第45話 仄暗き影
部隊が騎兵学校に帰投した翌日の朝、普段ならば女子兵舎にけたたましく鳴り渡る起床ラッパは、その音色を響かせることはなかった。だが、起床時間を身体に叩き込まれた四十八人の少女は起床ラッパが鳴り響く二十分前に目を覚まし、ただ静かにその場で時を待っていた――が、彼女らの期待を裏切り、時間が過ぎ去ってもラッパが響くことはない。
「……あれ? ラッパは?」
アイリスは不思議そうな表情で身を起こしてベッドから這い出すと、兵舎の壁に掛けられた古びた柱時計に目をやった。午前五時五分――五分が過ぎても起床ラッパが鳴らないことに少女たちは暫し違和感を覚えていたが、やがてベアトリクスから聞かされた言葉を思い出した。
「……休暇だ。一ヶ月ぶりだぜ、信じられるかよ? まあともかく、おはようお嬢」
蚕棚などと綽名される三段ベッドの上から身を翻してカレンが飛び降り、続いて軽くアイリスとハイタッチを交わしてぐいと腕を伸ばした。
「しかし、休暇だってのに体が早くに起きちまうってのも考えものだな。兵隊根性が染み付いちまってやがる――多分アタシら、シャバに戻れねェぜ?」
「かもね。けれど、ユニコーン乗りは一生やれるわけじゃないでしょ?」
アイリスの言葉に、カレンはふっと笑みを浮かべた。
「かもな。聞いたところによると、アタシらが入隊する前に設置されてた実験小隊、ほとんど解散状態らしいじゃねェか。『寿除隊』で乗れなくなったやつがやめてんだとさ――まあ、アタシらもいつかは除隊することになるんだろうが」
「……現役のまま陸将にまでなったらどうしよう」
「お嬢、怖いこと言うんじゃねェよ……ゾッとすんだろ、六十までユニコーンに乗ってたら、それこそ――」
そこまで言って、ふとカレンは真顔に返った。
「……待てよ。あの教官二人、どうみても三十近い――ってか、三十超えてねェか? それでいて現役のライダーってことは……」
「やめてあげて」
「しかし、ユニコーンは清らかな乙女にしか背中を預けないって聞くぜ。アタシらはともかくとして、あの年齢で処女ってのは――」
そこで堪えきれなくなったのか、カレンは体をくの字に折って笑い始めた。それは隊員たちの間にも伝染し、少女たちの間に爆発的な笑いが広がる。それはある種、戦闘の緊張から解放されたことの反動だったのかもしれない。
「三十路のっ……処女があの罵倒って……っく、くく……」
普段は謹厳なエリカですら笑いを堪えきれず、顔に枕を押し当てて表情を引きつらせていた。誰もが薄々思っていたことではある――あの教官二人が飛ばす罵倒は淫猥で下品なものばかりであるが、ユニコーンを乗りこなす以上「最後の一線」においては自分たちと何ら変わらない生娘ではないか、と。
「ったく、あんだけアバズレだの何だの言っておいて、自分が処女じゃ世話がねえ。男とも付き合わずにあの言い方って――」
呼吸が乱れるほど笑いながらカレンがさらに何か言おうとしたそのとき、突如としてドアをノックする音が響き、一秒後には何の遠慮もなく開けられていた。そこに立っていたベアトリクスと視線が交わるやいなや、少女たちはぎょっとした表情で目を見開いた。つい数秒前までダシにして笑っていた相手が目の前に現れる――その驚愕すべき事態に、四十八人全員が凍りついた。
「……どうした、揃ってゲラゲラと笑っていたようだが。何か面白いことでもあったのか」
「いえ――他愛のないことです」
瞬時に表情を整え、カレンはその場で敬礼した。ベアトリクスは暫し訝しむような視線をカレンに向けていたが、第七分隊の方を向くと彼女たちを手招きした。
「第七分隊に陸軍情報部より招集だ――武装は不要、一種戦闘服を着装の上、直ちに来てほしい、と。恐らくだが、先だってのゲリラ部隊についての聴取だろう。行ってこい――以上だ。ひと月ぶりの休暇中だが、貴様らにはいくつか役割があるのでな。シュタイナー、こいつらを頼む。一応だが、私も聴取に立ち会わせてもらう」
「マム・イエス・マム――みんな、行くわよ」
隊長のエリカは全員と素早く視線を交わし、個人用のロッカーに収めていた戦闘服のジャケットを手に取った。他の者たちは渋々といった表情で身を起こし、普段どおりに
慣れた手付きで戦闘服を着込んでいく。周りの訓練生は彼女たちに声をかけようとしたが、うまい言葉を思いつかずその場で目を伏せた。第七分隊の隊員たち自身は気付いてはいないが、彼女らの雰囲気が明らかに以前と違うことは周囲の者たちにとって明白であった。
特に後方警戒として山岳戦闘団に追従した四人――エリカ、アイリス、カレン、そして自らの手で敵を射殺したオリヴィアの纏う空気は、どこか刃のような鋭さを帯びていると訓練生たちは感じ、彼女らに何らかの激烈な事態が降り掛かったことを察していた。
「……少し、行ってくるわ」
隊長のエリカは周りで心配そうに見つめる戦友たちに微笑みかけると、第七分隊を率いて廊下の向こうに消えていく。その様子を見送る少女たちの視線は、不安と困惑に揺らいでいた。
第七分隊の六人とベアトリクス、そしてリーアの八人は、騎兵学校の営門前で無言のまま迎えが来るのを待っていた。誰一人言葉を交わすものはなく、いずれの者の表情も固い。分隊員たちの胸中にはいくつかの疑問――自分が何故情報部の聴取を受けねばならないのか、何を問われるのか――そういったものが渦巻いてはいたが、その場に漂う異様な雰囲気に、誰一人として教官に問いを投げる者はいなかった。
彼女らが営門前に出て数分後、つや消しのオリーブドラブに塗装された馬車――これといって特徴のあるものではなく、ごく当たり前の陸軍の量産規格品として作られた大型輸送馬車が到着し、馬を操っていた曹長はベアトリクスをはじめとした八人に視線を向け、ただ一言「乗れ」と命じた。
「……行くぞ」
ベアトリクスの一言を合図に、全員が急ぎ足に馬車に乗り込む。内装などというものは何一つなく、長い一枚板がベンチ代わりに打ち付けられているのみである。貴族が使う長距離用馬車を知っていたアイリスはあまりにも酷いその乗り心地に閉口したが、同時に文句を言ったところで改善されるはずもないことをよく認識していた。
(何が起きてるんだろう。陸軍情報部って言えば……)
諜報関連にはそれほど明るくないアイリスでも、軍情報部がいかなる組織であるのかは理解していた。組織の全てがその任務についているというわけではないが、国際軍事情報の収集、国内での過激派動向の調査といった機密性の高い業務に従事し、公式には認めていないものの、独自の戦力を有して国内外のテロリストに対する暗殺作戦、あるいは国交断絶中の隣国アルタヴァ共和国への非合法越境を伴う特殊工作戦といった、いわば軍の暗部を担う部局である。
そうした組織からの呼び出しとなれば、尋常の事態でないことはその場の全員よく理解していた。生まれながらに軍に縁があり、軍組織についてある程度の知識を持つアイリスとエリカとユイ、教官であるベアトリクスとリーアはもちろんのこと、そうでない他の三人でさえ、現状が異常であることを認識していた。
確かに前線に立ち、ヴェーザー王国国内に潜伏するゲリラと交戦はした――だが、自分たちはただ戦っただけであり、敵と接触して言葉を交わしたわけではない。ただ軍人として後方警戒の任務を果たし、離脱時に妨害を試みた敵兵を排除したのみであるため、情報部の取り調べを受けるような事情はどこにもない。
(調べたいのは私たちじゃない。私たちがあの戦場で接触したのは、山岳戦闘団と敵の共和主義ゲリラ組織――そのどちらかが、何か重大な軍事的機密を帯びている……)
アイリスのそれは、情報に基づいた予想というよりも野性的な直感に近いものであった。敵に遭遇しないことを祈りながら戦場を駆け抜け、命からがら騎兵学校に戻ってきた彼女ら訓練生には、事件について十分な情報を得るだけの機会は存在しなかった。
与えられた情報といえば、訓練施設まで伝言を持ってきた士官が語った「各地でゲリラ部隊による同時多発テロ攻撃が起きた」というただ一言と、自らが戦場となった山脈で目にしたものだけである。情勢から自らの立ち位置を把握するにはあまりにも情報が不十分であり、現状の判断は直感に頼らざるを得ない。
単に作戦行動についての報告書を作る上で必要な事情聴取であれば、練兵軍曹から情報を集めればそれで済む話である。臨時的に作戦行動に加わったとはいえ、第七分隊は訓練部隊に過ぎず、その証言は効力の薄いものとして取り扱われる。
何らかの事情があったとしても、わざわざ訓練生たちを呼びつけるような事情はなく、ただベアトリクスとリーアを読んで話を聞けば、それだけで軍公式の調書を作ることは可能である。だが、敢えてそうしなかったとなれば事情は大きく変わる。
軍情報部は作戦行動についての報告書を作ろうとしているのではなく、もっと込み入った事情――それが何を意味するのかは分からないが、尋常の事態でないことだけは十分に認識していた。
アイリスがあれこれと思案を巡らせているうちに、唐突に馬車は停止した。体感時間では二十分弱――だが、窓のない幌に覆われた馬車の中では時間感覚があやふやになり、どこを走っていたのかも理解できないため、正確な移動時間ではない。馬車を操っていた情報部所属の曹長は、半ば追い立てるような調子で八人を馬車から下ろし、半地下式になっている駐車スペースから、軍施設と思われる建物の中へと案内した。決して愛想がいいわけではなく、言葉を交わそうという様子もない。だが、情報部という組織の性質からみて、それはやむを得ないことであるとアイリスは感じていた。
そのまま建物の中――窓がなく薄暗い廊下を渡り、案内役の曹長は情報部士官の執務室が並ぶ棟で彼女らを止めて、一つのドアを無言で指さした。真鍮製のドア・プレートにはオットー・ハーネルの名前――だが、それが本当の名である保障はない。
ベアトリクスは一度頷くと、ドアを三度ノックして中にいる情報部士官に呼びかけた。
「ハーネル少佐――参りました。第一騎兵隊・一角獣特務訓練小隊練兵軍曹――ベアトリクス・タウラスであります。入室の許可を」
それから少し間があってドアが開くと、そこには金髪の青年――オットー・ハーネル少佐その人が立っていた。年齢のほどは二十代半ばと見え、陰惨な策謀の渦巻く情報部には似合わないほどの美青年である。彼は暫し第七分隊の面々と教官たちを見つめ、近くに立っていた曹長を下がらせてから、穏やかな笑みを浮かべて彼女たちを招き入れた。
「よく来てくれたね、入ってくれ。いくつか質問したいことと、君たちに教えておきたいことがあって呼ばせてもらった。少し込み入った話になる――外では言えないことだ」
『……!』
瞬時に、少女たちの間に緊張が走る。ハーネルはそれを見透かしたように頷き、さらに言葉を続けた。
「最初に把握しておいてもらいたい――この一件において、軍情報部は割れている。私は君たちの味方ではあるが、情報部全てがそういうわけではないんだ。それを分かった上で、私の話に付き合ってほしい。場合によっては、君たちは命を失うことになるかもしれないのでね」