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第3話 入隊、そして痛打

 士官によって少女たちが案内されたのは、赤煉瓦造りの学舎ではなく急ごしらえの仮設兵舎の前だった。学校長からの訓示があるものと思っていた少女たちは肩透かしを食らったように辺りを見回していたが、そんな彼女たちを置いて士官は一足先に去っていった。

 何が起こったのだろうか、と隣の学友たちと少女たちが顔を見合わせていると、突如として張りのある声が響き渡った。


「よくここに来た、雌豚諸君! 歓迎だ――くらえ!」


 少女たちが一斉に振り向く――その刹那、前方に立っていた者たちに、突如として悲劇が降り掛かった。くらえ、と叫ぶ声とともに大量の冷水を顔面に叩きつけられ、まともに食らった者はむせてその場で目を白黒させた。

 何事か、とアイリスが視線を向けると、そこには黒髪を短く刈り込み、片目に眼帯を着けた一人の女兵士が立っていた。ダークグリーンの戦闘服に身を包み、強靭な四肢をぴんと伸ばした屈強な下士官――襟元には軍曹の階級章が刺繍されている。

 その手には空のバケツと、もう一つ水がいっぱいに満たされたバケツが握られていた。軍曹は驚き何も言えない少女たちの後方に回り込むと、再びバケツを振りかぶって、後方に控えていたアイリスたち目掛けて大量の冷水を浴びせかけた。

 全く予想だにしなかった事態に、少女たちはきゃあ、と悲鳴を上げた。仕立てたばかりの軍服をずぶ濡れにされた少女たちのうち、ある者は反感を込めた眼差しを目の前の軍曹に向ける。アイリスも例外でなく、何をするか、とばかりに澄んだブルーの瞳を尖らせた。

 その様子を軍曹はにやにやと笑いながら見ていたが、ふとアイリスに視線を向け、彼女をじっと正面から見つめ――突如として胸ぐらを掴んで少女たちの群れの中から引きずり出し、恐るべき膂力でもって彼女を地面にねじ伏せた。


「おい、貴様――何だその目は」

「っ……!?」

「暑そうだから涼しくしてやったんだ、睨むことはないだろう、ええ? 何とか言ってみろ」


 あまりにも理不尽な言い草に、アイリスは返す言葉もなく目を白黒させた。なお、ヴェーザー王国の4月の平均気温は10度を下回る。むしろ寒いほどであり、少女たちは吹き抜ける春風に身を震わせ、突如として降り掛かった暴力に怯えを見せたが、軍曹は何ら気にかけることなくそれを無視し、地面にねじ伏せたアイリスの肩口を力いっぱい軍靴で踏みつけた。


「涼しくしてくださってありがとうございます、だ。言ってみろ」

「……」


 常識を超えた行動にアイリスが絶句し、蹴りつけられた肩を押さえていると、軍曹は軍靴のつま先で彼女の顎を持ち上げて頭に唾を吐きかけた。


「この場で顎を砕かれたいか? 冗談だと思うなよ――」


 つま先で顎を軽く蹴りつける。明らかに尋常の事態ではない――軍が厳しい環境であることはアイリスも重々承知していたが、もはやモノ扱いですらない。道端のゴミと同然、あるいはそれ以下の扱いを受けている。

 陸軍の末端として働く歩兵ならいざしらず、選抜された騎兵候補生がこのような扱いを受けるなどとは、彼女自身も予想していなかった。だが、この場における反抗が愚かしい行為であること、そして軍隊が「そのような場所」であることを、武門の生まれである彼女は即座に理解し、この場を凌ぐための最善の行動を取った。その場に平身低頭し、アイリスは地面に頭を着けて口を開いた。


「……涼しくしてくださって、ありがとうございます」

「……ふん」


 軍曹は鼻を鳴らし、アイリスの顎に当てていたつま先を退けた。一瞬ほっとした彼女だったが、突如として後頭部に凄まじい衝撃を受け、顔から地面に突っ込んでいった。脳天に踵を落とされた、と理解したときには地面に落ちていた石で額を切り、生温かい感触をこめかみから頬に掛けて感じていた。


「自尊心のない虫ケラめ! 貴様は生まれてきた価値のないクズだ! さあ立て、立ってみろ! 救いようのないゲロブス面をお天道様に曝してみろ! 三秒くれてやる、立てなければ殺してやる、立て、立てと言ったんだ!」

「……!」


 もはや理解も何もあったものではない。下げた頭を踏みつけられて罵倒を浴びたことで、アイリスの感覚は完全に麻痺していた。後頭部に踵を落とされた衝撃でふらつきながらも立ち上がると、切れた額から顎まで血の雫が滴った――だが、立て続けの暴力が容赦なくアイリスを襲った。


「真っ直ぐ立て!」


 唸りを上げて振り抜かれた拳が右頬を撃ち抜き、アイリスはたまらずよろめいた。だが、立て続けに振るわれたもう一つの拳が左の頬骨を軋ませ、彼女を無理矢理に元の場所に戻した。


「立て、真っ直ぐ立てと言ったんだ雌豚! ケツからライフル突っ込んで血のゲロ吐くまでファックするぞ! さあ立て、3、2、1――」

「……っ!」


 意識は既に朦朧としている――だが、アイリスは最後に残った根性を見せつけた。それは崇高な意思によるものでもなんでもなく、突如として降り掛かった理不尽への反発によるものだったが、今の彼女にとってはどうでもよいことだった。ぎり、と歯を食いしばって地面に立つと、口中に血の味が広がった。

 それを見た軍曹の顔に嗜虐的な笑みが浮かび、彼女は後ろ手に持っていた何かをアイリスの顔面目掛けて投げつけた。鈍器か何かだと思って咄嗟に顔を庇った彼女の手の中にあったのは、殴られた時に飛んだ軍帽だった。


「忘れ物だ、アバズレ。十円ハゲは隠しておけ」

「……」


 返す言葉もなく、アイリスはよろめきながら少女たちの間に戻っていった。会ったばかりの人間に何故ここまでされなければならないのか、と反感を覚える一方で、「軍隊とはそのような場所である」と覚悟を決めていた彼女は現状の取扱に対して、ある程度の順応を示していた。

 国軍訓練兵であれ、騎士団に入ったばかりの小姓であれ、とかく理由をつけて殴られる。それを知っていたからこそ、彼女は反感を覚えることこそあれども、反抗の意志を明らかにはしなかった。

 それに、自分に対して向けられた暴力が本気のものでないことも重々承知していた。眼前の軍曹が本気で殴れば、アイリスはたまらずその場で昏倒していただろう。アイリスが軍曹を反感の目で睨んだことは事実かもしれない。

 だが、これはある種の見せしめであり、訓練兵に対してのショック療法――いわゆる「娑婆っ気を抜く」という意味合いで行われたものであることをアイリスは理解していた。痛みからは逃れられないが、彼女の思考はその理不尽が軍隊においてありふれたものであることを認識していた。その意味合いにおいて、アイリス・フォン・ブレイザーは極めて優秀な兵士としての素質を備えていた。

 半ば形式的、演技的な暴力ではある。しかし効果はてきめんであった。つい数分前まで少女たちの顔には期待の色が見えていたが、もはやその瞳に希望はない。突如として降り掛かった暴力を前にして、恐れと反発だけが彼女たちを支配していた。だが、軍曹はそれをどこか満足気な表情で見回し、一歩前に踏み出すと胸を張って口を開いた。


「ようこそ地獄の一丁目へ! 私が訓練教官のベアトリクス・タウラス軍曹だ! 貴様らの五十匹のウジ虫を糞山からつまみ上げ、光り輝くユニコーン騎兵に仕立て上げるのが私の役目だ。先程やってみせたように、私は貴様らに容赦しない! 貴族だろうと大商人だろうと、政治家の娘だろうと知ったことではない――陸軍に不利益をもたらす虫ケラは叩き潰して殺す!」


 あまりにも不穏当に過ぎる発言――少女たちは目の前の軍曹――ベアトリクスの腰に下げられた拳銃とナイフに視線を向けた。これから戦友となるものの一人に対して叩き込まれた圧倒的暴力は、殺すという言葉の重みを彼女たちにはっきりと認識させた。比喩的表現などではなく、事実として殺されかねない。人知れず恐怖に震えた彼女たちの前で、教官はさらに言葉を続けた。


「だが安心しろ、私は貴様らを差別もしない。孤児院育ちだろうが、売春婦の娘だろうが平等に扱ってやる――議員の娘や貴族と等しくウジ虫としてぶん殴り、容赦なく火の中に投げ込む! 貴様らは揃ってクソに塗れた最底辺の生物だが、地獄の炎で生まれ変われば、光り輝く騎兵に生まれ変わる。一年間生き残ってみせろ、その日まで貴様らから、人間としての尊厳の一切を剥奪する! 気分はどうだ、さあ答えろ――お前たちに許された言葉は、どんなときも『マム・イエス・マム』だ。それ以外の言葉は、淫売の客引きの囁き以下だ! さあどうだ、嬉しいか!」


 少女たちは一瞬口ごもったが、次の瞬間には謎の衝動――半分は恐怖に突き動かされるままに叫んでいた。


『マム・イエス・マム!』

「ふざけんな! 聞こえないぞ、膜破れたか! もう一回だウジ虫ども、次は××××引き締めて、上の口から思いっきり声を出せ! 下は閉じとけ、アバズレ!」

『マム・イエス・マムッ!!』


 半ばやけっぱちで少女たちが叫ぶ。それを聞いて、ベアトリクスは腕を組んだまま少女たちを睨んだ。


「今日のところは勘弁しておいてやる――だが次はないぞ。この程度では酒場の売春婦にも劣る。声だけで×××がそそり勃つようになるまで訓練してやる、覚悟しておけ!」

『マム・イエス・マムッ!!』


 もはや意味不明の領域だが、少女たちはどうにかその場を堪えて乗り切った。軍隊に入ろうという覚悟を示すだけの根性は持ち合わせており、この場で涙を流せばもはやここにいられないだろうという不思議な予感が彼女たちを踏みとどまらせた。

 ベアトリクスはそれで概ね満足したらしく、少女たちに命じて簡素な兵舎へ入るように命令した。内部はそれなりに広い――だが、建物そのものは酷くガタが来ており、水を浴びせかけられた少女たちは、そこかしこから吹き込んでくる隙間風に身を震わせた。教官は薄笑いを浮かべて少女たちを見回し、しゃんと背筋を伸ばして彼女たちに呼びかけた。


「さて――ここまで来たら、もう逃げられん。ようこそゲロブス諸君。これから、私は貴様ら最低のウジ虫共に最初の命令を下す。貴様ら全員――その場で全裸になれ!」


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