第33話 カウンター・ナイト
――事実として、グラウゼヴィッツ伯爵の目的は陸軍施設の視察であり、新設されるユニコーン部隊に対する閲兵であった。陸軍を統括する陸軍大臣の承認と議会による命令を経て彼は動き、正当な権威のもとに視察を行った。それ自体に何一つ疑うところはなく、ただ政治的な必要性に基づいた行動であった。
だがそれと同時に、彼は私的な事情によっても動いていた。自らが取り逃した獲物――地方の男爵家令嬢であるアリシア・フォン・ブレイザーを探し出し、いかなる手段を用いてでも手に入れるという執念は、未だに彼の心に宿ったままであった。
権力への接近と家門の安定を餌にブレイザー男爵家に対して縁談を持ちかけ、あと少しで手に入るところまで追い詰めた――だが、当の本人は家を飛び出して軍に入ってしまったという。ブレイザー男爵家は連れ戻せないの一点張りであったが、グラウゼヴィッツ伯爵は諦めようとはしなかった。
軍に入ったのならば、軍に圧力を掛けて引きずり出せばいい。ただそれだけの単純な理論であるが、それを一部において可能とするだけの権威を彼は有していた。筋書きはとうに出来ている。
アイリス・フォン・ブレイザー訓練生は、過酷な戦闘訓練に耐えきれず縁談の相手である自分に泣きつき、その庇護下のもとで除隊を申請した――ありきたりなストーリーではあるが、その単純さ故に説得力も高く、それを押し通すだけの権力をグラウゼヴィッツ伯爵は帯びている。訓練の厳しさに耐えかねて脱落する者はそう珍しくなく、なおかつ貴族の家門故のつながりという形をとれば、そう疑われることもなく彼女の身柄を奪える。
(……上手く逃げ出したつもりだろうが、そうはいかない。身柄さえ押さえれば、あとはどうとでもなる――あの小娘に発言の機会を与えなければ)
軍のゲストハウスに用意された一室でワイングラスを傾けながら、グラウゼヴィッツ伯爵はふっと表情を緩めて柱時計に目をやった。時刻は深夜2時――夜襲にはもってこいの時間である。彼が手にしたグラスを置いたと同時、ドアをノックする男が響いた。
「入れ」
伯爵が命じると、外に立っていた黒服の男――ダークスーツを身に纏った大柄な護衛官がひとり、ドアを開けて静かに中に入った。騎士団から選抜され、側近として護衛につくことを認められた上級騎士――彼は部屋に入ってきて敬礼すると、淡々とした口調で伯爵に報告を上げた。
「作戦開始準備、完了しました。歩哨の配置は全て確認済みです。陸軍憲兵からの増派があるでしょうが、恐らく突破可能なものと推定されます」
「よろしい。速やかにやれ――もし脱走を偽装するのが難しいようであれば、暴漢による誘拐事件に偽装しろ。あれは私の小鳥だ、籠から出さなければ、まかり間違って誰かが鳴き声を聞くこともあるまい。抵抗する者があれば、殺さないように配慮した上で排除しろ。既にお膳立ては出来ていることと思うがな」
「はっ――では」
黒服の騎士はしゃんと背筋を伸ばして部屋から立ち去っていく。その背中を、グラウゼヴィッツ伯爵は穏やかな――だが、底知れぬ邪悪を滲ませた表情で見送った。グラウゼヴィッツ家は兵に恵まれず、武力に優れているとは言い難いが、それを補ってあまりあるだけの計略を巡らせることで魑魅魍魎たる政界を生き延び、軍中枢への接近を果たしてきた家門である。
先人が築き上げた策謀の城、そして自らが政界を渡り歩く中で手にしてきた数々の「武器」は、本来ならば不可能であるはずの行為を可能とすると、伯爵は確信を持っていた。長らく政治の場に身を置いてきた伯爵は、為政者は普段の言動ほどに清廉潔白でないことを――そして、自らもまた潔白とは言い難い身であることを十分に認識していた。そして何より、政界とはただ潔白なだけでは何も為せない残酷な場であることも彼は熟知していた。
五年もすれば絶世の美女に育つであろうアイリスを奪いたいという男としての欲求もある――だが、その身柄を奪うことでブレイザー家に対して行使できる影響力は、彼の政治的野心を大いに刺激した。アイリス自身の意志がいかなるものであれ、「自らの判断でアイリスは軍を抜け、それを援助してくれた恩義としてグラウゼヴィッツ家との婚儀に応じた」というストーリーを展開する腹積もりで伯爵は計略を練っていた。
本人の意志で夜間に脱走、あるいは暴漢に拉致されるという形をとって身柄を奪い、その後は幽閉して発言の機会を奪いながら、自らに都合のいい政治的宣伝で応じればいい。これまでにも汚い仕事は山程こなしてきたし、その中には犯罪の域に踏み込んだようなものもあった。
だが、自らを守る権威と政治的特権の鎧は、時として国法の戒めすらも破り得るという実感を彼はこれまでの政治活動の中で覚えていた。脅迫、賄賂、そして暗殺――政治の暗部に踏み込めば踏み込むほど、その本質が見えてくる。権力のヴェールの向こうは司法すらも立ち入れない領域となり、あらゆる追及を阻む結界を成す。
「……これまでしてきたように、私はするだけだ」
誰も聞いていないことは分かっている――だが、伯爵は敢えて自らに言い聞かせるように言葉を紡いだ。自らの行いがいかなるものであるか、彼は十分に認識している。それが明るみに出れば罪に問われるであろうことも理解した上で、それでも彼は己の欲求に従って行動した。自らに言い聞かせるような言葉は、自らの確固たる思考のもとに罪を犯すという、彼なりの宣言でもあった。
「……さて、今回もうまくやろうか」
ただ穏やかに落ち着いた表情で、再びワイングラスを手に取る。照明器具に照らされ、窓に反射する表情は、表向きは紳士的である。だが、その奥底には、抑えようのない邪悪と欲望が滲み出していた。
軍施設といえども、その全てが軍人の手によって運営されているわけではない。むしろ施設の運営に関わる軍人はごく一部――武器庫の管理や訓練設備の整備といった特殊な能力を必要とし民間人に代替できないものや、基地警備に当たる歩哨や憲兵などの武装要員がその一例であるが、それ以外の部分である兵器以外の輸送や、兵員用食堂などはそのほとんどが正規の軍人でない者――軍従業員である民間人に委託されている。
そうした業務は概ね、軍の安定性と高給、そしてあわよくば将校との婚姻を目当てとした十代後半から二十代半ばの女たちによって独占されている。もちろん、軍に出入りする関係上彼女らも身分保障と機密保持の対象ではある――だが、直接的に戦闘に関与しない関係上、兵員と比べてある程度の自由は約束されていた。
だが、それは同時に外部からの干渉を受けやすいということでもある。そして、奇しくもアイリスの前にグラウゼヴィッツ伯爵が現れたその日、彼女らの持つ脆弱性が露わとなった。
時刻は深夜2時30分――訓練生の少女たちが眠る寝室へと続く廊下には、片手剣を手にした歩哨が椅子に腰掛けている。彼らのもとに夜食と紅茶を運ぶ役目を負っていた女給は、突如として元の置き場から消えた紅茶の缶を探していた。探すこと数分――それは戸棚の奥から見つかったが、その事実を前に女給は何ら疑うことをしなかった。
そう――誰かにその中身をすり替えられているかもしれない、などという疑いを持つこともなく、女給は自らに与えられた仕事をただこなそうとしていた。その紅茶の缶が、事前に侵入していたグラウゼヴィッツの護衛によって即効性の高い眠り薬を仕込まれたものにすり替えられていたことにも彼女は一切気づかないままに紅茶を用意し、ビスケットとともに兵士の元へと運んでいった。
「お茶でございます――毎晩大変ですね」
警備の任についていた二人の兵士は紅茶のカップとビスケットを取り、それに口をつけて女給に微笑みかけた。その兵士もまた、現状を疑うことはしなかった。いつもどおりの紅茶、いつもどおりのビスケット、そしていつもどおりの女給――であるように、彼は認識していた。
「なに、いつものことさ。それに、今日は憲兵隊の応援が来てくれているからな。外をしっかり固めてくれたから、そう心配もいらん」
「軍評議会の議員様の視察だから、念入りに警備を行う必要がある――だとさ。まあ、そこに寝てるのは騎兵学校のお嬢さんたちだがね。あんたも寝ることだ、明日も早いだろう?」
「そうですね――では、また」
女給は一礼し、静かに廊下の向こうへと去っていく。兵士たちはそれを見送って、手渡された紅茶を飲み干した。その時点で命運は決したに等しい――だが、兵士たちはそれを知るよしも無かった。
「……しかし眠いな。退屈でたまらん」
「なに、それだっていつものことだ――夜明けまで待てば休暇がやってくる。いい時間まで寝て、それから酒場にでも行こうじゃないか」
「そいつは結構だ――俺は……ん、えらく眠いな。疲れていたのか?」
「俺もだ。妙に体が重くって――」
兵士たちの視線が宙を泳ぐ。何かがおかしい――だが、その違和感に気づくよりも早く、二人の兵士の意識は闇の中に投げ出されていった。手にしていた木製のカップが滑り落ち、乾いた音を立てる。
それと同時に、訓練場の一角で鋭い破裂音が響き渡った。施設を囲んでいた憲兵たちの視線が一瞬でそちらに集中し、数名が慌ただしく足音と剣の鞘鳴りを残して駆けていく音が闇夜に突き刺さった。穏やかに過ぎていくはずだった夜に喧騒が満ち、瞬時に非常事態の張り詰めた雰囲気が辺りに満ちる。
それから数分後――破裂音を合図にしたかのように、歩哨たちが見張っていたはずの廊下の向こうから、三名の男が足音一つ立てることなく姿を現した
「……目標沈黙。あの女給が鈍くて助かったし、憲兵隊も思ったほどじゃない。陽動に釣られて、一瞬だけ隙を作ってくれた」
先頭に立っていた男――闇夜に紛れるダークスーツを身にまとったグラウゼヴィッツ伯爵の護衛官が、手を伸ばして前方を指し示す。配置された憲兵の巡回を掻い潜り、厳しい警備体制の隙間を縫って屋内への侵入を果たした三人は、音を立てることもなく歩哨たちが守っていた廊下を駆けていく。彼らはカップを取り落とし、眠り薬によって剣を手にすることもなく床に突っ伏していた。その姿を横目に見た男は、唇の端を歪めて笑い、どこか自嘲的な口調で呟いた。
「……汚れ仕事も任務のうちだ、恨むなよ――俺たちは、主人の命令で美しい蝶を狩りに行くんだ。森番に仕事をされちゃ、たまらない」
男たちは瞬時にドアの前に達し、一人は懐に収めていた細い針金を抜いてドアの鍵をあっさりと解除した。3つの二段ベッドが置かれた第七分隊寝室――そのひとつの下段に、アイリスは静かに眠っていた。誰かが起きる様子もないように、男たちには見えた。
もし少女たちが抵抗すればナイフを抜いて脅すだけだと考えて、男たちはアイリスのもとに迫り――突如として、上から伸びてきた手に襟を掴まれた。男が目を白黒させて手を伸ばした者を見定めようと試みたところで、ドスの効いた声が真っ暗な部屋に響いた。
「――おい変態、夜のケーキデリバリーなら頼んでねえぜ?」




