第48話 接触
「……お待たせしました。『共和革命』です」
男が入ってきて数分後、バーの店主は三人にグラスを恭しく差し出した。鮮やかな真紅のカクテルの上には、これも真っ赤なチェリーが一つ――もとはアルタヴァ王国の酒場で供されていた無名のカクテルであったが、その酒場に集っていた共和主義者たちが王党派の軍勢に立ち向かい、多くの犠牲者を出したことからその名が与えられた――王政の廃滅を掲げる共和主義者の間では、勝利の代名詞と呼ばれているカクテルである。
「……乾杯、では味気ないな。革命万歳、でいいのかな」
グラスを受け取ったベアトリクスは、グラスの中でチェリーを揺らして隣に腰掛けている男に視線をやった。男はふっと表情を和らげ、それから首を横に振った。
「冗談さ……センスも悪くない。まずは乾杯と行こうか――王国に乾杯!」
男は目の高さにグラスを掲げ、真紅のカクテルに口をつけた。ベアトリクスとリーアも同じように口をつけ、革命戦士の血というにはいささか甘すぎるその味わいに困惑しながらも、少なくとも相手が本物の共和主義者でないことを理解して僅かに警戒を解いた。
もっとも、相手が何者であるか不明である以上、根本的に警戒を緩めるということはない。グラスを手に静かに呼吸を整え、相手が突然飛びかかってきてもその場に叩き伏せられるように両手足にゆっくりと力を乗せていく。
「……何か、酒のつまみは必要かな。今日はそっちをもてなしに来たんだ。俺が出す」
男はそう言ったが、ベアトリクスはグラスを片手に首を振った。
「なに、他人の奢りで食うと美味しく感じないのでな……ベーコンステーキを。リーア、貴様も食うか」
「ええ。せっかくですから、私も同じものを……貴方は?」
リーアが視線を向けると、男は小さく頷いて同じようにベーコンステーキを注文した。男が注文した『共和革命』のグラスが空になると、ベアトリクスとリーアがそれぞれオーダーした『無窮の王権』と『暴徒鎮圧』が一杯ずつ運ばれてきた。
いずれもカクテルと呼ぶには強烈な度数であったが、二人は敢えてそれを選んだ。相手をある程度酔わせてしまえば、万が一に「何らかの事故」が起きた場合にも安全に離脱することができる。それと同時に、相手を酔わせても、自分が酔わないというだけの確固たる自信を持ち合わせてもいた。
下準備はそれだけではない。敢えて昼間からベーコンステーキを注文した理由は一つ――つまみとして食べるふりをして、自然にナイフを手にすることが可能という一点に尽きる。格闘戦に習熟した兵士であれば、ステーキナイフであっても急所を斬りつけ、相手に致命の一太刀を浴びせることは十分に可能である。それを全て考慮した上での、強い酒とベーコンステーキであった。やがてベーコンステーキが運ばれてくると、ベアトリクスは隣に腰掛ける男に気を払いながらナイフを手に取って口を開いた。
「……そういえば、名乗りがまだだったな。私は――」
「知っているとも、王国陸軍第一騎兵隊、特務教育隊練兵軍曹――ベアトリクス・タウラス軍曹。そしてその隣は、同じく特務教育隊練兵軍曹、リーア・レインメタル軍曹。下調べは済ませてきたよ――もちろん、貴官らの経歴も」
『……!』
ベアトリクスとリーアの手に、僅かに力が籠もる。手にしているナイフの先がほんの少し震えたが、二人は意志の力を総動員して動揺を押さえ込んだ。ベアトリクスは「暴徒鎮圧」を一口含むと、静かにナイフを握り直し、静かに問いを投げた。
「デートの相手の情報にしては、えらく物騒な言い方をする」
「気に障ったかな」
「いや、逆に興味が湧いた――貴様が何者なのか、こちらからも問わせてもらってよいか」
その一言に男は破顔し、目深に被っていたハットを脱いで素顔を二人の前に晒した。やや長く伸ばした黒髪と澄んだ鳶色の瞳が特徴的な――恐らくは、実年齢よりも若く見えるであろう出で立ちの、どこにでもいる普通の男である。だが、その鳶色の瞳は闇夜に燃え上がる炎のような光を帯びており、時折獲物を見定める虎の眼のように危険な輝きを放ちさえした。
数秒間の沈黙を経て男はふと顔を上げ、ベアトリクスとリーアを交互に見つめた。さながら猛禽に狙われた小鳥の気分で、二人は眼前の男が口を開くのを待っていた。相手の正体は未だ定かではない――だが、こうして「誘い」に乗った時点で、二人は相手を警戒すべき対象であると捉えていた。
背後からの尾行――というよりも、圧力を多分に含んだアピールをベアトリクスとリーアが見逃すはずもなく、それが情報部と接触した自分たちを対象としたものであることもまた、同じく明白であった。それ故、ベアトリクスとリーアは自ら第七分隊を先に離脱させ、敢えて自分を囮として、尾行してきた男と接触するという形で、訓練生たちを守っていた。
男は暫しリーアとベアトリクスを無言のままで見つめていたが、やがて小さく頷いて、表向きは穏やかな表情で口を開いた。だが、その眼だけは笑っておらず、獲物を前にした虎の眼の輝きを煌々と宿していた。
「外務省調査局、ハウラー・リューテック――ご存知の通り、探偵のようなことをやっている。今日は幾つか、貴官らに訊きたいことがあって無礼ながらあとをつけさせてもらった」
『……』
ベアトリクスとリーアは変わらず無言のままで、リューテックと名乗った男を見つめていた。情報関係者の常というもので、必ずしも本名を名乗るとは限らない。むしろ、偽名を使って生活する時間のほうが遥かに長くなり、自らの本名に違和感を覚えることすらある。恐らくまともに調べたところで何も出てこないだろうと感じたベアトリクスは、静かに相手の次の言葉を待った。
「まだるっこしいやり方は好きではないだろう――いきなりだが、本題に入らせてもらう。何の思惑があって、陸軍情報部のハーネルと接触した?」
「……」
見透かされている――そう感じたベアトリクスは、グラスを片手に一瞬だけリーアと視線を交わし、リューテックの問いに答えた。
「理由? それならこちらが聞きたいくらいだった――我々がゲリラ部隊と交戦したと聞きつけて、何か有益な情報は持っていないか、と聞かれただけだ」
「それなら情報部所属の下っ端にでも聞き取りをさせればいいことだ。少佐ともあろう者が、練兵軍曹だけでなくその場に居た訓練生まで呼びつけて話を聞こうとしたのだ――よほどの事情がなければ、そのようなことにはならない。それに、あの男はガセネタや憶測で動く男ではない。何かしら、心当たりはないか」
「分からないな。ともかく、戦闘経過報告書については陸軍省で一部閲覧可能な状態にしておくように要請してある。それ以上のことは話していない」
ベアトリクスが表情を変えずにそう言うと、リューテックは暫し彼女を見つめ、それから切り口を変えて新たな問いを投げた。
「では質問を変えようか――貴官らは、共和主義者に対する王国政府の対応について、いかなる意見を持っている?」
「それは、一人の軍人としての意見か? それとも……ただのベアトリクス・タウラス個人の意見か?」
「どちらでも構わない、と言いたいところだが――そうだな、個人としての意見を聞きたい」
その一言に、ベアトリクスは緊張の糸を張り詰めさせた。個人としての意見を聞き出し、そこから相手の心に侵入するテクニックは、対人情報収集を得意とする諜報員――特殊工作戦に必要な武力を持たない文民調査官にとって重要な技術である。
そして、その総本山と呼ばれているのが、リューテックの属する外務省情報局である以上は警戒せずにはいられない。酒の席での話になったのも、恐らくは相手の心に踏み入るため――そう思ったベアトリクスは、ナイフを少し強めに握ってその問いに答えた。
「現状の対応が正しいと考えている。危険思想の持ち主については常時監視、必要があれば勾留。反乱に対しては即時射殺――王権を永続的たらしめるためには、必要なことだ」
「お見事。裏も表も筋金入りの軍人だ。だが、今までに一度も国家の判断を疑ったことはないと言い切れるかね? 共和主義に対抗するために必要なあらゆる方策を、貴官はその心のすべてで支持してきたと言い切れるか――どうだ、タウラス軍曹……いや、『元少尉』?」
挑発的な一言であった――が、ベアトリクスは平静を装って手にしたナイフでベーコンステーキを切って口に運ぶと、至って冷静な表情でその言葉に応えた。
「そこまで調べているのなら、わざわざ問うこともないだろう。私は王国のために、あらゆる手を尽くして戦ってきた。その全てが美しい理想に溢れていたわけではないことは認めよう――だが、私の軍人としての理念、そして一人の愛国者としての立場は、どれだけ血に塗れようとも揺るがない。必要なことだから支持してきたし、今でもそれが正しかったと信じている」
「……実験小隊の解体後、その責任を問われて降格されても、かね」
「無論だ。私は誇りを持って命令に従い、任務を遂行した。その結果であるならば、私に意見する権利はない」
取り付く島もない答えに、リューテックはため息をついて手元のベーコンステーキを大きく切り分けて頬張った。そのまま暫し無言の時間が続き、リューテックは最後の一切れを飲み込んで、グラスに残った酒を一気に呷ってベアトリクスのほうへ銀貨を数枚、そして一枚の紙切れを滑らせた。
「……巌のような女だと聞いていたが、そこまで言うか。まあいい――ありがとう、悪くない酒だった。それは私の私書箱だ――何かあったら、連絡してくれるといい。気が向いたらまた会おう」
「ああ、気が向いたら……な」
リューテックが背中を向けて出ていったのを確認して、ベアトリクスは机に置かれた銀貨と、それと一緒に寄越された一枚のメモ用紙に目をやった。そこには私書箱の番号が乱雑に書きつけられている。それを見たリーアは、興味深げな視線をベアトリクスに向けた。
「……連絡は?」
「しない。だが、これは持っていく」
「天の邪鬼ですのね」
「かもしれんな……さて、もう少し飲んでいこう。どうせ今日は休みだ。酒が呑みたいといったのは、本当だ。あいつの尾行に気付いていたからというだけの理由ではないさ」
その言葉にリーアは呆れたように肩をすくめながらも、人差し指を立ててバーの店主を呼んだ。
「いつもと同じように」
「……かしこまりました。では、例によって気分次第で」
リーアはその言葉に小さく頷くと「共和革命」のグラスに残っていたチェリーをつまみ上げて口に運び、ベアトリクスに笑いかけた。その表情はどこか、昔を懐かしんでいるかのようでもあった。




