第47話 カクテル・グラス
陸軍情報部の庁舎から出て数分の間、少女たちは一言も交わすことなく馬車の固い座席に腰掛けていた。ハーネルのはなった一言――共和主義ゲリラを支援した内乱の疑いがあるグラウゼヴィッツ伯爵を監視し、それと同時に国内過激派の動向に目を配れ、という一言は、少女たちの胸の奥に重くのしかかっていた。
確かに自分たちはグラウゼヴィッツ伯爵の送り込んだ私兵を撃退し、共和主義テロリストが送り込んだゲリラ部隊と交戦、これを退けはした。しかし、この二つに何らかの繋がりがあることまでは知らずに居たし、知らないままでいるほうがよほど幸せではなかったか、とまで感じていた。
何も知らなければ、彼女たちはただの兵士のままでいることができた。しかし、ハーネルに呼びつけられて話を聞かされた以上は、もはやごく当たり前の兵士ではいられない。ただ命令に従い敵と戦うだけの存在のままでは、今の状況を受け止めることはできない――それが、第七分隊の面々が胸中に抱いた感情であった。
分隊において現状の危険性に明確に気付いているのは二人――貴族の家系に生まれ、政治に関しては英才教育を受けられる環境にあったアイリスと、将官を父に持ち、政治に関する素養も深いエリカは、ハーネルの申し出が単なる「頼み事」の域にとどまっていないことを認識していた。
確かにハーネルはユニコーン部隊設立の暁には政治的な庇護を与え、身分の保障に尽力するとは言ったが、諜報に関与する武官の言葉を迂闊に信用するべきではないと二人は感じていた。
彼が語った言葉――権力の中枢にありながら国家を裏切った者たちによって、歴史上幾つもの国家、あるいは諸侯が滅亡を迎えてきたのは、紛れもない事実である。それと同時に、国軍においては裏の参謀とまで称される軍情報部も、多くの味方を騙し、軍内部の派閥抗争では敵対者に取り入る素振りを見せながら裏切るといった行為によって組織を保ってきた。
情報部が保有する「影の軍隊」――非合法越境偵察や暗殺、国外での特殊工作といった任務を遂行する集団の暴力性はそうした軍情報部の事情をおおっぴらに語ることは許さなかったが、僅かでも軍事と政治に馴染みのある者であれば、その性質は十分に理解している。陰謀を好み、他者を平然と裏切り、場合によっては静かに手を下して表舞台から抹殺する――それだけの力を、軍情報部は備えている。
(軽い気持ちで乗ったら、だめだ――)
アイリスは一人、無言のままで馬車の天井を見上げた。陸軍情報部が偽装のために用意したのはごくありふれた軍用の輸送馬車で、一見すると市中警備に必要な人員を乗せた憲兵隊、あるいは装備の払い下げを受けた民警にしか見えない。だが、窓は情報部庁舎が遠ざかるまで開けることを許されず、幌を取り払って小型砲を設置するための鋼鉄製の架台の基部らしきものまで設置されていた。明らかに尋常の用途ではないことは容易に見て取れる。つまるところ、軍情報部は「それだけの」備えをしなければならない組織であるということにほかならない。
現状、ユニコーン騎兵部隊から陸軍情報部――といっても、恐らく一枚岩というわけではなく、ハーネルが属している派閥への協力は保留されている。未だに彼女らは練兵段階にあり、そうした高度な作戦行動に即時関与することは困難であるとベアトリクスとリーアが説明し、ハーネルがそれに同意して部隊編成後の再交渉という形に収まったからである。
ベアトリクスとリーアの説得は単なる時間稼ぎであったものの、少なくとも基礎戦闘訓練を修了し、四十八人の訓練生たちが本物の騎兵に変わるまでの残り一ヶ月以上を費やして対応策を寝ることが可能となったのは、現時点における大きな収穫であった。
それだけの時間があれば、状況に対して何らかの先手を打つ――部隊の設立に強い影響力を持つ教育隊総監に働きかけるなどして、情報部の策謀によって生み出されるであろう混沌たる状況から脱する、あるいは距離を取るための方法を考えることが出来る。それが、ベアトリクスとリーアが考えた戦術であった。
こちらの説得の目的が時間稼ぎにあると認識されることそのものに問題はない。少なくともハーネルは現時点において味方であり、仮に時間稼ぎのための説得であると知られたところで、何ら大きな動きを起こすことはない。
訓練期間を盾に時間稼ぎをされることはハーネル自身も重々承知の上であり、それを見越した上で「予備的に」第七分隊に声を掛けたに過ぎない。いずれはユニコーン小隊が結成され、通常の騎兵を凌駕する機動力と幻獣の持つ魔法に対する強靭な耐性を活かした特殊部隊として運用されることは決まっている。その段階になってから軍情報部が割り込み、指揮系統に影響力を発揮することができれば、それだけで十分である。
しかし、何らかの形でその「策略」があることが外部に伝わってしまえば、その時点でハーネル以外の情報部員が接触を掛けてくる危険性があることをベアトリクスとリーアは見抜いていた。時間稼ぎの間はハーネルが積極的に動くことはない――それは同時に、ハーネル以外の情報部員が先んじて優秀な戦力となりうるユニコーン小隊を手駒にしようと動き始める可能性を示唆している。情報部が一枚岩でない以上、それはある意味において当然の対応ですらあった。徹底的な機密保持が行われることは決まっており、分隊員たちにも一切口外しないように命令が下されている。
後戻りできないところまで来てしまった――その思いを胸に抱えたアイリスが目を閉じ、眠りに落ちることで気分を紛らわそうとしたその瞬間、これまでぼんやりと窓の外を眺めていたベアトリクスが、御者の後ろにある小さな扉を軽く叩いた。
「……何だ、軍曹」
御者を務めていた曹長が面倒臭そうに振り返ると、ベアトリクスは妙に真剣な表情で曹長に話しかけた。
「曹長。少し行き先を変えてくれませんか――昼間から酒を呑みたくなった」
「なんだって。聞いちゃいないぞ、そんなこと」
「そうでしょう――急に呑みたくなったのですよ、いけませんか」
「いけませんかって……軍曹、そりゃまずい。今日は休暇かもしれんが、昼間からじゃ酒場も開いちゃいるまい。それに、途中で降ろしたなんて言ったら、ハーネル少佐に何を言われるか――」
曹長がそこまで言ったところで、ベアトリクスはポケットに入れていた革袋から銀貨らしきものを数枚掴みだして握らせた。そればかりでなく、隣に座っていたリーアまでもがポケットに入れていた銀貨を掴み出して曹長に握らせた。突如として大金を得た曹長は目を白黒させて、ベアトリクスとリーアに視線をやったが、ベアトリクスは二の句を継がせなかった。
「曹長、ここまで護衛してくれたお礼と思って、今夜はこれでいい酒を呑んでください。第三街区の歓楽街――ヴェルカー通りの四丁目まで送ってくれれば、それで結構です。基地には自力で戻りますので」
「……分かった。気をつけるんだぞ」
「イエッサー」
馬車は曲がり角で方向転換し、緩やかにスピードを上げて歓楽街へと向かう。夜中には魔石灯の明かりに華やかに照らされ、盛り場の女たちがあちこちで誘う退廃的ながらも美しい光景が展開される街であるが、正午にもならない時間では、そこは未だに静寂を保ち、穏やかな午睡の中にあった。
その一角でベアトリクスとリーアは馬車を降り、足早に路地の奥へと消えていく。第七分隊の訓練生たちがその背中をぼんやりと見送っていると、御者を務めていた曹長が呆れたように呟いた。
「お嬢ちゃんたち、休暇だからって酒を呑むような悪い軍人になるんじゃないぞ――まあ、俺の言えたことでもないがな。それじゃ、基地に帰るぞ。全く、何がしたかったんだか……」
馬車を降りたベアトリクスとリーアはそのまま路地裏に向かい、一件のバーのドアの前で立ち止まった。緑青の浮いた真鍮のプレートには「竜騎兵」の文字が流麗な彫刻で刻まれ、その店が重ねてきた歴史を示していた。
「久しぶりだな、ここに来るのも」
「……三ヶ月を久しぶりとは表現しませんわよ? けれど――実験小隊に居た頃にはほとんど毎晩来ていましたからね。まあ、久しぶりと言えないこともありませんけれど。入りましょうか」
ベアトリクスはひとつ頷き、錆が浮いて空きにくいドアノブを回してバーの扉を開けた。錆びついたドアベルは来客を告げる音色を響かせることはなかったが、そのバーの主はグラスを磨く手を止めて二人を出迎えた。
「タウラス少尉に、レインメタル少尉――お久しぶりです」
「……少尉はよしてくれ、マスター。特務士官は普通の士官ほど偉くないし、もう練兵軍曹に格下げされた。リーアも揃ってだ――軍は相変わらず薄情だよ。どうだ、ここは儲かっているか?」
「おかげさまで……といっても、来る客は揃いも揃って軍人ばかりですが」
「なら結構。いつも通り、私の愛した『竜騎兵』だ。それと、この後客人が一人ここに来る予定だ。少しばかり配慮をしてもらえると助かる」
ベアトリクスの言葉を聞いた酒場の主人は、一瞬だけ瞳に鋭い輝きを宿した。だが、すぐさま柔和な表情で深く頷いた。
「では、昼間は休業にしておきましょうか。まあ、鍵を閉めていなかっただけでほとんど休業のようなものでしたが――」
主人がそこまで言ったところで不意に酒場のドアが開き、灰色のロングコートを羽織り大振りなハットを目深に被った長身の男が姿を現した。ベアトリクスとリーアは一瞬視線を交わし、その男が席に着くのを待った。男は暫しの間メニューを見つめていたが、やがて興味を失ったようにそれをスタンドに立てると、すっと人差し指を立てて主人を呼んだ。
「……異国のカクテルは、出せるかな」
「ええ――何なりと」
「アルタヴァ風のものでも?」
「問題ありませんが」
その一言に男はふむ、と暫し考え込み、それから注文を出した。
「では……そうだな。『共和革命』は出せるか?」
「辛口のカクテルと政治ジョークがお好きで?」
「ああ。それと、そちらの淑女二人にも同じものを」
「かしこまりました――少しばかりお待ちを」
バーの主人は深々と頷くと、一旦カウンターを離れてドアに「閉店中」の札を出しに行った。ベアトリクスとリーアは左隣に腰掛けた男に視線を向け、瞳に鋭い輝きを宿して話しかけた。
「……面白い趣味をしているな。私からもアンサー・カクテルをサービスしよう――次は『無窮の王権』でも出そうか」
「あら、面白い遊びですこと……では私からは少し強めで『暴徒制圧』を一杯ごちそうしましょうか。ここの店の名物カクテルでしてよ? わざわざ追いかけてきてくれたのなら、とびっきりのをごちそうしませんと」
その言葉に男はにやりと笑ってハットの影で瞳を静かに光らせ、ベアトリクスとリーアを交互に見つめ、それから口を開いた。
「流石に度胸も冗談も一級だ――特務少尉。いや……今は元少尉か」
「……」
辺りに緊迫した空気が満ちる。だが、男はそれを意に介さず二人に笑いかけた。
「ともかく、一杯呑みながら緊張を解そうじゃないか――そうとも、わざわざ追いかけてきたんだ。ややこしい話だ、素面じゃ重苦しいだろう?」