第24話 誇りとともに、前へ
アイリスとエリカの通報を受けた当直軍医の対応は極めて迅速だった。近隣の陸軍基地から衛生兵が即座に招集され、必要な医療設備が一瞬の内に整えられていく。軍医局秘蔵の治癒術士――俗に言う「癒し手」までもが基地から集められ、よほどの重傷で無い限りは容易に治療可能な態勢が整えられる。
その様子を目の当たりにしたアイリスとエリカは、本職の軍医の手際の良さにただ驚いて目を見開いていた。それと同時に、軍という組織の強靭性と柔軟性を実感してもいた。必要な技術者を即座に集め、負傷者を治癒させる――例え訓練生であったとしても、全力で軍に属する者を救おうとする姿勢そのものに、彼女たちは一種の感動を覚えていた。
「……凄いとしか言えない」
「ええ。仕組みは知っていたけれど、実際に軍の衛生部門が動くとどうなるのか――よく分かったわ」
アイリスとエリカが二人して感心していると、彼女たちの前に山から下りてきたらしい第七分隊と第三分隊の姿が見えた。太い枝を二本と戦闘服のジャケットを使って作り出した応急担架で、三人の負傷者が同時に搬出されてくる。負傷者の意識はいずれもはっきりしており、それを見たエリカの表情は少しばかり穏やかなものとなった。
負傷していた訓練生は、いずれもエリカに対して過酷なリンチを加えた者ばかりである。だが、エリカは彼女らを助けることに何の躊躇も無かった。自分に理不尽な殴打を加えた者のことを忘れたわけではない。
だが、自分にも殴られるだけの非があったことは彼女自身認めていたことであったし、かつて殴打を浴びせたからといって、その遺恨を緊急事態においてまで引きずることは人間としての品格を著しく毀損する行為であると、彼女は考えていた。
その変化を感じ取ったのか、負傷者を運んでくる分隊員たちに真剣な眼差しを向けるエリカに、アイリスは微笑みかけた。言葉はない――だが、彼女が変わりつつあることを、アイリスはただ素直に喜んでいた。騎兵学校に集った四十八名は、いずれも兵としての素質を備えるものばかりである。
だが、将の器を備える者はそう多くはなく、エリカは貴重な素質の持ち主だった。一人の兵士として圧倒的な力を持ち、同時に軍事に関する十分な知識を備える――後は人望さえあれば、彼女は優秀な将として兵を束ねて戦うだろうとアイリスは感じ、同時に彼女のもとで槍を手にする日を待ち遠しく思ってさえいた。
やがて、第七分隊と第三分隊の訓練生たちは完全に山を抜け、一直線に練兵場へと向かって負傷者を搬送してくる。軍医と衛生兵は彼女たちのもとに駆け寄ると、がっしりとした木造の担架――大柄な兵士でも簡単に横たえられるであろうそれに、丁寧に訓練生たちを横たえていく。
全ての訓練生が無事に引き渡されると、その場を統括していた軍医はアイリスたち第七分隊と、負傷した仲間を運んできた第三分隊の訓練生に対して、しゃんと背筋を伸ばして敬礼を送った。医官はいずれも中尉以上――目の前の軍医の襟元には、少佐の階級章が燦然と光を放っていた。
軍の常識において、少佐が訓練生に対して先に敬礼するなどあり得ない――だが、彼女たちの前に立っている軍医は、穏やかな笑みを浮かべて敬礼を送った。その背後にあったのは、自らの手で工夫を重ね、仲間を救おうとした勇気ある少女たちへの心からの敬意であった。分隊員たちからの答礼を受けると、軍医は一歩前に踏み出して少女たちをざっと見回して問いを投げた。
「見事な初期対応だった。包帯の巻き方を見ても素人でないと分かる――それに、急造担架も見せてもらったが、あれも完璧だった。この隊には、相当の心得を持った者がいると見える――どうか、名乗り出てはくれまいか」
暫しの間があって、ユイが一歩前に踏み出した。
「ユイ・セトメ訓練兵であります」
「……」
軍医は少しの間何か考えるように下を向いていたが、やがてはっとした表情で顔を上げて、ユイの顔を正面から見つめて口を開いた。
「君は――王立軍医学校のシン・セトメ教授の、娘かね」
「……はい」
父の名を出された瞬間、ユイの表情の表情が僅かに強張った。極東オオヤシマ皇国の陸軍から軍医教官として特別に招聘されている、ということだけは彼女の口から聞いているが、それ以上のことは、分隊員たちも知らされていない。
「私も何度も世話になった。そう変わらない歳だというのに、画期的な治療法をいくつも発見している。教授以上の軍医はそう多くはあるまい。しかし――何故君が、騎兵になろうと思ったのだね? 確かに現役の軍人には推薦が出るかもしれないが、十八歳まで待って軍医学校の試験を受けてもよかっただろう」
軍医は不思議そうにユイを見つめて問いを投げかけたが、ユイは静かに首を振り、今までに聞いたことがないような、はっきりとした口調で応えた。
「前線で戦う兵の気持ちを知らないまま、階級だけ中尉となれば――私は、自分を許せなくなります。医官といえども士官である以上は、前線で刃を振るう者の思いを知らずに戦場に立つことはありえません。もし軍医となるにしても、それは自ら刃を手にして任務に就き、その重みを知ってからです」
その言葉をどう受け止めたのか――軍医は暫し無言のままでいたが、やがて一歩下がってしゃんと背筋を伸ばし、ユイに微笑みを向けた。
「殊勝な心がけだ、セトメ訓練兵――君のような者こそが、医官となるべきなのだろう」
その一言を残し、軍医は担架を手にした衛生兵たちと共に駆けていった。第七分隊と第三分隊の面々はその背中を見送ると、続いて訓練場の彼方に聳える山を見つめた。
「……今からだけど、登る?」
隊長のエリカが問いかけると、全員が一斉に深々と頷いた。まだ訓練は終わっていない――自分たちに課せられた使命は、部隊を率いてその頂上まで登ることにある。負傷者の救助というイレギュラーはあったが、それは訓練とはまた別の話である。恐らく最下位に等しい結果となるであろうが、彼女たちはそれでも最後まで続ける腹積もりでいた。
「それなら、決まりね。第三分隊は第七分隊に臨時編入――九人に改組の上、任務を継続するわ。目標はあの山の頂上――妨害を振り切って、迅速に登頂するわよ」
エリカがそう宣言すると、分隊員たちは一斉にその場で姿勢を正し、静かにエリカの命令を待った。隊員の負傷は予想外の出来事であったが、それが彼女たちを本物の兵士へと近づけてもいた。
共に任務を達成し、仲間を救うために行動する――その意味を知れば、自ずと兵士の何たるかに気付いていく。背嚢を背負い、模擬銃を手にした少女たちは、一斉に訓練場所の山林に向かって駆け出していった。
つい一ヶ月前までは華やかな化粧に彩られていた頬には泥が飛び、色鮮やかな洋服はオリーブグリーンの野戦服に変わった。手にしているのは花束ではなく、小銃を模した訓練用装備と銃剣――視覚的な鮮やかさは失われていたが、少女たちの胸には鮮烈な輝きが満ちている。
当たり前の少女の日々を捨て去り、兵士として国家に忠じる道を選び取ったことへの誇りと、信頼できる戦友を得た喜び――そのどちらも、一ヶ月前の彼女たちは持たなかった、あるいは想像すらしなかったことだった。
陸軍への志願を決めた時点で、国防に対する何らかの思いを持っていたことは間違いない――だが、実際に入隊し、苛烈な訓練に身を投じて初めて、彼女たちは団結の喜びと、国家への献身を知った。国家が自身に何かを与えてくれることを期待するのではなく、自らが国家に忠じることそのものを誇りとすることを覚えた彼女たちの足取りに迷いはなく、艱難辛苦に挑みかかる野心に満ちあふれていた。
訓練開始から七時間余り――度重なる教官たちの妨害に耐えて頂上への登頂を果たした少女たちは、ただぐったりとその場に倒れていた。最低三度は麓と中腹を往復することになった彼女たちの瞳には、既に感情というものが見られない。ただ疲労に全身を打ちのめされ、ようやく掴んだ結果であった。
ベアトリクスとリーアは頂上に戻り、もはや一歩も動けない状態に陥った少女たちを眺めながら、手元の名簿に視線を走らせた。現状、六分隊が頂上への登頂を果たし、残るは第三分隊と第七分隊のみである。
もちろん、場を預かる訓練教官として事態は把握している。第三分隊に負傷者が発生し、第七分隊がそれを救助――そこまでは伝令から聞いている。本来ならば訓練を中断し、第七分隊と第三分隊には麓での待機を命じるところであったが、二人は敢えてそうしなかった。
それは、彼女たち訓練生に対するある種の敬意によるものであった。負傷した仲間を救助し、その上で訓練を続行するのは並々ならぬ体力を要求することである。第七分隊には軍医学校教授の娘であり、医学に関する心得のあるユイ・セトメがいるとはいえ、救助活動がどれほどの困難を伴うものなのか、訓練教官であり、現役の兵士でもある二人は熟知している。
本来ならば訓練を中断すべきであるが、訓練生自らがその困難な道を選び取ったのであれば話は別であった。誇りを胸に艱難辛苦に立ち向かう勇気は兵士としての絶対条件であり、最も過酷な状況に置かれた際にこそ、その思いは強い輝きを放つ。
だからこそ、二人の教官は訓練を中止しない。かき曇った空が雨粒を零そうとも、ただその場で九人の少女たちが現れるまで待ち続ける。時間が経つにつれて雨が勢いを増し始めたそのとき――生い茂った藪を突っ切って、九人の少女たちは姿を表した。先頭に立つエリカが頬に飛んだ泥を拭い、しゃんと背筋を伸ばして敬礼を送ると、凛とした声で報告を上げた。
「第七分隊、エリカ・シュミットならびに第三分隊、レイン・ダルド以下合計九名、予定地点に到着致しました」
「最下位だ、大馬鹿者ども。ミミズ以下のスピードだぞ」
「最下位でしてよ、ウジ虫さんたち。墓場に行って新しい足を貰ってきてくださいまし」
返ってきたのは容赦のない罵倒――だがその後、ベアトリクスは一歩踏み出して九人の少女たちを見つめ、ふっと笑みを浮かべた。
「だが、貴様らの勇気は称賛に値する。負傷者の救助、ご苦労であった。貴様らの勇気ある行動は、全ての訓練生の模範であり、騎兵として誇るに値するものだ――総員起立! 現時点を持って、山岳戦前期訓練を終了する! 各員、明日の訓練に備えて存分に休め!」
『マム・イエス・マム!』
全員が一斉に唱和する。その中にあって、第七分隊の声は一際明るく、そして高らかに響いた。




