第43話 今日を生き延びて
第七分隊が戦闘領域を脱して一時間――彼女たちは、本隊との合流予定地点に到着していた。そこには既に数十名の部隊が息を潜めており、歩哨に立っていた訓練生はアイリスたちを視認するやいなや、しゃんと背筋を伸ばして敬礼を送った。隊列の先頭に立っていたベアトリクスとリーアは一度頷いてそれに答礼し、息を潜めていた少女たちに呼びかけた。
「貴様らの英雄が帰還した。第七分隊は小隊戦列に復帰、再度行軍にあたる。出発は十分後とする――ファック野郎どもが我々のケツに噛みつき、×××に××××を突き刺す前に直ちに離脱する。山の向こうまで抜ければ戦術的価値を持たない原野だ。流石に追ってくるまい。少しばかり時間は掛かるであろうが、貴様らの気が狂わない限りは脱出できる」
『……』
「運が良ければ裏手を行く味方部隊と接触できるかもしれないが、その望みもどこまであるかは分からない。敵の脅威から遠ざかることはできるだろう――が、それ以上に貴様ら自信がこの戦いに耐えきることができるかが問題となる。訓練なら落第して再教育を受けるだけで済むが、この行軍で脱落すれば、貴様らは一人の例外もなく死ぬ」
死ぬ――その言葉は、少女たちの間に強い現実感を持って響いた。敵の存在を肌身に感じ、それから逃げ延びることでしか己の命を保つことができない状況に追い込まれるという苛烈な経験は、彼女たちに死を強く意識させると同時に、いかなる手段を用いてでも生き延びなければならないという気迫をももたらしていた。
当たり前の十代半ばの少女たちであれば、ただへたりこんで絶望に感情を委ねるがままであった――が、彼女ら四十八名は、一ヶ月以上に渡って人格が変貌するほどの苛烈な訓練を耐え抜いてきた。休日はただの一度もなく、毎日のように罵倒と暴力を叩き込まれる日々――控えめに言って地獄にも等しいその時間は、彼女らの精神を鋼の剣のように、強靭かつしなやかに生まれ変わらせていた。
「貴様らウジ虫どもに与えられた選択肢は二つ――這いつくばって生き延びるか、軍靴に踏みにじられて死ぬかだ。十分やるから選べ。その程度の慈悲は、くれてやる」
ベアトリクスが投げかけた言葉に、少女たちは無言で――だが、生存への意志をはっきりとその瞳に宿して応じた。彼女らが生きる理由は、決して自分だけのためではない。自分が無意味に死ねば、その分仲間の命が危険に晒される。鉄の絆に結ばれた少女たちにとって、それはある意味死よりも恐ろしいものであった。
「……いいだろう。貴様らがそのつもりであるならば、我々は全員を生還させるべく死力を尽くす。そこの四人がしたように、一人ひとりが部隊への献身を忘れず、隣に立つ戦友を慮る心を持って刃を握るのであれば、誰一人欠けることなく貴様らは生き延びられるはずだ」
『……!』
「生を望むのであれば、信じて託せ。貴様らの戦友はそれを成し遂げた」
ベアトリクスは一瞬だけ、小銃を手にしてその場に立っていたオリヴィアに視線を向けた。咄嗟の行動であった――が、彼女が放った弾丸は一撃で敵の額を貫いて即死に至らしめ、それは結果としてその場の分隊を救うこととなった。
あくまで自衛の範疇ではあるものの、教官の判断を待たずに撃つという行為は範を逸している――が、ベアトリクスとリーアは、あえてそれを責めようとはしなかった。彼女が撃たなければ敵は悠々と再装填を完了し、致死の一射を誰かに浴びせかけていたことは疑いようのない事実である。決して褒められたことではないが、同時に一方的に責めを負うべきではないというのが、教官としての結論であった。
銃の取扱についてオリヴィアがこの場の誰よりも秀でているのは事実であり、彼女はその技量の全てを駆使して敵と応戦した。だが、これまで自らが生きるために獲物を狩ってきたのとはわけが違う。仲間を護るため仕方が無かったとは言え、オリヴィアは自らの意志によって初めて人を殺めた。ここで彼女を問い詰めれば、間違いなくその心を折ってしまうであろうと考えたベアトリクスは、ただ静かにオリヴィアを見つめるのみに留めていた。
「第七分隊は命を賭して任務を果たした。貴様らがそれに応えるには、なんとしても生き延びる他にない――行くぞ」
『マム・イエス・マム!』
しゃんと背筋を伸ばし、少女たちが敬礼を送る。その視線は、危険な任務を負って生還した第七分隊のもとに注がれていた。殺人者と責める者は誰ひとりとしていない。小銃を手に戦った彼女らには、無上の敬意だけが集められていた。
「……行くよ」
アイリスは手にしていた小銃を肩に掛け、オリヴィアの背中をぽんと叩いた。彼女ははっと我に返って銃のスリングをしっかりと右手で掴み、隣に立つアイリスに視線を向けた。
「アイリス。僕は……」
「部隊全員を救ってくれた。今もこれからも、それだけでいいよ」
「……」
「だから行こう、ね?」
オリヴィアは暫し迷うような表情で視線を宙に泳がせていたが、やがてふっと息を吐いて足早に斜面を下り始めた。その途中、彼女はアイリスのほうを振り向いて微笑みを浮かべた。
「……ありがとう、アイリス」
「いいよ。それに立場が逆だったら、私もきっと同じようにして――」
「――僕は君を支えていた、かな? もう大丈夫だ――少し楽になった。あとは自分の心の中で整理していく問題だ。撃ったのは僕だ」
オリヴィアの顔色は優れず、笑みからは空元気が透けて見えた――が、アイリスはそれを分かった上で彼女に追いついてその隣に立った。
「もし持ちきれないなら、いくらかは私たちが背負うわ。同じ分隊だから、全員で分け合えばいい」
「……優しいな、アイリスは。ありがとう――けれど、僕がトリガーを引いたんだ。その生命については、自分で背負うさ。それが兵士の務めだから」
オリヴィアはしゃんと背筋を伸ばし、背嚢を背負い直す。小銃のスリングを握る手は汗ばみ、呼吸は浅く乱れがちではあった――が、彼女は自らの勇気を振り絞って前を見据えると、普段の調子で大股に歩き始めた。
部隊に大休止の命令が下ったのは、日没から一時間が過ぎてからのことであった。部隊が全て山を下りたところで、ベアトリクスは全員に呼びかけた。
「これより我らは平地を進軍し、野営を張りながら基地に戻ることになる。各自、背嚢に格納した個人用天幕を展開! 夕食は携行しているものから各自好きに摂ってくれて構わん。雑談程度なら結構だが、バカ笑いと焚き火はやめろ。裏手に回れば敵も少ないだろうが、警戒だけは欠かさないようにしろ。それと、一時間ごとに各分隊から二名ずつ、交代で歩哨に立ってもらう。歩哨は銃剣を常に装備し、いつでも攻撃できるように構えておけ」
『マム・イエス・マム!』
「よし――では、全員休んでよし!」
その言葉とともに、少女たちは背嚢に収められていた個人用天幕を展開し、二人分の資材を合わせて簡易な二人用テントを組み上げていく。一足先に天幕を完成させたエリカとアイリスの二人は、地面に帆布を敷くと大きく息を吐いてその上に寝転がった。狂乱に陥らないだけで精一杯の有様から、どうにか横になって休めるまでに状況が改善したことに、彼女たちは心から安心していた。
「……ねえ、アイリス」
「どうかした?」
寝転がって低い帆布の天井を眺めたまま、エリカはアイリスに話しかけた。その視線はアイリスのほうを向いておらず、右手は脇においた小銃のハンドガードに乗ったままだった。
「あのとき、私はオリヴィアより先に敵を見つけていたわ」
「……」
「もしかしたらそうかもしれないと思って、こっちに敵が銃を向けたときになってやっと確信が持てた――けれど、私は何も出来ずに震えているだけだった。それから敵が撃ってきて頭が真っ白になって……気付いたら、オリヴィアが敵を狙撃していた。その間も私は動けないままで――隊長として命令できたはずだし、敵を見つけた時点で撃っていれば……」
エリカは口ごもり、そこから先は言葉にならなかった。アイリスは彼女をただ無言のまま見つめていたが、やがてふっと笑みを浮かべて目を閉じた。
「……私だって出来なかった。エリカが悪いわけじゃない――殺すことを意識したら、撃てなくて当たり前だと思うよ」
「けれど、私は――」
「気負わなくたっていいし、迷ってもいい。私たちは生き延びたんだから、この時間を使ってしっかり迷って、それから答えを出したいと私は思ってるし、エリカもそうあってほしいって思うな。せっかく悩む時間があるんだから、悩まないともったいない、でしょ?」
「……」
エリカは暫し無言のまま考え込んでいたが、ふと自分が小銃に手を掛けていたことに気付き、そっと銃の上から手を退けて、両手を胸の上に乗せて指を組むと、アイリスに視線を向けて微笑みかけた。
「……アイリス。歩哨に志願するから、教官に伝えておいて。第七は明け方の少し前だから、今から眠れば八時間は寝られるわ」
「分かった。やっておくね――じゃあ、おやすみ」
「ええ。貴女も」
全身に伸し掛かる重い疲労感と戦闘の緊張から解放された反動からか、エリカは目を閉じるやいなや眠りの世界に落ちていった。アイリスはそれからも少しばかり起きていたが、気がついたときには、眠りの渦の中へと意識を手放していった。