第22話 深き森にて
山の中腹から強引に引きずり降ろされて二時間あまり――第七分隊の面々は、再び登頂を試みていた。凄まじい殴打を受けながら麓に下ろされたカレンは、唇の端に滲む血を拭って、藪の向こうを睨みつけた。
「畜生、よくもやってくれたなあのサイコ女……」
「静かにして――ただ殴られただけじゃないわ、何故ああなったのかの教訓を得ることもできたじゃない」
カレンの後ろに立っていたエリカは、そっとカレンの肩に触れて耳元でささやき、足元の枝を踏み折らないように注意しながら足を上げて近くの土に軍靴の跡を残さないように留意しながら前進した。少女たちは互いに言葉を交わしてはいるが、いずれも耳元でなければ聞こえない程度の声であり、その足取りも極めて慎重であった。派手に藪を踏み荒らして枝を蹴り飛ばすようなことはせず、ただ静かに、森と一体化するように前に進み続ける。
先頭に立ったオリヴィアの手には、ブッシュナイフ代わりの銃剣ではなく、近くで拾った太い木の枝が一本握られていた。彼女は丁寧に一歩ずつ歩を進めながら、時折地面を枝先で探っていたが、ふと何かの違和感を覚えて全員を停止させた。
「……僕の後ろから動かないで。罠だ」
罠――その一言に、少女たちはその場に凍りついた。訓練においては教官が妨害手段を行使することは予め伝えられていた。だが、ブービートラップまでも設置するのは酷に過ぎるとその場の全員が感じていた。流石に殺傷能力を持ったものではないではあろうが、痛打を浴びることには違いない。
オリヴィアは丁寧に枝で地面を探って枯れ葉を横に退けると、その下に隠されていた蔦を探り当てた。彼女の瞳が鋭い輝きを帯び、視線が地面を這う蔦から近くの木に上げられる。その先にあったものを見て、彼女は後ろの全員に呼びかけた。
「あれを見て。左側の木の上だ――藁で巻いた丸太……かな。蔦を引っ掛けたら、多分あいつが側面から落ちてくる」
少女たちが視線を向けた先には、彼女らの胴ほどもある丸太が木の上に設置されていた。まともに打ち付けられれば、重傷を負うことは無いにしても痛烈な打撃を受けることには間違いなく、重量級の格闘家の拳打を浴びたが如くに吹き飛ばされるのは確かだった。実戦であれば単なる丸太では済まない――四方八方に殺傷能力を高めるためのスパイクが仕込まれているであろうことは、彼女たちにも容易に想像がついた。
「……悪趣味だなぁ。あれ、解除できんの?」
うんざりしたような表情でテレサは樹上のブービートラップを眺めていた。オリヴィアは小さく頷いて彼女の言葉に答え、腰に提げていた銃剣を模擬銃に装着してそっと忍び寄った。
「離れておいて。万が一作動したら厄介だ――うまく作動機構だけを殺して、トラップが残っているように見せかける」
「出来ンのか? 手が込んでやがるぜ、これ」
「大丈夫さ。狩猟用とはちょっと違うけど、自然物を使った罠ってのはある程度作動機構が決まってるんだ。僕に任せておいて」
カレンは首を傾げたが、オリヴィアは胸を張って模擬銃を掲げ、そのままトラップの近くへ近接していった。彼女は暫し木の周りを確かめると、手にしていた銃剣を翻して、高所に設置されている作動機構の一部――いずれも木の枝と蔦を組み合わせたものを素早く破壊し、代わりの枝を詰め込んで完全に機構を殺した。アイリスは丸太が落ちてくることを予感したが、物音一つせず樹上の丸太はそこに残っていた。
「……でしょ?」
戻ってきたオリヴィアはにやりと笑い、足元の枯れ葉を払って足跡を消した。見事な技量――軍に入ってから習ったものではなく、それは彼女自身が日々の生活の中で身につけていたものであったが、見事なまでに状況を制していた。彼女は罠を解除して分隊員たちのもとに戻ると、ふっと笑みを浮かべて模擬銃から銃剣を外した。
「まあ、ちょっとした作業みたいなものさ――周りにまだ仕掛けられてるかもしれないから、油断しないでね。多分、僕たちが迂回するだろうルート上を選んで設置してあるんだと思う。歩きやすい場所は特に気をつけたほうがいいかもしれない。模擬銃の先で探りながら行くと、少なくとも落とし穴にははまらないはずだ――行くよ」
全員が視線を交わし、再びゆっくりと山道を進み始める。静かに、だが素早く――彼女たちは木々の間を縫うように動く。山岳に慣れている者はオリヴィア一人だけであるが、卓絶した技術を持つ一人の指導があれば、他の五人の経験はそう問題にはならない。安全かつ迅速に頂上へ向かうルートをオリヴィアが選び取り、次は痕跡を残さず歩を進めていく。
(一回目は捕まった――けど、二回目は……)
今の所問題はない――そう思ったアリシアが近くの木の枝を掴んで体を引き上げようとした瞬間、がさり、と藪を掻き分ける音がした。その音に彼女は氷付き、木の枝を掴んだまま唇を引き結んで息を潜めた。何らかの気配を感じた彼女は、先頭を行くオリヴィアに声を掛けようとした――が、考え直してそっと手を伸ばし、彼女の肩をそっと叩き、唇の前で人差し指を立てた。
「……!」
彼女の仕草だけで何が起きたのか察したオリヴィアは、素早くハンドサインを送って全員をその場に伏せさせ、自分はそっと身を起こして手近な木の陰に駆け寄った。模擬銃を手にしてはいたが、何の役に立つわけでもない――着剣して振りかざしたところで、ベアトリクスやリーアは余裕をもって彼女を圧倒するであろうことは明らかだったが、軍隊生活の中でオリヴィアに刻まれた戦闘本能がそうさせた。
物音を立てないように隠れた彼女の五十メートルほど手前を、ゆっくりとベアトリクスが横断していく。第七分隊の全員は殴打された部分を無意識に押さえ、見つからないように息を潜めた。リーアは別行動らしく、ベアトリクス以外に姿は見えないが、六人総掛かりで反撃を加えたところで何の意味も持たないだろうことはこれまでの訓練で痛感していた。
ベアトリクスは辺りを執拗に索敵していたが、やがて唐突に踵を返して第七分隊から遠ざかっていく。その瞳は、獲物を狙う肉食獣のようにぎらついていた。殺意こそ見えないものの、少女たちの背中に冷や汗が伝い、強烈な痛打の記憶が瞬時に蘇る。
「……行ったか?」
カレンがゆっくりと身を起こそうとしたその瞬間、遠ざかりつつあったベアトリクスが、それこそ野獣の素早さでもって振り向いた。近くに居たユイが慌てて彼女を引き止めて事なきを得たものの、しばらくの間第七分隊はその場から動けずに居た。殴打されるのも十分に辛いことではある。
しかし、何より厳しいのは一度山から下りて再び登頂しなければならないことだった。それほど標高が高いわけではないし、オリヴィアのサポートもある――だが、仮想敵を務める教官の追撃を交わしながら、藪の多い山を歩かなければならないという過酷な状況は、少女たちを疲労させるに十分だった。数分間隠れ続け、ベアトリクスが完全に姿を消したのを見届けてから、オリヴィアは一息ついて木の陰から動いた。
「……よし。まるで野生の狼みたいなやつだ――すごい勘をしてる。行くよ。他の部隊がどこまで進んでるかわからないけれど、勝負なら早めに到着して勝ちたいところだ。山で負けたら、やっぱり僕も悔しいからね」
『了解』
分隊員たちは静かに、だがはっきりとした言葉で応え、再び慎重な足取りで頂上へと向かう。あくまで訓練ではあるが、緊張感は実戦さながらだった。騎兵が徒歩で山岳戦を行わなければならないという状況はそう多くはないし、そのような状況下に追い込まれた時点で不利な情勢に陥っているのは明白である。
しかし、彼女たちは単なる騎兵部隊ではなく、従来の騎兵を凌駕する機動力と、あらゆる魔法を跳ね返す聖なる守護に守られた幻獣を駆る機動戦力としての任務を任されることとなる。その中には、深い原生林に包まれた国境の山岳地帯を踏破しての偵察作戦も含まれ、有事に至っては敵地への少数での潜入を行わなければならないことも少なくない。そうなったとき、山岳地での生存を旨とした訓練は必須であった。
彼女たちはほとんど言葉を交わさず、ただ視線と簡単なハンドサインだけで意思疎通を図りながら道を踏み越えていく。喋り声は敵を引き寄せ、自らの位置を晒すに等しい行為であることを、彼女たちは確かに学んでいた。
山の中腹に差し掛かったところで、第七分隊は一斉にその行き足を止めた。オリヴィアが小声で小休止を告げると、部隊の全員は背負っていた背嚢を下ろして一息ついた。休憩時間も無駄口を叩くことはない。背嚢に入っていた水を口にして、ただ身を休めるのみであった。
(ペースはいい感じ――見つかった感じもしないから、この調子で進み続ければ……)
アイリスが水筒を背嚢に収め、疲労した足を軽く揉んでいると、彼女の隣に腰掛けていたエリカが不意に立ち上がった。
「……どうしたの?」
アイリスが不思議そうに首を傾げて問を投げると、エリカはすっと目を細めて辺りを見回し、それから口を開いた。
「誰かの声がする。少し偵察に出てくるわ。全員、ここで待っていて。オリヴィア――手伝ってくれる?」
「ああ、いいよ――確かに、何か変だ。酷く騒がしい……あんなことをしていたら、すぐに見つかってしまう」
二人は連れ立って木の陰から身を乗り出し、すぐさま声の主を突き止めた。彼女たちが隠れている森のすぐ近く、崩れかかった崖の下を通る道に一個分隊の姿があり――その半数が地面に伏せたまま、苦しげな呻き声を上げていた。辺りにはつい先程落ちてきたばかりと思われる岩石が転がっている――その光景から、エリカとオリヴィアは瞬時に状況を察した。
「……まずいわね。落石にやられて重傷――あの様子だと、骨が折れているわ」
「ああ。相当ヤバいな……教官殿を――」
呼ぶしかない、と言おうとしたところで、エリカは静かに首を振った。緑の瞳には、確かな意志の炎が燃え上がっている。決して揺らぐことのない兵士としての覚悟――その片鱗が、エリカの瞳には覗いていた。
「助けに行くわ。六人居れば救出できる――迷っていたら、助かるものもの助からない。手伝ってもらうわよ!」




