第31話 逃れ得ぬ影
グラウゼヴィッツ伯爵の案内を初めて数十分――エリカは、自らの置かれた事態の以上性に既に感づいていた。グラウゼヴィッツの周りには三名の男たちがついており、エリカと並んで歩く彼を囲んでいる。いずれも黒い背広に身を包んではいるが、単なる議員秘書とはエリカの目には映らなかった。
(明らかに素人じゃない――この人たちは……)
男たちはいずれも背広の前ボタンを外しており、ネクタイも着けていない。将官の娘であるエリカは、こうした特徴を持つ者たちに心覚えがあった。
最低三名で行動し、一見すると秘書にも見える風体で主の周りを固める――それらは、特殊な近接戦闘技能を身に着けた要人護衛官の特徴にほかならない。重要人物、特に貴族議員の多くは自らの領地の騎士団から優れた技能を持つ騎士を選抜して護衛としており、その帯同は議員の権利として国法のもとに認められている。
彼らの多くは背広の下に暗器を呑み、いつでも抜き放てるように前を開けており、なおかつ格闘戦時に首を絞められるのを防ぐためにネクタイを外している。その筋に通じたものでなければ見抜くことの出来ない僅かな違いではあったが、エリカの出自故の知識はそれを可能とした。
(ここは陸軍の施設――数は少ないけれど、憲兵隊だって詰めている。そんなところで、わざわざ秘書に偽装した護衛官を連れてくる理由もない……)
グラウゼヴィッツとの雑談に応じ、時折笑顔を向けながらも、エリカの頭脳は冷徹な計算と洞察を始めていた。軍評議会に身を置き、なおかつ陸軍施設内という絶対的安全のもとにありながら、わざわざ個人的な護衛を連れ歩く――普通に考えれば、その行動は矛盾に満ちている。
グラウゼヴィッツ本人に何らかの思惑があるとすれば、そうした行為にもいくつかの理由付けは可能となる。評議会からの軍に対する示威行為、あるいは軍内部に議員を始末しようという急進的な動きがある場合などには、そうした行動にも組織としての政治的合理性がある。
しかし、現状において軍評議会と陸軍の関係は良好であり、評議会に対して強硬に反発して権力を掌握しようという動きは見られない。政治にも造詣の深いエリカは、現状の政治情勢から軍と評議会間で対立が起きているという想定を直ちに却下した。
それに、もし何らかの対立が起きていたとしても、それを将官の娘である自分に直接見せるようなことはないであろうと彼女は考えていた。護衛官の帯同は軍評議会に所属する議員の特権としてあらゆる局面において認められているが、汚職事件などの強制捜査を除いて、慣習的に行われてこなかったのが事実であった。
基本的に護衛は基地に所属する憲兵隊が行い、護衛官は基地以外での身辺警護に徹する――その原則を、グラウゼヴィッツ伯爵は自ら破ってきた。軍施設に何らかの問題があるわけでもなく、政治的関係性が緊迫しているわけでもない――そのような状況下で、敢えて護衛官を帯同する理由があるとすれば、もはや極めて個人的な事情以外には考えられなかった。そして、エリカには確かにその心当たりがあった。
(アイリスの言っていたとおりなら、この護衛は自分の身を護るための要員じゃない。護衛官には捕縛術の心得もあるから――恐らく、アイリスや基地の要員に抵抗されたときに強引に略取するための実働部隊……!)
嫌な汗が背中を伝う。グラウゼヴィッツ伯爵は軍評議会の中でも重鎮にあたり、その気になればアイリスを拉致して無理やり除隊させ、そのまま事実を闇に葬ることもできるだろう。もしそうなったら、第七分隊もただでは済まない。アイリスがグラウゼヴィッツ伯爵から婚約を迫られたことは既に分隊員に共有されている情報であるから、第七分隊に対して何らかの口止めに走る危険性は十分に予想できた。
アイリスの拉致が現実となったとき、第七分隊がどのような行動に出るかは自明である。活発で血気盛んなカレンやテレサはもちろんのこと、思慮深いユイでさえ暴発するかもしれないとエリカは考えていた。
それと同時に、もしグラウゼヴィッツ伯爵がアイリスを拉致した場合、自分が理性的なままでいられる自信がエリカにはなかった。正規の手段でアイリスを奪還するならば、父の権力を使って軍評議会で弾劾裁判を行い、部隊への復帰を要求するといった手続きが必要になる。
だが、それではあまりにも遅いとエリカは考えていた。グラウゼヴィッツ伯爵が稀代の好色家であることはエリカも認識しており、その手にアイリスが渡ればどのような目に遭わされるかは明白である。
最悪の場合、清らかな乙女にしか乗りこなせない幻獣であるユニコーンを乗りこなす「資格」を失ってしまうかもしれない。そうなってから部隊への復帰が認められても遅い。幻獣部隊の騎兵として共に戦い抜くことを目指したのであるから、その場に戻れなければ軍への復帰など何の意味も持たない。
(相手は評議会の貴族議員――事を構えればただでは済まない。今は様子を見ることしかできないけれども……)
グラウゼヴィッツ伯爵の様子を横目に見やる。今の所は何の動きもないが、警戒を怠れば喉元を食い破られるかもしれないという恐怖感があった。ナイフの一本すら持たず、自分は権力という爪牙で武装した猛獣と向き合っている。王国軍という巨大な組織の中で評議会を牛耳る文民議員と国防の現場を預かる軍人が対等の立場でいられるのは、結局の所軍人が刃を手にしているからに過ぎない。
それはある意味危ういバランスの上に成り立つ関係とも言えたが、これまで軍という機構が維持されてきたのは、そのバランスを保つために先人たちが不断の努力を重ねてきたからにほかならない。もしここで迂闊なことをすれば、評議会と現場の間で諍いを巻き起こすことにもなりかねない――エリカがそのように考え、思い悩んでいたとき、不意にグラウゼヴィッツ伯爵が彼女の肩をぽんと叩いて声を掛けた。
「シュタイナー訓練生――今日は忙しいところ、案内に付き合ってくれてありがとう。礼といっては何だが、君たちのために特別外出許可を申請したいと思っていてな。ひとつ食事でもと思ったのだが――どうかね?」
あまりにも急な誘い――陸軍訓練学校において、外出許可は千金に値する価値を持つ。本当のことなら喜ぶべきところであったが、今は状況が違う。軍評議会の議員の力ならば、夜間の特別外出許可も通りはするであろう。
だが、その目的がどこにあるのか見抜けないエリカではない。迂闊に誘いに乗って外出すれば、アイリスを手に入れるための踏み台にされるのは分かりきっている。エリカは暫し考えるふりをして、表情を隠して伯爵に問いを投げた。
「それは……私個人へのお誘いですか?」
「いや、そういうわけでもない。君が指揮する第七分隊全員に、だよ。君の指揮する分隊の兵士たちがどのような者たちなのか知りたくなってね。君のような優秀な指揮官に預けられているのだから、さぞ素晴らしい技術の持ち主ばかりなのだろう。一度でいいから、話がしてみたい」
「大変名誉なことです。しかし、我々は訓練生の身。教官の許しがなければ、外出はできません。特に夜間外出は厳しく制限されています。お誘いいただいて申し訳ありませんが――」
「何、教官二人も説得できるさ。私は議員なのだからね。その程度のことは動作もない。教練係の軍曹二人、どうとでもなる。それとも、私のような中年との食事会は息が詰まって嫌かね?」
「いえ――そのようなわけではありません。お誘いいただけたことは、非常に名誉なことと存じております。ただ、訓練生という身分、それも入隊一ヶ月の私たちにはあまりにも贅沢に過ぎることです」
「質素倹約、軍人の鑑だな。だがな、シュタイナー訓練生――こういう場合、素直に好意を受け取っておくのも兵士としての務めであるぞ。なに、心配は要らん。きちんと説き伏せて、君たちには最上級の夕食をごちそうできるように段取りを整えておくとも」
そこでグラウゼヴィッツ伯爵は一旦言葉を切り、続いて鋭い光を瞳に宿してエリカを見つめた。真正面からその眼光に射抜かれただけで、並の人間なら萎縮して動けなくなるであろう――それが政治家の眼であることを、エリカはその鋭敏な感覚をもって感じ取っていた。
「それに、君のお父上についてもいくつか伝言がある。夕食会はともかくとして、こちらは聞いてもらわなければ困るものでな」
「……軍人は、政治に関与できません。自分は訓練生ですが、そこだけは守らなければならない一線と心得ています」
口をついて出たのは、遠回しな拒否の言葉だった。だが、伯爵は薄笑いを浮かべて、更に言葉を続けた。
「政治というものがどれほど複雑怪奇で、人間の情を無視したものであるのかは君とてよく知っているはずだ――それに加えて、こういった誘いを断った場合、どのような不利益が生じるのかも、賢明な将軍の娘であるならば理解できるはずだ」
「……」
私を脅すつもりか、という言葉が飛び出しそうになって、エリカはすんでのところで口をつぐんだ。政治家からの会食の誘いを断る――それは、友人との夕食会を断るような軽いものではないということを、エリカは十分に理解していた。
これ以上続ければ相手のペースに呑まれると判断したエリカは、沈黙を答えとした。グラウゼヴィッツ伯爵は暫し彼女を見つめていたが、やがてふっと表情を緩めてエリカの肩をぽんと叩いた。
「……流石にシュタイナー陸将の娘か。お堅いな――まあよい、この後のことは閲兵式が終わってから君たちに伝えさせてもらうよ。できる限りのもてなしはするから、楽しめるだけ楽しんでいってくれたまえ。では、また」
ひらひらと手を振り、グラウゼヴィッツ伯爵は取り巻きの護衛官を引き連れて立ち去っていく。その背中を眺めながら、エリカは自分の心拍数が著しく上がっていることにようやく気が付いた。
(……教官が外出を許可しなければ、少なくとも外に連れ出される心配はない。けれど――閲兵式でアイリスを見つけたら、どうにかして手に入れようとするはずだ。それこそ拉致同然のやり方で、アイリスを奪っていくかもしれない。私はどうしたら――)
取り残された廊下の真ん中で、エリカは一人握りこぶしをつくって、遠ざかっていく伯爵の背中をただ見つめていた。




