第40話 会敵
「――全員、山中に戻れ! 村がゲリラに焼かれている!」
その一言は、少女たちの思考を麻痺させるに十分な衝撃を備えていた。熱に浮かされたように身を乗り出し、山の中腹の台地から見下ろした先にある村の様子を確認すると、そこには確かに細い煙がそこかしこにたなびいていた。
「あの連中、行軍途中に集落を襲いやがった――現地徴発のつもりか知らんが、余計な真似をしてくれた……!」
ベアトリクスはぎり、と歯噛みして腰のガンホルスターに手を掛け、拳銃のグリップを握りしめた――が、それを抜き放つことはなく、背後で呆然と焼かれていく村を見つめている第七分隊のほうを振り返った。
「敵が近くに居る。貴様らはさっさと逃げろ。私もすぐに行く」
『……!』
敵――その言葉に、少女たちは体を硬直させた。実際に武器を手に、正規軍に対して殺意を持って迫る集団がすぐ近くに迫っている証拠を目にしたことで、彼女らの緊張は極限にまで高まっていた。
「教官。一つ、聞きたいことが」
部隊長のエリカが一歩前に踏み出す。彼女だけは表情を変えていない――が、小銃のスリングを握る手は強張っていた。だが、彼女は指揮下にある隊員に不安を見せまいと胸を張り、瞳の奥に輝きを宿して前を向いている。ベアトリクスは暫し黙考していたが、一歩前に踏み出してエリカを正面から見つめた。
「言ってみろ、シュタイナー」
「あの村では、罪なき民草が焼かれているのですよね?」
「そうだ。残虐非道の共和主義者どもの放った炎が、ヴェーザーの臣民を焼いている」
「……この村に救援部隊が訪れる可能性は?」
その一言に、ベアトリクスは暫し黙り込み――そして、沈痛な面持ちで首を振った。
「すぐには来ないだろう。もしあるとすれば、連中がこの村をファックし終えた痕跡を発見するときだろう――その時には、灰しか残っていないだろうがな」
「……っ!」
エリカはぎり、と歯噛みして腰に提げていた銃剣の柄に手を掛けたが、すぐにその手を下ろして首を振った。訓練生でしかない自分が訓練を受けたゲリラ部隊に挑んだところで、あっさりと返り討ちに遭って殺されるだけであるということを、彼女はその聡明さをもって十分に理解していた。
だがそれと同時に、正義を為さねばならないはずの自身が、焼かれていく村を前に足踏みすることしかできない歯がゆさを、彼女は確かに感じていた。今この手に力があれば、ゲリラの抵抗など踏み砕いて敵を殲滅していた――そう思わずにはいられない。しかし現実は非常なものであり、彼女の手に敵を断ち切る剣は与えられていなかった。
「シュタイナー、貴様の感情は理解できる。だが――連中に挑めば死ぬだけだ。貴様がここで死ねば、いずれ救えたかもしれない幾百、幾千の命が失われることになる。命を無駄にするな。仮にも貴様は第七の隊長だ。指揮官の命は、自分ひとりのものではない」
「……」
がっくりと項垂れたまま、焼かれていく村を見つめていたエリカの肩に、ベアトリクスはぽんと手を乗せて語りかけた。
「あの村に住まう幾十を救うことはできないかもしれない。だがなシュタイナー、これは、戦場においてはありふれたことだ。お偉方が騎士道だ、軍人精神だと立派なお題目を掲げても、飢えた兵士の欲求は民草を飲み込むことでしか解決されないことのほうが多い。特にそれが、個人の士気によって組織を保っている非正規部隊であるならば、略奪なしに戦意を維持させることはできない」
「……」
「助けられなかったのは貴様らの怠慢ではない。戦場ではよくあることだ。自分の手元に助けるための力がないのは、決して責めを感じることではない。陸軍という組織の構造が、貴様らにそうさせたんだ。だから――」
「諦めて、見捨てろと……」
「そうだ。どうすることも出来ないのなら、我々は自分を生かすことを選ぶしかない。銃剣一つで突撃して連中と刺し違えれば戦史教科書の片隅には載るかもしれんが、そのような行為には何の意味もない。今は生き延びろ。それが、貴様たちに唯一遂行可能な任務だ。そしてシュタイナー、貴様は配下の分隊員を、全て無事に生還させるという重大な責務を負っている。零れ落ちた命を嘆くのではなく、自らの掌に乗っている命を救え」
「……イエス、マム」
しゃんと背筋を伸ばし、エリカはベアトリクスに敬礼を送った。その表情にもう迷いはない。彼女は分隊員たちと視線を交わし、もと来た道を静かに、かつ素早く戻っていく。その背中を見つめながら、ベアトリクスはふっと息を吐いて首を振った。
(……シュタイナーの言う通りだ。我々が無力でなければ――せめて後期訓練を修了する前であれば、あの命は救えたかもしれない。だが今となっては、全てが後の祭りか)
眼下の村では炎が上がり、民家が次々と炎上して灰になっていく。その様子を、ベアトリクスはどこか冷めた心持ちで眺めていた。隣国アルタヴァとの関係が今よりも悪かった――介入戦争の熱が未だに保たれ、過激派の活動が活発であった頃には、彼女自身も陸軍騎兵として共和主義者のテロリストと刃を交え、その中で今のような光景を何度も目の当たりにしてきた。
それ故――彼女の心は、既に戦場の狂気に錆びついている。民を焼かれれば、軍人として非道のゲリラを討たねばならないという責務は確かに感じる。だが、それ以上の激憤に心を揺らすことはない。自ら進んで民草の盾となり誇りのもとに戦い抜くといった、極めて個人的な激情をもって剣を手にすることはもはや無くなっていた。
ただ命令に従い、眼前で暴威を振るう国家の敵を打ち払うのみ。それが自分の定めであると感じていた彼女にとって、エリカたち第七分隊が見せた悔しげな表情は、どこか自らの根源を揺り動かすものであるかのように感じられると同時に、かつて理想に燃えていた自分の姿を鏡写しに見せられるようなものでもあった。
(あのように烈しく燃え続けることは、普通の兵士ならできるはずもない。いずれは心を凍らせ、自らの任務だけを見つめるようになる。だが、あいつらは……)
一人ひとりの個性と能力は強烈に尖っていて、お世辞にも均質な兵士たり得ることはない。だが、この場において見せた表情だけは本物だった。自らの手が届かなかったことへの悔恨と、民草を焼き滅ぼしたゲリラへの怒り――ベアトリクス自身が戦いの中で錆びつかせてしまった感情を剥き出しに、彼女たちはこの戦場を駆けている。
(……老いたか、私も)
昔の自分ならどうしただろうか――そう思って、ベアトリクスは腰に提げた拳銃のグリップに再び手を掛けたが、すぐに首を振って余計な考えを打ち消した。焼かれていく村を背後に一度だけ振り返り、彼女は第七分隊を追って山中を駆けていった。
第七分隊の帰投から数分後には、訓練生四十八名は再び山中深くを歩き始めていた。木漏れ日を頼りに手にした地図を読み、時折数分の小休止を挟みながら行軍を続ける。帰投に要する時間は通常の街道を行軍した場合と比べて遥かに長くなり、過酷な山地での長距離行軍は、少女たちの身体を容赦なく痛めつけた。
だが、足を止めようとするものは誰ひとりとしていない。敵はどこに潜んでいるか未だに判明せず、場合によっては山岳地を抜けてきたゲリラと遭遇する危険性もある状況下で一言も発せずに歩き続けなければならないとあっては、もはや疲労を感じている暇もない。
本能に突き動かされるままに行軍を続ける――普通の人間ならば精神が参ってしまうほどの苛烈な状況であったが、一ヶ月に渡って行われた暴力的かつ洗脳にも等しい訓練と、心身の限界をともに乗り越えてきた戦友の存在が、少女たちの精神を限界寸前のところで正気に引き止めていた。
敵に発見される危険を回避するため、少女たちはただ無言のままで生い茂る森を進み続ける。だが、交わす視線が、繋いだ手の温もりが、確かに仲間がそこに居ることを彼女らに実感させた。ただ一人で戦ってきたのであれば、直ちに恐怖し錯乱の渦に呑まれていたかもしれない――だが、これまでの一ヶ月で結んだ強靭な絆は、少女たちを未だにその場に踏み留まらせていた。
(……もう、相当歩いたよね)
アイリスは肩に掛けていた小銃のスリングをしっかりと握りしめ、行軍を続ける小隊の先頭を目で追った。何時間が経過したのかは分からない――だが、部隊の行軍のペースは目で見て分かるほどに落ちていた。表情にこそ出さないし、足を止める者もいない。だが、過酷な山地での行軍は、確実に少女たちの体力を削り落としつつあった。小隊の大部分は、極限の緊張のせいで自らが疲労していることに気づかないだけで、実際に力を失うまでの時間はそう長くはない。
(まだ歩ける――けれど、明らかにオーバーペース。このまま行軍を続けたら、どこかで必ず動けなくなる……)
既に何度か小休止を挟んではいるが、数分の休息でどうにかできるものではないとアイリスはどこか冷静に分析していた。一ヶ月あまりの過酷な訓練は、彼女に自らの限界を認識させるに十分な経験を与えていた。どれだけのペースで動けば体力を使い果たすか、彼女は明確に理解していた。
(けれど、敵がどこに居るか分からない以上は長時間の休息も取れない。けれど、動けなくなってから敵に見つかったら、それこそ嬲り殺しだ……!)
小銃のスリングを握る手に力が入る。山中で夜を明かすことになり、そのまま襲撃を受けるなどということは考えたくもない――だが、このまま行軍を続ければ体力を使い果たすのは目に見えている。アイリスが嫌な予感を振り払おうと首を振って前を向いたとき、突然先頭を歩いていたベアトリクスとリーアが立ち止まり、手を高く上げてハンドサインを送った。その場から動くな――声なき命令に従い、全員が即座に停止して身をかがめる。心臓の音が異常なほど大きく響き、呼吸が浅くなるのをアイリスは感じていた。
右手がほぼ反射的に腰の銃剣を探り当てて引き抜き、それをソケットに差し込もうとしたが、アイリスは理性を総動員してそれを堪えた。この場で武器を抜いてしまえば、戦闘の狂乱に呑まれかねない。震える手で銃剣を鞘に戻すと、アイリスはその場でじっと息を殺して命令の続きを待った。それは僅か数秒であったが、極限の状況下に置かれた彼女らにとっては、永遠にも等しい時間であった。
「……全員、立て。味方だ――陸軍の山岳戦闘団が、我々を援護に来てくれた」
先頭に立っていたベアトリクスの声に、少女たちは一瞬目を見開き、大きく息を吐いてゆっくりと身を起こした。アイリスは近くの木の枝を掴み、まったくもって緩慢な動きで立ち上がった。
(味方――山岳戦闘団ってことは……助けてくれるんだ)
辺りの少女たちの表情にも安堵の色が浮かぶ。ベアトリクスとリーアはふっと表情を緩めて、向かいからやってきた山岳戦闘団所属と思われる軍曹のもとに歩み寄って敬礼を交わした。
「陸軍女子騎兵学校、ユニコーン騎兵訓練科――練兵軍曹のベアトリクス・タウラスだ。レーヴェ訓練キャンプから来た。そちらは?」
「第三山岳戦闘団、第二小隊。マックス・ヴェルナルドだ――ここで出会ったのは予想外だが、陸軍の同輩として、ひとつ伝えなければならないことがある」
マックスの表情は明るくない。そこから何かを察したのか、ベアトリクスは表情を固くして次の言葉を待った。
「悪い出会い方をした。敵が我々を追撃中だ。敵は山岳戦闘訓練を受けた一個小隊。練度は高く、こちらに損害が多数出ている。残念だが、貴官らを護衛する余裕はない。我々が囮になるから、その間に離脱してくれ。じきにこの山は戦場になる……!」




