第44話 生還
訓練小隊がゲリラ部隊から逃れて王都に帰還し、騎兵学校に到着したのは訓練終了日から三日が経過した夕方のことだった。少女たちは疲労困憊し、一歩たりとも動けない状態のままで練兵場のグラウンドに座り込んで、ただ自分たちが戦場から生きて帰った実感に浸っていた。
背負った背嚢を下ろすことも忘れたまま動けずにいる訓練生を見たベアトリクスはリーアと暫し視線を交わし、小さく頷いて一歩前に踏み出した。
「諸君――ご苦労だった。別命があるまで訓練は一時中断とする。少しばかり訓練期間が延びるかもしれないが、現状ではまともに動くこともできまい」
『……』
少女たちには、もはや声を出すだけの気力も残っていない。敵が背後に張り付いていることを知った上で山越えを行う――それは単に肉体的な負担だけではなく、精神に強烈な負荷を与える行為でもある。
訓練された兵士であっても戦闘状況に適応できる期間はそれほど長くはなく、ましてや満足な武装もない少女兵であっては、三日間の作戦行動で精神的な限界に陥る。ベアトリクスもそれを理解しており、ぐったりとしたまま話を聞く彼女たちを咎めもしなかった。
「よって、諸君には若干ではあるが休養を与える。それと特別に、現時刻での入浴を許可する。はっきり言って臭いぞ貴様ら。これは命令だ――今すぐまともな女になって戻ってこい。元の時点で顔面にウジ虫が張り付いたレベルのゲロブスだったというのに、今となっては腐った豚の死骸未満だ――では、総員入浴!」
イエス・マムの一言も出ず、彼女たちは幽鬼のような足取りで立ち上がると、もたもたと騎兵学校の宿舎へと入っていった――が、第七分隊だけは真剣な面持ちでその場に残って、ベアトリクスとリーアのもとに歩み寄った。先頭に立っていたエリカはしゃんと背筋を伸ばして、静かな、だが意思に満ちた口調でベアトリクスに問いを投げた。
「教官――我々を援護していた山岳戦闘団は……」
どうなったのか――その言葉が終わる前に、ベアトリクスは目を閉じて首を振った。
「……分からない。だが――彼らの行動は英雄的であった。我々に分かるのは、それだけだ」
「もし消息が分かったなら……私たちにも、教えてはもらえませんか」
「それは出来ない相談だ。教えようと思えば教えられる。だが――察しがつかない貴様らではあるまい? 一瞬とはいえ、彼らの戦いを見たのだ」
ベアトリクスの口調は穏やかであったが、その言葉は訓練小隊を護るために敵に立ち向かった山岳戦闘団が、悲劇的な最期を迎えたことを暗に示していた。はっきりとは口にしない――だが、その意味を第七分隊の少女たちは、一人の戦士として理解していた。
「……訊きたいことはそれだけか?」
「……はい」
一斉に敬礼すると、第七分隊の面々は駆け足でその場を立ち去っていく。背嚢を背負ったその背中を、ベアトリクスとリーアは少し哀しげな表情で見送った。
「ベアト――本当に、良かったんですの? あの娘たちを実戦に参加させたのは……」
遠慮がちなリーアの問いかけに、ベアトリクスは苦しげに目を伏せてから答えた。
「良かったも、良くなかったもあるものか。他の連中は小銃など扱ったことのない者ばかりだ。あいつらを後方警戒に連れていかなければどうしようもなかったし、あそこでモンドラゴンが撃たなければ、誰かが殺されていたかもしれない。死んでしまえば行動の是非を問うこともできなくなるだろう」
「……確かにそうですけれど、兵士としての精神が固まっていない者に手を汚させれば、必然的に心が軋みますわ。外れたら良かったかもしれませんけれど、オリヴィア・モンドラゴンの技術はあまりにも卓絶している――あの短時間で射点を特定して反撃するなんて、まるで陸軍特殊部隊の狙撃手でしてよ。あの娘の心に傷を負わせるものがあるとすれば、それは――」
「……あいつ自身の、殺しの才能だな」
ベアトリクスはため息を一つついて、目を閉じたまま首を振った。オリヴィアの狙撃の技能が他とは隔絶していることを、既にベアトリクスは理解していた。小銃操法の教練過程だけでもその力は十分に把握でき、弾を込める真似をし、手にした小銃を構えて狙いを定めるその姿勢を確かめるだけで、オリヴィアの持つ磨き抜かれた技量と天恵の才覚がはっきりと見て取れた。
「第七の連中はみんなそうだ。直接的な殺しには向いていない者もいる――だが、全員が専門分野の特技兵と比較しても遜色ない力を備えている。指揮官、副官、前衛、工兵、銃士、そして医官――一個の分隊で、ほぼ完結した作戦遂行能力を持っているのはあいつらだけだ。確かに平均的な力では他の連中に敵わないかもしれないし、均質でないという大きな欠点はある。だが……あの分隊以上に兵士向きの集団を、私は知らない。特別な力など何もなかった私からしてみれば、連中の才能は眩しいくらいだ。だからこそ、哀れだ」
「ベアト……」
「兵士の才能なんてものはな、持って生まれた時点で呪いと同じだ。戦争の役にしか立たず、殺せば殺すほどに自分の心が錆びついていく。訓練された兵士でもそうなんだ――あの連中の生の心では、あっという間に動かなくなる。だが、心を錆びつかせて戦うほどに技は磨かれ、仲間の命を救ったという称賛を浴びる――狂っているよ、軍隊は」
「……」
その言葉に、リーアは何も言わずベアトリクスの手をそっと握った。ベアトリクスは首を振り、哀しげな表情でぽつりと呟いた。
「……喋りすぎたな。私も老いたか」
「まだまだでしょう。ユニコーンに乗れる間は、老いたとは言えませんわ」
「記録上、最高齢のライダーは六十代だと聞いたぞ」
「それは極端な例ですわ――行きましょう、ベアト。それと――」
そこまで言ってリーアは一旦言葉をきり、すん、と鼻を動かした。
「……貴女も中々匂いましてよ?」
「生憎と、貴族のお嬢様のように香水を使う習慣は無くってな。それと、貴様も風呂に入ったほうがいい」
「あら、匂いますの?」
「正直なところ、鼻が詰まっていて分からん。訓練生に向かって言ったのは、まあ何というか勢いみたいなものだ」
「ひどい」
「貴様に言われるとは思わなかった――が、汗まみれの土まみれは気分が悪い。さっさとひとっ風呂浴びて状況確認だ。小娘共が休んでいるうちに、我々は大人の仕事をしよう」
ふう、と息を一つ吐いてベアトリクスは立ち上がり、戦闘服にこびりついた泥汚れを払い落とすと、ポケットに収めていた革袋に指先で触れた。本来ならば二十発の定数が収まっているべき場所であったが、そこにあったのは十九発――放った一発は、共和主義に傾倒し、王政を打倒しようと愚行に奔ったテロリストの心臓に食い込んでいる。
(……今更だ。何人殺したか分からん)
小銃で敵を射抜き、ランスの一撃で貫き通し、時には鈍器を振り落として頭蓋を粉砕する――初陣で敵を殺したときは手が震えたが、今は何も感じない。そうすべきであるならそうするだけであると、ベアトリクスは感じていた。一度人殺しに慣れてしまえば心が壊れることはなく、錆びつきながらも戦い続け、完全に動かなくなる前に退役を迎えられる。騎兵が騎兵でいられる時間は、そう長いものではない。
(そうだ、何もかも今更だ……血に塗れた手で導き、自分と同じように手を汚せと教える――そうすることでしか、私は生きられない)
手を何度か握っては開き、ベアトリクスは暮れゆく夕空を見上げた。血のように赤い夕焼けは、まるで自分を責め立てているように彼女は感じていた。
騎兵学校の広々とした大浴場の一角で、第七分隊の面々はぼんやりと湯に浸かっていた。休養期間を与えると言われたものの、実際何をしていいのか分からない――それが、彼女らの偽らざる気持ちであった。
カレンは浴槽の縁に腕を投げ出し、気の抜けた顔でぼんやりと天井を見上げながらアイリスに話しかけた。
「……なあ、お嬢。休暇だってよ」
「そうだね」
「何すりゃいいんだっけ。というかアタシはシャバで休みのとき何してたんだっけ?」
「わかんないよ……寝てればいいんじゃないかな……暇なら騎兵学校の大図書館にでも行って、歴史書でも読んだらいいと思うよ」
「活字なんて読んだら頭が痛くなるだろ……もういいや、明日から考える……」
戦闘の緊張はもはやそこにはない。敵の目から逃れて山の裾を行軍している間に緊張がある程度緩和されたこともあり、少女たちは概ね落ち着きを取り戻していた――が、第七分隊の間で敵と対峙したことについて語る者は誰一人として現れず、なおかつ他の分隊からそれについて尋ねようとするものもいない。
まともな武装もなく、どこから敵が現れるか判然としない環境下での作戦行動は、少女たちの胸に強烈な傷跡を残していった。全員が無事に帰還した今、それについて詳しく語りたいという感情を持つ者など誰一人としていない。それはある意味、後方警戒という脇役にありながらも、実戦を経験した第七分隊――その中でも、小銃を手に敵に立ち向かったオリヴィアにとって、紛れもなく確かな救いであった。
「……なあ、みんな」
カレンは両腕を投げ出したまま、周りで湯に浸かる戦友たちに語りかけた。その表情は決して堅苦しいものではなかったが、これまでにないほど真剣なものであった。
「アタシたちだから、生き延びられた。そうだろ?」
――それに対する返答は、言葉ではなく笑顔であった。
訓練開始から三十七日。少女たちは己の限界に挑み、そして生き延びた。




