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第32話 緊迫の前兆

 閲兵式――それは、兵士にとって重要なイベントであると同時に、緊張と退屈が同居する時間でもある。陸軍高官、あるいは議員の前で行進を披露し、その後ただ静かに訓示を聞き続ける――肉体的な疲労は皆無であるという点においては普段の訓練より遥かに楽ではあるものの、特に意味のない訓示が少女たちを苦しめていた。日頃の訓練で痛めつけられた肉体は常に休息を欲しており、それは眠気となって現出する。


(……寝ちゃだめだ)


 座ったまま意識を失いかけていた隣のカレンを起こし、アイリスは顔を上げて壇上の人物――軍評議会に所属する議員であり、自らの元婚約者でもあるペーター・フォン・グラウゼヴィッツ伯爵を見上げた。

 言葉そのものは新たな兵士たちを勇気づけるものであったが、アイリスは半分も聞いていなかった。時折訓練生たちに視線が向けられるたび、背筋に氷の棒を差し込まれたような感覚が走る。時間感覚が歪み記憶は曖昧になっていくが、その反面異常なまでに神経が昂ぶり、焼け付くような緊張感が全身を支配する。ある意味において、それは剣の切っ先を突きつけられているに等しいものであった。


「――これより陸軍騎兵となり、国防の任を背負うことになるであろう諸君に、私は大いに期待する。以上をもって、訓示を終わりとする」


 気がついたときには、グラウゼヴィッツ伯爵の訓示は終わっていた。ベアトリクスが号令を掛けるのに併せてアイリスは立ち上がり、命じられるまま敬礼を送った。グラウゼヴィッツが答礼すると、アイリスはすっと手を下ろし、行動訓練で叩き込まれたとおりにしゃんと背筋を伸ばした。

 だが、それは彼女が意図してのことではない。アイリスが置かれた現状は、夢遊病あるいは催眠状態に近い。体こそ兵士として振る舞っているが、その心は完全に余裕を失っていた。グラウゼヴィッツが狙いを定め、自分を連れ去ろうとしているのではないか――さながら強姦魔と直面したような精神状態で、アイリスはどうにかその場に立っていることしかできなかった。


(私は大丈夫……第七分隊のみんなが一緒なら、怖くない……)


 アイリスは自分にそう言い聞かせ、唇を引き結んで前を向いた。ただ表情だけでも取り繕えば、グラウゼヴィッツに見せる隙は少なくなる。自らが兵士であることを演出し、なびく余地がないことを思い知らせる――それ以外にこの場を乗り切る方法はないと、彼女は考えていた。

 訓示を終えたグラウゼヴィッツは壇上から降りると、手近な訓練生に親しげに話しかけて直接言葉を聞いていた。軍評議会に所属する議員の中には、自ら兵士と言葉を交わして現場主義をアピールするものが少なくないということをアイリスは知識として知っていた。

 この場において政治に明るいのは、アイリスを除けばエリカのただ二人のみである。エリカは一瞬だけ瞳に冷たい光を宿しはしたが、すぐに堂々と胸を張って正面を見据えた。その姿はまるで、恐怖と困惑の只中にあるアイリスに範を示そうとしているかのようでもあった。


「……」


 すう、と軽く息を吸い込み、アイリスは一瞬だけ目を閉じた。周りには頼れる戦友たちがいる。今更何を恐れる必要があるというのか――そう自分に言い聞かせて、彼女は顔を上げて前だけを見据えた。軍の公式行事という関係上、個人的な言葉を掛けてくる心配はない――ただ、婚約を破棄するために軍に入ったという事実を知る相手と直面するのは、彼女にとって何よりも恐ろしかった。

 数名と言葉を交わしたグラウゼヴィッツ伯爵は、しばらくして第七分隊の方へと歩いてきた。それだけで、アイリスの背中に冷や汗が伝う。この場で何かされるわけではないであろうが、言葉を交わさなければならないという事実だけが彼女を緊張させた。

 グラウゼヴィッツ伯爵はつかつかと歩み寄ると、部隊長のエリカの前で立ち止まって、表面上は穏やかな表情で――だが、瞳の奥に何らかの含みを感じる輝きを宿して彼女の前に立った。昼休みの間、アイリスたち分隊員はエリカの後を追ってひっそりと――その実、彼女たちの後ろにはリーアが呼び寄せた憲兵が密かに張り付いていたのであるが――エリカが伯爵を案内する様子を確認していた。

 もっとも、ただ気付かれないように距離を取って尾行したというそれだけのことであり、会話の内容を聞き取ることは一切出来ないままであった。戦術的な偵察というよりも、好色家であるグラウゼヴィッツ伯爵が不埒な行為(ファック)に及んだ場合、殴り倒してでも止める――そういった荒っぽい衝動が少女たちを突き動かした結果の行動であった。

 しかし、グラウゼヴィッツが何らかの言葉をエリカに掛け、エリカがそれに対して否定的な感情を持っていることは明白であった。こっそりと尾行したという関係上、分隊員たちはエリカに対して何を話していたのか直接に聞き出すことはしなかったものの、何らかの事態が起きつつあることに対する危機感だけは抱いていた。

 分隊員の多くはエリカのように軍事に関する深い造詣を持たないが故に、複数のボディーガードを軍施設内で連れ歩くことに対する政治的違和感に気付けたのはアイリスだけである。彼女はその兵員を、自らを実力で連れ去る目的を帯びているものと把握し、何らかの行動を起こす可能性を予想していた。軍と評議会の正面切っての対立を呼び起こす行動ではあろうが、それを握り潰すことができるものを指して「政治的特権」と呼ぶ。

 軍人に身体の自由を約束する身分保障が存在し、国法上は軍と議会は対等であるという建前こそあるが、貴族議員で構成された評議会の議決なしでは、歩兵装備品の一つも調達できないという文民優位の現実が確かに存在する。

 一部の口さがない「政治屋」からは、頭の回転で勝てない分、軍隊は槍と小銃によって対等を保っている、などと揶揄されることもある。しかし、そうした揶揄も一部においては正解であった。軍に付随する権力を徹底的に分解してみれば、それらは武器による威力の延長線上に生じるものに過ぎない。秩序のもとに揃えられ、統率された暴力によって、軍は圧倒的な権威を有する立法府と均衡しているのである。

 無論、訓練生といえども軍の威力のもとにその身分を保障される存在ではある。だが、将校や下士官、あるいは兵と違って彼女たちには階級が存在せず、なおかつ自身の意志によって訓練過程を中途で脱することも可能である。

 確かに身分は保障されるであろう――だが、正規の将兵ではないという一点において、彼女たちの身分保障には政治的な脆弱性があった。訓練過程の兵士が中途で脱落することはそう珍しいものではなく、もし「自主的に」部隊を離れることを申告してきた場合、軍はそれを止めることはできない。

 そして何より、政治的圧力は容易に個人の意志を捻じ曲げることができる。アイリスは貴族の娘という出自故に政治に関する造詣が深いが、それが逆に彼女に不安を抱かせる要素となっていた。遠回しな脅迫であっても、彼女の鋭敏な政治的感覚はそれを感じ取ることができる。


(もし伯爵と接触したら、私を「自主的に」部隊から離れさせるための行動に出てくるはず……それがどんな方法になるかは分からないけれど、ろくなものじゃないのは間違いない……)


 エリカと言葉を交わすグラウゼヴィッツ伯爵を横目に見ながら、アイリスは静かに思考を続ける。表情は変えず、手の震えを押さえ込みながら、彼女は伯爵の次の行動を待っていた。エリカと話を終えた伯爵は、つかつかとアイリスのもとに歩み寄り、一瞬だけ彼女と視線を交わした。視界が灰色に焼き付かんばかりの緊張――だが、グラウゼヴィッツ伯爵はそのまま何も言わずに通り抜けていった。しかし、その一瞬に伯爵はにやりと口元を歪めた。明らかにアイリスを意識しての表情は、どのような言葉よりも彼女の背筋を冷たくさせた。

 それから数名の訓練生と言葉を交わし、グラウゼヴィッツ伯爵は満足げな表情を浮かべると、訓示の場となった体育館から姿を消した。ベアトリクスから解散の号令が出され、伯爵の後姿が遠ざかっていくまで、アイリスは金縛りにかかったかのようにその場から動けずにいたが、ふいにぽんと肩を叩かれて我に返った。


「もう大丈夫だぜ、お嬢」


 振り向けば、そこには白い歯を見せて笑うカレンの姿があった。第七分隊の仲間たちはアイリスを囲むように集まり、彼女に笑顔を見せた。それ以上の言葉はいらない――ただ、分隊の結束が彼女にとっての唯一の安息であった。隊長を任されているエリカは胸を張って、澄んだ緑の瞳に意志の光を宿してアイリスに語りかけた。


「貴女には指一本触れさせないと、分隊指揮官として約束するわ。第七分隊は六人揃っていないと」

「エリカ……」

「だから、貴女はいつもどおりでいなさいな。迷わなくたっていい――貴方の居るべき場所は、ここにあるから。行きましょう」


 少女たちは互いに頷き合い、確かな足取りで歩き出した。だが、その背中を見守る二人の教官の表情は明るくはない。先んじて放った憲兵は、確かにエリカとグラウゼヴィッツ伯爵の会話を聞いていたのである。リーアは瞳にナイフのような輝きを宿して、隣に立つベアトリクスに声をかけた。


「……ベアト。今夜は――」

「分かっている。シュタイナーが誘いに乗らなかったなら、連中は強硬策に出る。番犬の数は増えるだろうが、それでも奴らは来るかもしれない。もしそうなったら、ブレイザーの身も心配だが、それ以上に第七分隊が何をするか分からん――あいつら、自分の手でブレイザーを奪還する腹積もりでいるぞ」


 ベアトリクスの表情は半ば呆れが混じったようなものであったが、どこか少女たちに対する敬意と、昔を懐かしむような雰囲気を帯びていた。それを見たリーアは、彼女の背中にぽんと触れて笑みを浮かべた。


「昔の自分に似ているから、放っておけませんの?」

「――好きに言ってろ、私は私の義務を果たすんだ」

「……素直になってもよろしくてよ?」

「……」


 リーアの言葉にベアトリクスはふっと表情を緩め、第七分隊から視線を外した。


「連中に見せ場はやらんよ。本物の兵隊のやり方を見せてやるさ――今夜が山だ、やるぞリーア――実戦の備えをしておけ!」


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