赦のない罵倒を立て続けに浴びせかけた。だが、オリヴィアの尻だけは蹴りつけようとせず、ただ彼女の撃った的紙を、手にした双眼鏡でじっと見つめていた。オリヴィアは銃を手にしてリーアの言葉を待っていたが、リーアはまじまじと彼女を正面から見つめて、少しばかりためらうように声を掛けた。
「……満足、いきませんの?」
「……」
満足できるはずがない――本来のオリヴィアならば、この倍の射距離からでも確実に中心に当てられたであろう。彼女の狙撃技術は訓練小隊随一であり、陸軍狙撃兵団に配属されても、即座に正規射手として任務を遂行できる領域にある。
オリヴィアが無言のまま俯いていると、リーアは少し困ったような表情でため息をつき、何も言わないままその場から立ち去っていった。呆れて立ち去ったと言うよりも、掛ける言葉が見つからず立ち去ったといった具合であった。一人残されたオリヴィアは、再び小銃を構えて的紙に狙いを定め、弾丸を放つ。それらはいずれも大きく外れることこそなかったが、中心を穿ったものは一つとしてない。彼女が放った十発目は右上に逸れ、着弾の衝撃が的紙を台座から弾き飛ばして地面に落とした。まるでそれが自分を嘲っているように感じられて、オリヴィアは握りこぶしを硬い地面に繰り返し打ち付けた。
何故当たらないのか、理由は明白である。自分の技術ではどうにもならないほどに、心が揺らいでいる。引き金を引くまでの一瞬に生まれた躊躇いが、ほんの僅かに狙いを狂わせる――オリヴィア自身も、それにはっきりと気付いていた。
(……トリガーを引くのが怖いんだ、僕は)
敵と遭遇し、自らの意思でトリガーを引き、そして相手を撃ち殺した――そのときばかりは無我夢中で、自分の体に刻まれた技術を駆使して敵を圧倒することに何の躊躇いも持たなかった。殺らなければ殺られるという恐怖、そして全身を突き刺すような戦闘の緊張と興奮が、オリヴィアにトリガーを惹かせていた。
だが、平和な騎兵学校での訓練にトリガーを引くことを後押しする緊張はなく、一度味わった戦闘のスリルとのギャップがオリヴィアの心を激しくかき乱し、同時にトリガーを引く感覚は、殺人の記憶を否応なしに蘇らせる。
(違う、僕は殺したかったんじゃない。ただ仲間を守りたいと思って……)
何度も胸の中で繰り返した自己正当化の決まり文句――だが、その言葉も心のそこで擦り切れそうになっていた。どれだけ自分を正しいと思おうとしても、トリガーを引き絞った右手は完璧に殺人の感触を覚えている。
撃たなければ殺されていたのは理解しているが、それを当たり前の行為として捉えられるほど、オリヴィアの心は強靭ではなかった。確かに相手は小銃を構え、発砲を加えてきた。騎兵学校生徒に認められた、自衛を意図した反撃の要件には十分に足りる。
だが、それだけで自らの殺人行為を正当化できるほどにオリヴィアは「慣れて」いなかった。敵が先に撃てば、必ず反撃を加えろ――日々そう教えられており、彼女自身は自らの体に刻んだ技術でもってその教えを行動に移し、仲間に狙いを定めた敵を撃ち抜いたが、その後自分の心にどのように整理をつけるかまでは分かっていなかった。
熟練した兵士であれば、自らの行いに悩みこそすれどもその是非について迷うことはなく、敵を殺したことを気に病んで狙撃の成績を落とすこともない。だが、その強さは実戦を通してしか得られないものであり、ましてや精神的な強度が足りているとは言い切れない訓練生が背負うには重すぎる荷物であった。
「……っ!」
自分の未熟さと弱さに腹が立ったオリヴィアは小銃のスリングを乱暴に掴んで掛け、射撃訓練場から立ち去ろうとして、不意に右肩を軽く叩かれた。そこには黒髪を伸ばした華奢な少女――ユイの姿があった。彼女の手にも支給されたばかりの小銃が握られている。
「……オリヴィア?」
「……ユイか」
オリヴィアは深くため息をついて、自分が練習していたレーンに視線を向けた。彼女は的紙に結び付けられていた紐を引いて手元に引き寄せ、撃ち抜いた穴を指でなぞった。
「この距離なら、僕は一発も外さないはずだ」
「……」
「この間からだ、ずっと、ずっと――銃を扱うのが、怖い」
半ば絞り出すような声に、ユイは少しばかり目を伏せていたが、やがて決然とした表情で顔を上げると、オリヴィアの手を握った。
「実戦に加わった、ってことはアイリスたちからも聞いてる。けれど、オリヴィアの言葉で聞かせて――何があったのか、全部」
「……気分のいい話じゃないよ」
「分かってる。けれど、オリヴィアだけに背負わせておけない。みんな心配してる――あの日の戦いで、何があったのか教えて。私とテレサが居ないときに、なにが起きてたのか」
ユイの表情は真剣そのもので、オリヴィアは思わずたじろいで一歩下がり――そして、ユイから視線を逸した。
「どうして……そこまで、優しくなれるんだい」
「決まってるよ――戦友だから。オリヴィアが戦ったから、私は生きてる。行こう?」
ガンロッカーに小銃を戻し、夕陽の差す廊下を並んで歩く。ユイの表情はこれまでに見たことがないほど真剣で、なおかつ穏やかなものであった。適当なところで外に出て、彼女らは二人並んで近くにあったベンチに腰を降ろした。それから数分間は無言の時間が続いたが、やがてオリヴィアはぽつりと呟いた。
「……僕は、実戦で人を撃った」
「……」
ユイは何も語らない。ただ、オリヴィアの言葉を静かに聞いているばかりである。彼女がその手を血に染めたという事実を知ってなお、表情を変えることもせず、ただその場に腰を下ろしていた。
「撤退していく最中、敵の偵察狙撃兵に見つかって、いきなり撃ってきた。僕はみんなを助けようと思って、無我夢中で敵に弾を撃ち込んだ。今でも思い出せるよ――僕が撃った敵は、一発で死んだ」
「……!」
ある程度の予想はしていた――が、その言葉はユイにとって衝撃的なものであると同時に、兵士がいかなる定めを負うものであるかを強く認識させた。刃を手に敵を殺し、同時に敵に殺される――それが兵士たる者の負う宿命であることを、彼女は戦友の言葉から実際の問題として認識した。
「撃ったときのことは、覚えてないようで覚えてる。一発で血しぶきが飛んで動かなくなって、残りの敵を教官が片付けた。それから、僕が殺したんだって自覚が湧いてきて、もうどうしようもないくらい怖かった。感情はめちゃくちゃなのに、理性が澄み切ってて――まるで、自分が……」
そこまで言って、オリヴィアは口をつぐんだ。生まれながらに人間を撃つことを宿命付けられてきたかのようだ、と言おうとしたが、その先は言葉にならなかった。荒れ狂う感情が言葉を途切れ途切れにする――が、ユイはオリヴィアの手をそっと握って頷いた。
「大丈夫――オリヴィアは、私たちの知ってるオリヴィアのまま、変わってない」
「……」
「気持ちは分かる、なんて傲慢なことは言えないし、自分が同じ立場になったら、どうするかもわからない――けれど、オリヴィアは間違いなく自分の手で仲間を守った。それだけは誰が何と言おうと変わらないし、私は一人の兵士として感謝してるよ。少なくとも訓練小隊のみんなはオリヴィアを責めないし、誰にも悪く言わせない――約束する」
そう言い切ったユイの瞳には、鋭い意思の輝きが満ちていた。オリヴィアは暫し沈黙を守っていたが、やがてふっと息を吐いてベンチから腰を上げた。
「敵の血で手を汚しても――みんなは、僕を仲間として扱ってくれるのかい」
「もちろん――もし誰かがオリヴィアに銃を向ければ、同じように自分の手を汚してでも戦うよ。私だってそう――オリヴィアみたいに上手には戦えなくたって、仲間を守りたい気持ちは同じだから」
ユイの言葉は吹き抜ける夕風に乗り、茜の空へと舞い上がる。オリヴィアはどこか救いを得た表情で背筋を伸ばすと、持っていた小銃をしっかりと握りしめた。
「一歩ずつでいい。悩んでも、転んでもいい。だから、オリヴィアは自分のままでいて。それだけで、私たちは――」
「……そうだね。でも、それだけじゃ満足できやしない」
十五歳の少女にしては力強い指が、銃床を強く握りしめる。続く言葉には、明確な自信が溢れていた。
「僕は第7分隊のトップ・シューターだ――だから、誰にも負けたりなんてしない。特級射手の座は、僕のものだ」




