第42話 弾雨
小隊から離れて数分――少女たちが心の準備をする間もなく、先陣を切って進んでいた山岳戦闘団の一行は敵の姿をその視界に捉えた。濃緑色の戦闘服で草陰に身を隠し、彼らは手にしていたクロスボウを静かに構えた。射程と威力は小銃に劣る――だが、静音性に関して言うならば、彼らの手にしたそれらは最高峰に位置する。何の物音も立てず、山岳兵の装備する革鎧を容易に貫通するだけの威力を備えるとなれば、第一撃を加えるには最適な装備であった。
「……」
隊長のマックスは手袋を嵌めた右手を小さく上げ、その場の全員に素早く視線を巡らせた。射撃用意――静かに息を殺し、一個小隊の兵士たちが狙いを定める。アイリスたち第七分隊は、マスケット銃を手に静かにその様子を見つめていた。
行軍の最中から彼女たちは部隊の後列に置かれ、周囲への警戒に当たっている。欠け落ちた一個分隊の補填としてはあまりにも脆弱――しかしながら、四人の訓練生と二人の練兵軍曹がいれば、人数相応の索敵は可能である。もとより彼女らの一時的な部隊への編入の意図は、戦闘要員を増強することにあらず、ただ偵察警戒能力の低下を押さえることにあった。
草むらの影に隠れて周辺警戒に当たる彼女たちからは、敵がはっきりと見えるわけではない。だが、部隊の様子が変わったことを察するだけの力は訓練において身に着けていた。直接的な戦闘を命令されたわけではなく、後方の警戒を命じられたのみである――が、彼女たちの神経は限界近くまで昂ぶり、澄んだ八つの瞳は狂気のぎらつきを見せていた。
少女たちの呼吸が浅く、短くなっていくのを見て、第七分隊に随伴していたベアトリクスとリーアは少しばかり焦りを覚えた。初陣の新兵にありがちな状態――恐怖心が勝てばただ震えてうずくまるだけだが、戦意が勝てば今のような過度の興奮状態に陥る。命令を待たずに発砲する、あるいは無謀な近接戦闘を挑むといった錯乱状態に陥れば、即座に部隊を危険に晒すことになる。
「……リーア。こいつらをよく見張っておけ。やる気がありすぎだ」
ベアトリクスはリーアの耳元に唇を寄せ、何とか聞こえる程度の小声で囁いた。リーアは分隊の様子をざっと見て、それから深く頷いた。
「……ええ。敵をファックする前に止められるように備えておきますわ」
「頼む」
ベアトリクスは小さく息を吐き、目を細めて敵の様子を確認しようと試みた。双眼鏡は使えない――レンズが僅かにでも反射すれば、索敵能力に秀でた敵のゲリラは間違いなく狙撃を放ってくることを、ベアトリクスは実戦で学んでいる。
限界まで肉眼での捕捉を試みていたが、敵に発見されることを避けて、結局彼女は首を引っ込めた。その直後、クロスボウの弦が風を切る音を放ち、続いて射ち出された矢弾が革鎧を貫通して人体に致死の一撃を与える鈍い音と、くぐもった悲鳴が複数――それに続いて、力を失った体が派手に山肌を転げ落ちていく騒音が響く。
その残響が消えるよりも早く山岳兵たちは手にしていたクロスボウを躊躇なく手放し、続いて装填済みのマスケット銃を手に取って、第一撃によって混乱に陥った敵に向かって問答無用で発砲した。警告も何もない――ただ純粋な殺意だけがそこにあった。森の静寂を貫いて響き渡った銃声に、第七分隊の面々は思わず目を閉じた。
(どうか、何事もなく――)
アイリスは歯を食いしばって恐怖に耐え、掌に形が残るほどの力でマスケット銃を握りしめた。彼女たちに与えられた任務は、火力制圧による敵部隊の一時的撃退が成功するまで後方を警戒し、敵ゲリラ兵による背後への迂回を阻止することである。
最前線に立っての戦闘ではないが、万が一にも自分たちが敵を見逃せば、即座に山岳戦闘団は壊滅状態に陥り、分隊の命運ばかりか、無防備な状態で合流ポイントへの行軍を続ける味方部隊を危機に晒すことになる。アイリスがじっと動かず辺りを見回している間にも立て続けに銃声が響き渡り、その度に彼女は身をすくませた。
アイリスは深く息を吸い込んで呼吸を整えようとしたが、ひゅう、と喉が鳴るばかりで、それが逆に焦りを生じさせる。周りの隊員たちも似たようなもので、戦闘開始から数分も経たないうちに少女たちの精神は限界に近い状態まで追い込まれていた。
士気が衰えたわけではない。ただ焦りと過剰な興奮が混じり合い、頭の奥に焼けた鉄を流されたような感覚が五体を支配する異常な感覚――戦場の狂気としか呼べないものに、彼女ら全員が当てられていた。
激しい射撃戦は数分間継続されたが、唐突にそれが止む。一瞬の静寂――それを切り裂いたのは、マックスの叫び声だった。
「……行け!」
それが合図となって、少女たちは一斉に後方に向かって駆け出していく。敵を一時的に押さえ込み、その間に後方警戒の任を負っていた訓練生たちを離脱させる――それが、マックスとベアトリクスの間で交わされた短い議論の中で決められた作戦計画であった。
結果論ではあるが、彼女らが警戒を固める部隊後方へとゲリラは攻撃を行わず、それが脱出の緒となった。後方への機動を途中で諦めたのか、もとより後方を攻撃する意図が無かったのか――少女たちにそれを知る術はないが、ともかく彼女たちは脱出路を得て離脱を始めた。背後では再びの一斉射撃に続いて、銃剣がラグに差し込まれる板バネの音が響き、直後に枝を踏み折って斜面を駆け下りる足音と天地を揺るがす鬨の声が同時に轟いた。
「っ……!」
ベアトリクスとリーアの表情が悔しげに歪む。ゲリラ部隊との近接戦闘――それは、熟練した正規軍兵士であっても多大な危険が伴う。物資や人員が少ないゲリラ部隊ほど近接戦闘に習熟しており、実戦を重ねたゲリラ兵の実力は王国正規軍の一般的な兵士を凌駕し、ごく一部の特殊な技量を持った兵士――陸海空軍が独自に保有する特殊部隊、あるいは王家直属の戦力として機動運用される近衛騎士でなければ対応できない。
山岳戦闘団の近接戦技能は通常の兵員と比較しても十分に優れてはいるが、熟達した戦技を有するゲリラと刃を交えれば、勝負の行方は五分にはならないとベアトリクスとリーアは感じていた。
苛烈な取締りを逃れる、あるいは武力で跳ね除けることで共和主義ゲリラはこれまで生き延びてきた。その事実こそが彼らの練度の高さを、そして決して侮るべきでないものであることを暗に示している。
(射撃戦で削り、なおかつ白兵に優れた山岳戦闘団とはいえ、相手によっては痛手を置いかねない。稼げた時間はどれほどのものか……!)
ベアトリクスは懐に入れていた懐中時計を一瞬だけ取り出し、それをすぐに懐に戻した。山岳戦闘団は生還の見込みが薄いと知りながら、訓練生を離脱させるために遅滞戦闘を今も展開している。
射撃による制圧、それに続く銃剣格闘、そして一時的に撤退しながら有利に戦える山地を探して敵を誘引――再び射撃戦と白兵戦を展開し、これらを反復することで狭隘地に敵を引きずり込んで圧し潰す。それが、山岳戦闘団の得意とする戦いであった。
しかしながら、敵国アルタヴァにて訓練を受けたゲリラ部隊はその戦法についても十分な理解を有しており、駆け引きを避けて山岳戦闘団に打撃を与えようと試みるであろうとベアトリクスは予想していた。山岳戦闘団が自らの得意とする遅滞戦闘に持ち込めなかった場合彼らは自らの身を盾にして時間を稼ぐ他になく、全滅は免れない。
それはリーアも同じことで、二人の教官は苦い予想を噛み締めながらも訓練生たちを逃がす算段を考えつつあった。地図を出している間も惜しく、頭に叩き込んだ地形図の記憶を頼りに分隊を誘導しながら駆ける。
その間も周囲への警戒は怠らず、偽装と隠密に長けたゲリラをあぶり出そうと視線を走らせる――その刹那、リーアの視界の端で木漏れ日を映した鈍色の光が一瞬瞬いた。同時に彼女は叫び、自らも地面に倒れこむように伏せていた。
「――伏せてくださいまし!」
ほぼ反射的に体が動き、第七分隊の面々は半ば転ぶようにそこに身を伏せた。直後に銃声が轟くと、放たれた一射がアイリスの近くを掠め飛び、木の幹を穿って弾き飛ばした。恐怖を煽る音にアイリスはその場で短く悲鳴を上げ、銃を握りしめたまま地面に這いつくばった。
「――アイリス!」
側に居たオリヴィアの声が響く。彼女は伏せたまま視線を巡らせると、同じように索敵を始めていたリーアとベアトリクスよりも早く、斜面に一人の敵兵が張り付いているのを目視した。手には長大な狙撃用マスケット――兵士がそれに銃弾を再装填しているのを視認した瞬間、彼女はバネ仕掛けで弾かれたように立ち上がり、手にしていた小銃を流れるような動きで構えると、一切の躊躇なくトリガーを引き絞った。
ベアトリクスとリーアが止める間もない一撃――彼女が磨いてきた狙撃の技術は、確かに獲物を逃すことなく穿った。銃身を切り詰めたショートカービンの限界に近い射程への攻撃であったが、放たれた一撃は過たず敵の額を正面から撃ち抜いて命を奪っていた。
崩れ落ちる体を視認したと同時、彼女は野獣のように横っ飛びに跳ねて草むらに身を隠した。それとほぼ同じくして、もうひとり隠れていたらしい敵が発砲し、オリヴィアの近くに生えていた木に弾丸が突き刺さる。ベアトリクスとリーアはその銃口炎を視界に認め、ほぼ同時に発砲して二人目の敵を射殺した。
ベアトリクスは銃を下ろすと、小さく息を吐いて呆れたように首を振り、地面に伏せたままのオリヴィアに視線を向けた。彼女は固い表情のまま、無言で銃を握りしめていた。
「……よく見つけて撃ってくれた。しかし、もうやるな。二発目が来るのも分かっていて避けたのだろうが、遅れていたら死んでいた」
「……」
オリヴィアは一言も語らず、ただ銃を手にして無言のままそこにいた。その手は小刻みに震えていたが、力強い五指はしっかりと銃を握ったままだった。ベアトリクスは彼女の肩に手を置き、次は穏やかな口調で語りかけた。
「貴様は敵を見つけて対処し、仲間を救った。それ以外のことは、今は考えるな」
「……マム・イエス・マム」
普段の快活な彼女の態度に反して、その声は今にも消え入りそうだった。だが、瞳はしっかりと前を見据えている。ベアトリクスとリーアはそれを確かめて互いに頷き合い、第七分隊の少女たちに起き上がるように命じて声を掛けた。
「脱出地点まではそう遠くはない。敵の伏兵は先程排除したが、まだ他にもいるかも知れない。最大限警戒しながら行くぞ――ついてこい」




