第27話 誇りとともに、立て!
「ペースが落ちているぞ淫売ども! 一本咥え込んだ程度でヒイヒイ言いやがって、客を取るときは二本同時に咥え込んだこともあるだろうに、何をモタモタ走ってやがる、このド腐れのアバズレどもが! そんなに呼吸が苦しいなら、脳ミソに直接呼吸させてやろうか!」
「遅いですわよウジ虫さんたち! 八十過ぎのババアのファックでももう少し勢いがありましてよ! そんな調子で訓練を続けていたら戦争に間に合いませんわ、敵を殺す勢いで走ってくださいまし! 手を抜いたらこの場で膜ブチ破って殺しましてよ!」
槍を手渡された少女たちに降り掛かったのは、容赦のない罵倒と腕の痺れであった。初めて実戦用の騎兵槍を支給された彼女たちは、手にしたその重量の前に壮絶な苦しみを味わっていた。
もとより騎兵槍は歩兵が装備する武器ではなく、その重量は約5キログラム、全長は三メートルに及ぶ。そして何より、ランスは片手のみで保持する武器であり、左手を添えることを少女たちは一切許されていなかった。
両手で保持すれば小銃と同程度であるが、片手で持った状態で走り続ければ、その独特な重心のおかげで簡単にバランスを崩す。彼女らの手首には革製のガントレット――騎兵突撃の際に腕を固定し、ランスの保持を容易にするために装具が纏われていたが、それでも重量全てを受け止めるには至らない。
そして何より、ペースを落とさず走り続けろというベアトリクスとリーアの命令は、十代半ばの少女たちにとっては過酷なものであった。陸軍歩兵として教練を受けるようになって一ヶ月足らず――戦列歩兵などと比べれば遥かに恵まれた待遇ではあるが、その体力は未だ一般人のそれと変わらない。
ただ、容赦なく叩きつけられる罵倒と暴力、そして肉体を限界まで酷使する激しい訓練は、少女たちの精神を大きく変革せしめていた。疲労によって手首が軋み始め、重心の崩れた状態で練兵場を周回し続けるという行為を無意味なものとは感じず、自らが兵士となるために必要な通過儀礼として捉えていた。
もちろん、そうした行為に苦痛を感じていないというわけではないし、肉体を著しく消耗させる訓練に対しての反発は当然ながらある。アイリスたち第七分隊もその例に漏れず、ガントレットを装着した手首の痛みと、重心の崩れた状態で続けるランニングの過酷さに表情を引きつらせていた。
「クソっ、あのサイコ女――!」
ランスを片手で構えたまま、カレンが呪いの言葉を吐く。本来ならば馬上で、なおかつランスレストに石突を預けた状態で戦闘行動に入るところを、片手だけで構えているのであるから、当然ながら腕に掛かる負担は相当なものとなる。体力に自信のあるテレサやオリヴィアですら苦痛に表情を歪め、ユイに至ってはもはや槍を取り落とさないでいるのが精一杯といった状況であった。アイリスも似たようなもので、右腕の感覚がほとんど失われ、半ばガントレットの剛性のみでランスを保持しているに等しい状態であった。
だが、彼女たちにも容赦なく罵倒と鉄拳が降りかかる。一瞬バランスを崩してカレンが蹴躓いた途端、練兵場の中央に立っていたリーアが、さながら瞬間移動したかのような速度でカレンと並走した。
「はい、サイコ女でしてよ! お呼びでございましたかウジ虫さん?」
「……!」
カレンの表情が一瞬で引きつり、次の瞬間には棒の一撃が彼女の背中を強かに打ちのめしていた。どうにかその場ですっ転ぶことだけは避けられたが、周りの者たちにとばっちりが降り掛かった。他の五人が突如として殴打され、最後の一発を貰ったアイリスは、あまりの痛みに悲鳴を上げた。容赦のない暴力――だが、リーアは笑みを浮かべたままであった。
「モタモタ走っていると脳ミソがはみ出るまで殴りましてよ! 急ぐか殺されるか、どちらにいたしますの、ウジ虫さんたち!」
「マム・イエス・マム! もちろん急ぎますッ!」
先頭に立っていたエリカがペースを上げる。後ろで遅れかけていたアイリスは隣を走るユイと視線を交わし、ペースを上げて後ろから走ってくるリーアと距離を取った。10メートルほど離れたところでリーアはスピードを落とし、次の分隊に狙いを定め、分隊員たちに容赦のない罵倒と暴力を浴びせかけた。
「覚えてろ行き遅れ……!」
カレンは殴られた部分を左手で押さえながら、ベアトリクスとリーアに見えない角度で舌を出した。教官に対してそのような行いをすれば、分隊長を任されているエリカが本来止めるところであるが、彼女は何も言おうとしなかった。
それは、少なからずエリカ自身も自分たちに過酷な訓練を課した教官に対して思うところがあるからにほかならない。ランスを構えたまま練兵場を何周したか疲労でわからなくなり、先頭を走っていたエリカのペースが落ち始めたあたりで、ベアトリクスは首から掛けていたホイッスルを吹き鳴らした。
「よし、アバズレ共――休んでいいとは言わんが、槍を肩に担いでよろしい! これが貴様たち淫売婦が扱う聖なる武器だ! これを自在に扱えるようになれば、どんな敵も確実に殺せる! 今日から貴様らには、これが手に馴染むようになるまで訓練中は肌身離さず持っていてもらう。山岳戦闘のときも、長距離走のときもだ! 分かったかウジ虫共!」
『マム・イエス・マム!』
「良い返事だ! 貴様らゲロブスでは大した客は取れんが、王都のポン引きにはうってつけのいい声をしている! いいか、この槍は貴様らが路地裏で股を開いた行きずりの男の××××まみれの×××とは違って、陸軍の魂がこもった精密品だ。これを粗末に扱うことは、例え神が許しても私は許さん! 自分の命と同じか、それ以上に大切に扱え!」
「……!」
自分の命より重い道具――その言葉は、普通ならば一笑に付されて終わりだっただろう。だが少女たちにとって、ランスは軍隊生活という一切の尊厳を剥ぎ取られる非日常において与えられた唯一の誇りの象徴である。粗末に扱えようはずもない。四十八人は一斉に瞳に鮮やかな輝きを宿し、教官の言葉に応えた。
『――マム・イエス・マムっ!』
それを聞いたベアトリクスは満足げに頷くと、少女たちに槍を肩に担ぐように命令した――が、足を止めることは許さない。五キロのランスを担いだ状態での持久走は、これまでの周回で痛めつけられた少女たちにとどめを刺すに等しいものであった。
限界に達した者が次々と膝から崩れ落ち、地面に突っ伏していく。第七分隊は最後まで粘り続けたが、最後尾で青息吐息の状態に陥っていたユイとアイリスが脱落すると、それを皮切りに全員が地面に沈んだ。もはや一歩動くこともままならない状態――ベアトリクスは少女たちを一瞥し、辺りに響く声で彼女らに活を入れた。
「どうしたウジ虫共! 今の貴様らは日向に放置されたガマカエルのようだ! 何をどうすればそうなるのか、言ってみろ!」
もちろん、返事をする気力がない事はベアトリクスも承知しているし、これ以上走り続けられないことも自明である――が、罵倒を止めることはない。いかなる極限状態に置かれても、最後まで精神を折らずに生存することが兵士としての絶対条件となる。
だからこそ、消耗しきって動くこともできない彼女らを罵り、立ち上がる気力を体の奥底から絞り出させる。戦闘の大部分は指揮官の命令と兵員の装備、練度に拠って結果を左右されるが、お互いの戦力が拮抗している場合においては、最後に結果を分かつのは精神的な強度である。
自らの勝利を疑わず、あらゆる手段を尽くして生き延びようとするその在り方を確固たるものとする――それが、ベアトリクスとリーアの目的であった。投げかけられるのは、人格を剥ぎ取るための単なる罵倒ではない――少女たちにこの場で立ち上がるように奮起を促すための言葉であった。それが過激な物言いに対する反発であっても構わない。理不尽に対する激しい怒りは、戦場で敵に対して向けられる限りは無類の力を発揮する。
「どうしたアバズレ共! 貴様らが揃いも揃ってロクでなしのカスでないというのなら、この場でガッツを見せてみろ! 地べたに這いつくばっていては、流れ矢に当たって死ぬだけだぞ! やれ、やってみせろ! 槍を手に立ち、太陽に顔を向けてみろ!」
その一言で少女たちの指先が動き、ランスの柄を掴む。体力は既に限界――その体を動かすのは、ほとんど全て気力のみであった。アイリスも同じように手を伸ばし、与えられたランスの柄を指に掴み取った刹那、誰よりも早くその場で立ち上がった。全身に伸し掛かる凄まじい疲労感が意識を朦朧とさせるが、その瞳はランスの切っ先にも負けないほどの壮烈な輝きを放っていた。
それに続いて、彼女の周りで何人もの訓練生が立ち上がる。騎兵が下馬してランスを手に長距離を走り続ける――実戦でもまず生じないであろう状況を想定した厳しい訓練に全身は軋みを上げているが、ここで立ち上がらなければ兵士でないという思いが、彼女らに限界を超えさせる。様子を見ていたリーアは一歩踏み出して、全ての訓練生に視線を向けてから口を開いた。
「――そうですわ。それが『兵士の在り方』でしてよ。貴女たちはもうどうしようもない状況、潰れたガマガエル未満の有様に陥った。それでも、ここで立たなければならないという思いを抱いて、気力を振り絞って立ち上がった」
「……」
「それは戦場でも同じことでしてよ。何十人もの敵に囲まれたとき、全て諦めてその場で袋叩きにされることを認めるか、意地で突破して生きて帰り、英雄として称賛を浴びるか――訓練で死ぬことはありませんわ。けれども、戦場で心が折れた者は簡単に死ぬ。それが分かれば、今日の訓練は上首尾に終わったと言えますわ」
はっきりと言葉にはしない――だが、リーアは訓練生たちのガッツを心から認めていた。その場で全員が立ち上がり、しっかりと両の足で大地を踏みしめていることをリーアは確かめると、ベアトリクスと視線を交わして号令を掛けた。
「では――全員、最後の一周ですわ! 全力疾走で決めてくださいまし! 無様にトロトロ走ったら、ケツの穴をチャカで増やしましてよ!」
驚く者はいなかった。全員が限界まで肉体を酷使し、その後さらに全力を振り絞った「最後の一回」が待ち受けていることは、既に経験済みである。少女たちは一斉に敬礼し、手にしたランスを高々と掲げたまま駆け出していった。




