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第37話 水面下の情勢

 兵士のあらゆる動作において、常に求められる条件が三つ存在する。素早く、迷いなく、そして正確に――それは戦闘状況において、自らの命を守ると共に確実に敵を殺傷するために必要な条件である。陸軍施設での戦闘訓練を開始して十日が経った頃、少女たちの行動には目に見えて違いが現れ始めていた。

 着剣された小銃と重りの入った背嚢を背負ったまま山中に設置された障害物をよじ登り、休むことなく駆け抜け、そしてポイントごとに設置された藁人形を銃剣で突く――総合戦闘技能訓練として課せられた内容はこれまでに無いほどに激しいものであったが、訓練開始から十日が過ぎて、彼女らは苦しいながらもその行為を当たり前のものとしてこなしていた。疲労に歩みを遅らせることはあったとしても、止まることはない。

 入隊前ならば絶対に不可能であったであろう激しい運動の反復に耐える強靭な肉体、そして苦難を乗り切るだけの精神的な強度を手に入れた四十八人の少女たちは、着実に自らを戦闘単位として作り変えていった。

 幻獣騎兵の華やかさに憧れて入隊した者、軍で成り上がる野望を持った者、そして何かから逃れ、新しい自分を手に入れるために転がり込んできた者――入隊者の動機は様々であるが、その誰もが今や一人の兵士たる自覚を身に着けつつあった。

 それは、均質を求める軍隊の常道に反して集められた部隊――第七分隊も同じであった。武器を手に素早く機動し、障害物を飛び越え、山間を縫って駆け続ける。平均的に優れた能力を持つのは隊長のエリカ・シュミットただ一人であるが、その他の者たちは互いに力を貸し合うことで難局を乗り越えていった。


「――ユイ、こっちだ!」

「ありがとう、カレン……!」


 障害物手前でユイの持っていた小銃と荷物をカレンが受け取り、体力的に見劣りするユイが行き詰まらないように支える。カレンは受け取った装備を下で待っていたオリヴィアに手渡し、一瞬だけユイの方を確認して障害物から軽やかな身のこなしで飛び降りた。

 数秒後、同じように下りてきたユイに装備品が返却され、再び第七分隊は侵攻ルート――地図上に記された線の通りに動き、その場に置かれていた藁人形を銃剣で貫く。足取りに一切の迷いはなく、ただ迅速に目的を遂行しようという意思のみが彼女らの行動から読み取れた。


「――エリカ! 今のペースは?」


 オリヴィアが地図を確かめながら、懐中時計を手にしたエリカに問いを投げる。エリカは素早くその針を読み取り、足元の木の根を飛び越えながら答えを返した。


「現時点で四十五分! このペースなら第三分隊にも勝てる――トップよ!」

「いいね、最高だ――おっと! 全員、右に避けろ!」


 オリヴィアの一声に合わせて全員が山道を少し外れる。その先には、数本の蔦が編まれたものが横に張られていた。ブービートラップ――全員が素早く回避すると、オリヴィアは通り抜けざまに枝を一本拾って投げつけ、トラップを作動させた。草むらから脛を払うように枝が派手に跳ね上がる――だが、その一撃は空を切った。


「慣れてきたかもな、私たち」

「うん――きっと、前よりずっと良くなってる」


 障害物を飛び越えながら、アイリスの隣を走っていたテレサが笑みを浮かべた。アイリスは肩にかけていた小銃のスリングをしっかりと掴んで彼女に続き、走るペースを更に早めた。一ヶ月前ならば山道を走ることなどとてもできなかっただろうが、通常十週間の基本戦闘訓練の半分を迎え、彼女たちは本物の兵士に変貌しつつあった。


「そのまま真っすぐだ! この道通りに行けば――」


 オリヴィアが素早く地図を読み、部隊の者たちに指示を飛ばす。通常、指揮の任を負うのは部隊長のエリカであったが、第七分隊はそれぞれの得意分野に応じて役割を分担していた。指揮統制についてはエリカとアイリスが一歩抜けているが、山岳地でのサバイバルや移動、あるいは地図の判読については、山暮らしの長かったオリヴィアが最も得意とする。彼女たちは決して全員が体力的に優れているわけではないが、他の部隊を寄せ付けない機動を見せたのは、オリヴィアに一切を任せているからであった。


「――ゴールは目の前だ!」


 藪を突っ切って、一気に山の尾根から飛び出す。彼女たちの眼下には演習場の野原が広がり、その下では先にゴールして、腹筋や腕立て伏せをしながら待っていた訓練生たちと、教官のリーアが待ち受けていた。第七分隊の面々は互いに笑顔を見せあって山を駆け下りると、リーアの前で立ち止まって敬礼を送った。


「第七分隊、エリカ・シュミット以下六名――到着いたしました!」

「よろしくってよ――タイムは……五十二分でしてよ。一番のウジ虫さんですわ! 虫ケラの分際にしてはよくやりましたわね――では、腹筋か腕立て伏せでもして待っていてくださいまし。同時に第八分隊が出撃しましたけれど、そろそろ戻ってくるはずですわ」

「はっ!」


 六人は素早く自分たちの定位置に着くと、それぞれ地面に横になり、ゆっくりとしたペースで腹筋に入った。もともとは華奢で、運動が不得意だったユイでさえ、厳しいながらも理論的な一ヶ月間の訓練において、ごく当たり前の少女たちと比較すれば十分に優れた体力を得るに至っていた。


「……変わったよな、アタシたち」

「ええ」


 ぽつりと呟いたカレンの言葉に、エリカは小さく頷いた。僅か一ヶ月――だが、その一ヶ月は、これまでの人生における半年にも、一年にも匹敵する経験であった。どんな日々よりも過酷で、苦難に満ちた時間――だが、その痛みと苦しみこそが、彼女たちを大きく変貌させるに至った。


「正直なとこ、軍隊に入る前の自分がどんなだったか、よく覚えてねえ。けれど、そのくらいにならなきゃやっていけねえんだって思うと、それも悔しいとか思わねえんだ。アタシは、今の自分が『勝ってる』って思うぜ」

「同感よ――自分が何のために生まれてきたのか聞かれたら、迷わず答えられる。祖国の敵を打ち払い、仲間を守るためだって」


 語り合う少女たちの表情は、いずれも満足げなものだった。訓練生の日々は苦しみに満ちているが、ただ苦しいばかりではなく、苦難に立ち向かい成長する喜びを、彼女たちは確かに感じ取っていた。


「軍隊に入って、本当に良かった。感謝してるぜ」

「私もよ、カレン。最初はいけすかないチンピラだと思ったけれど、仲間思いで良かった」

「へっ、よく言うぜインテリ――っと、第八の連中が戻ってきた」


 カレンは腹筋を続けながら身を起こし、戻ってきた第八分隊の面々に目をやった。六人のうち一人が、少しばかり辛そうな表情で右足を引きずっている。


「……何だ、捻挫でもしたかな?」


 カレンが様子を見ていると、訓練生のもとにベアトリクスが駆け寄って軍服のズボンを足首まで捲りあげ、革製のコンバットブーツを脱がせた。そのまま暫し様子を見ていたが、少しばかり困った表情で首を振ると、第七分隊の方を向いてユイを手招きした。


「呼んでるぜ、軍医さん」


 にやりと笑って、カレンは起き上がりざまにユイの背中をぽんと叩いた。ユイは小さく頷くと、負傷したらしい訓練生のもとへと駆け寄っていき、その訓練生の足首を軽く確認してから、手を貸して立ち上がらせた。その様子を見つめて、オリヴィアは何度も頷いた。


「……いいやつだよな」

「そりゃそうさ、なにせアタシの槍仲間だ――悪いやつのわけがねえよ。多分だけど、あいつはアタシの五百倍くらい頭良いと思うぜ。それでも、バカなアタシを見下したりしねえ。全員で守ってやらなきゃって気持ちになる。愛される指揮官ってのは、ああいうのを言うんだろう――さて、アタシたちは腹筋の続きでも……」


 カレンがそこまで言ったところで、不意に練兵場を横切って一人の士官が慌てて駆けてくるのが見えた。少女たちは体力錬成を続けながらも、その士官を視線で追った。胸には少尉の階級章と、目玉と剣を象った紋章――陸軍情報部所属の特務士官とひと目で分かる若い士官であった。

 情報部といっても諜報に関わる者はごく一部であり、その多くが軍事情報の取扱い――基地間での連絡要員に徹している。人事報告から特殊作戦の通達に至るまで、軍におけるあらゆる情報を扱う彼らは「影の参謀」であり、軍の業務において隅々まで浸透している。

 その士官が駆け寄ってくると、ベアトリクスはしゃんと背筋を伸ばして敬礼し、渡された書簡を受け取って中身を確認した。士官は一度頷くと、踵を返して急いで立ち去っていく。


「……何だろうな?」

「さあ?」


 ベアトリクスは首をかしげる少女たちに視線を向け、少しばかり考え込んでから声を掛けた。彼女らはその場で体力錬成を切り上げると、駆け足でベアトリクスの前に整列した。ベアトリクスの表情はどこか苛立たしげにも、焦っているようにも見えた。


「あ――何だ、貴様らには悪いが、少しばかり用事が入った。悪いが、リーアもここには来れないから、貴様ら殴られゲロブス肉人形の好きな格闘訓練でもしておいてくれ。複雑な案件になるから、少しばかり時間をとる。ザウアー、悪いが指導してやってくれ。お前が一番上手いだろう、できるか」

「マム・イエス・マム! 光栄であります!」

「よし。では、少しばかり待っていろ。サボりやがってみろ、チャカで新しい××××作って三人同時に相手出来るようにしてやるからな!」

『マム・イエス・マム!』

「では――行け!」


 しっかりと小銃を掴み、少女たちが一斉に駆け出していく。ベアトリクスはその様子を見送り、軍から届いた書簡を睨みつけた。


(情報部外務課調査報告に基づく勧告――クソ、外交屋め。兵士の錬成を何だと思ってやがる)


 ベアトリクスは書簡を握りつぶしそうになったが、首を振ってそれを乱暴にポケットにねじ込むに留めた。その瞳には、明白な怒りだけが燃えている。乱暴な足取りで、ベアトリクスは自分に与えられた執務室へと向かっていった。






「――あら、ベアトも来たの?」


 ベアトリクスが執務室に入ったときには、既にリーアはそこに居た。彼女の手にも、同じように陸軍省から送られた書簡があった。


「何だ、貴様のところにも配られていたのか――私だけだったら、このままこっそり燃やしてやろうかと思ったのだが」

「……ベアトが言うと冗談に聞こえませんわ。マジな顔で言わないでくださいまし」

「マジだぞ」

「おやめなさって――じゃれ合いはここまでにしましょう、とにかく今はこれの確認が先でしてよ。本当ならとんでもないことでしてよ、これは。はっきり言って頭おかしいですわね」


 リーアは半ば投げつけるように書簡を机に広げ、苛立ちを隠そうともせず乱暴に足を踏み鳴らした。


「国際関係の緊張に伴う訓練期間の短縮、か……」


 うんざりしたような表情で、ベアトリクスは手にしていた書簡を睨みつけた。内容は極めて単純かつ、理不尽なものであった。強力なユニコーン部隊の編成を急ぐため、通常十週間の基本戦闘訓練期間に加えて行われる、三週間の高等個別訓練――兵士としての技能に磨きを掛けるための戦闘訓練を短縮し、基本戦闘訓練に組み込めというものであった。


「戦時下じゃないんだぞ。十三週間でもまだ足りないくらいだというのに、高等個別訓練を短縮なんかしてみろ――未熟な連中を現場に送り込むことになる。アルタヴァとの緊張関係は緩和されていないとはいえ、まだ開戦が決まったわけじゃない――三週間くらい待てんのか、連中は」

「情報部が送ってきた戦略報告をもとに上が決めたんでしょうね……陸軍大臣の肝いりとはいえ、部隊の設立経緯そのものが突発的開戦に備えて、圧倒的な機動力と対魔導戦闘に特化した部隊を編成することにありますから、国際情勢が変わったことで投入の時期も変わるということもありえますわ。ただ、たかが十週間でどうにかなるとは私にも思えませんことよ。これを決めたファック野郎のおミソは腐っておりましてよ」

「……どうする、リーア。現場の訓練教官としては抗議したいところだが――」

「抗議といっても……それが通るようなら、教育隊統括のランメルツ中将が抗議しておりましてよ。中将も教育期間については熱心に検討されるお方です――このようなことを許すはずがありませんわ」


 少しばかり間があって、ベアトリクスは呻くように言った。


「……となると、陸軍大臣が情報部に丸め込まれた、と」

「おそらくは。そうなってしまったら、もうどうにもなりませんわね。戦略情報局が一存で決めてしまったら、政治力に欠ける教育隊ではどうしようもない。ランメルツ中将が駄目だったなら、私たちがなにかしたところで無意味でしてよ」

「あいつらを殺せというのか」


 がん、と音を立ててベアトリクスの拳が机に撃ち込まれる。リーアは彼女をなだめるようにそっと掌を拳に重ね、静かに首を振った。


「訓練期間はまだありますわ。部隊に入ってからは私たちが直接あの娘たちを指揮することなる――本格的な前線配備の合間にも、まだ鍛える余裕はありましてよ。落ち着いて、ベアト」

「……だが、基本戦闘訓練ブートキャンプの期間短縮は、間違いなくその後の連中の成長にも大きな影響を及ぼすぞ」

「ええ。そうなるでしょうね。けれども――もうどうすることもできないの、ベアト」

「分かっている。分かっているさ――だが……私は、彼女たちを失いたくないのだ」


 絞り出すような言葉は、薄暗い執務室の空気に溶けた。それからしばらくの沈黙があって、ベアトリクスは苦しげな声で呟いた。


「……本当に、始まってしまうのか。アルタヴァとの交渉はまだ続いているはずだ」

「わかりませんわ。けれど、国内で共和主義者が反王政を掲げて蜂起するという噂もある。それに乗じて、何かが起きないとも限らない……今は、ただ彼女たちを一刻も早く訓練するほかにありませんわ。行きましょう」

「……分かった」


 ベアトリクスは乱暴に書簡を畳み、それを机のラックに放り込んで立ち上がった。深呼吸して感情をリセットすると、彼女は一瞬にして鋼の鬼教官の表情に戻っていた。


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