第21話 野獣の追撃
行軍を始めて三十分余りで、アイリスたち第7分隊はスタート地点である山の麓に集まっていた。標高はそれほど高くはない――だが、鬱蒼と茂る藪と木々が行く手を阻んでいる。アイリスはそれを見上げ、周りの仲間たちと視線を交わした。
「意外と低いね。これなら――」
アイリスがそう言うと、部隊の中で最も山岳や森林に精通しているオリヴィアは静かに首を振って口を開いた。
「確かに標高は大したことはないけど、傾斜がきつい場所が多いし、木が多くて歩きにくい。それに――アレを見て」
そう言って、オリヴィアは人差し指をすっと伸ばしてスタート地点の一角を指差した。そこには、6人分の背嚢が無造作に積み上げられている。近くにいたユイが中身を確かめたが、すぐに彼女はげんなりとした表情を浮かべてうなだれた。
中身が気になった他の者たちも背嚢を覗き込んだが、すぐにユイと同じくげんなりとした表情を浮かべることとなった。背嚢に入っていたのは、中身がぎっしり詰まった土嚢と、一人分の飲料水のみであった。
ご丁寧にも、その近くには模擬銃まで置かれている。まともに使える道具といえば、背嚢の側面のホルダーに差し込まれたアウトドアナイフ代わりの銃剣だけで、その他には何一つ用意されていない。
「ま……まあアレじゃない? 水が貰えるだけ有情っていうか、なんていうか……飲めば減るし。土嚢はまあ……うん、仕方ない。多分だけど、コレ捨てていったら鬼軍曹二人に寄ってたかって殴られるわけだし。休みながらなら、そんなに辛くないぜ」
分隊のムードメーカーであるテレサは無理に笑みを作ってぽんと手を叩いたが、その場の雰囲気は一向に明るくならない。普段は楽観的なアイリスも、その時ばかりはげんなりとした気分であった。しかし、背負って登らないことには訓練も終わらない。第七分隊の少女たちは土嚢の入った背嚢を背負って立ち上がった。体力のないユイは一瞬ふらつき、その肩を素早くアイリスが支えた。
「大丈夫?」
「今のところは大丈夫……です」
口では大丈夫だと言っているが、ユイの持久力は訓練生の中でも最低ライン――どうにか訓練から落伍せずにいられる程度のものだった。座学ではエリカと首席を争うほどの優れた成績を示しているが、彼女のように知識と体力の両面で圧倒的な実力を示しているわけではない。
体力で劣る彼女がこれまで過酷な訓練に耐えられた理由はひとつ――その人徳故であるとアイリスは考えていた。入校して二十日余りではあるが、ユイが他の訓練生に講義内容の解説を行っている姿をアイリスは頻繁に目にしている。
テレサとオリヴィアの二人は勉強がそれほど出来るわけではなく、ユイは軍事に関する座学でチームを支えていた。それ故、彼女が苦手とする長距離行軍訓練――という名の終わりなき持久走において、二人は持ち前の体力でユイを積極的に助け、全体としてそれなりに優れた結果を残している。
(このチームがやってこられたのはユイを二人が支えてきたからだ。お互いの得意な部分で補い合えば、必ず戦い抜ける――そう信じているから、みんな迷わない)
ゆっくりと、だが着実に足を進めていくユイの背中を見て、アイリスは胸に熱い想いがこみ上げてくるのを感じていた。仲間を信じることと諦めないこと――最後に試されるのはそれだと、かつて騎士団の者たちから聞いてはいた。
だが、実際に自らそうした立場に立ってみて、初めて言葉の意味を理解することができた。もちろん完璧にというわけではない――しかし、兵士として最も重要なものを、アイリスの手は掴みつつあった。仲間がいると思えば、背中にのしかかる背嚢の重量も気にならない。
全員がペースを合わせて、ゆっくりと――だが着実に訓練場所の山へと向かう。生い茂る木々が視界を塞いでも、山に慣れたオリヴィアは先頭に立って巧妙にルートを迂回して突破していった。
相当にペースは早い――だが、疲労しない程度で動き続けるだけの余裕を持って、第七分隊は頂上へと近づきつつあった。分隊長のエリカは素早く懐中時計を取り出して時間を確認し、続けて頂上へと視線を向けて全員に呼びかけた。
「この調子ならそうかからないはずよ――何もなければ、だけど」
「何もなければ、ねえ……この茨さえなきゃ、もっと早く着けるかもしれねェんだがな」
カレンは目を細めて、手にしていた模擬銃で目の前の藪を乱暴に払った。茨の棘は分厚い戦闘服も貫き通し、少女たちの腕や足を容赦なく引っ掻く、あるいは戦闘服の生地に絡みつくなどの不快感を与えていた。オリヴィアは進む先の茨を銃剣で切り払っていき、他の五人はその後に続く。最後尾で様子を確認していたアイリスが振り向くと、そこには六人の通ってきた道が残されていた。
(山に慣れてるオリヴィアのおかげで助かった……)
迷いのない足取りで前進し、無言で道を示し続けるオリヴィアの背中を追って、アイリスたちは前進を続ける。しばらくの間歩いているうちに体が慣れてきたのか、多少の藪であっても踏み越え、道を塞ぐ倒木を蹴飛ばし、少女たちは猛然と山頂を目指して前進を始めた。
「いいペースだよ、みんな。ほら、もうスタート地点が見えないや」
オリヴィアは振り向き、口笛を吹いて自分たちが通ってきた跡を指さした。確かに前進していることに少女たちは満足そうに頷き、再び山頂へと向かい始めた。その足取りは軽く、山に慣れてくるにつれて進行スピードは上がりつつあった――それ自体は問題ない。山岳環境に慣れるという訓練の目的は達成されつつある。
だが、彼女たちはほとんど失念していたことがあった。この訓練は単なる登山ではなく、山に放たれた二頭の猛獣の追跡を掻い潜らなければならないというもう一つの目標があったことを、その場に居た者たち――最も冷静だろうエリカとユイの二人でさえ忘れつつあった。全く忘却してしまったというわけではない。ただ、自らの行動が状況にどのような影響をもたらすのかということについて、彼女らの認識はあまりにも甘かった。
猛獣は容易く獲物の痕跡を見つけ出し、その跡を追って首筋に牙を突き立てる。それは山岳戦における猟兵部隊も同じことであり、軍靴の足跡を見つけ出して敵を追い詰め、近接戦に特化した短槍や散弾銃によって確実に仕留める。
訓練生たちを追い詰めて狩り出す役目を負ったベアトリクスとリーアは、いずれも本職の山岳猟兵というわけではない。国境近辺や地方の僻地――少数民族の居留地などで警備を務める山岳猟兵隊は、彼女たち二人を遥かに上回る追跡と偽装の能力、そして山岳での戦闘のノウハウを蓄積している。
だが、軍に入隊して一ヶ月も経たず、自らの足跡を残さずに歩く少女たちを見つけ出して狩る程度のことは十分に可能だった。小枝を踏み折り、藪を蹴り倒し、茂る茨を銃剣で切り払ったとなれば、その痕跡が二頭の猛獣に露見するのは自明のことであった。静かに、だが確実に――少女たちの背後に、猛獣は迫りつつあった。
だが、第七分隊の面々がそれに気づくことはない。部隊の先頭に立って道を切り開くオリヴィアは、登山の技術や狩猟技能には優れている。獲物の痕跡を見つけ出し、迅速にその跡を負って狩ることに関しては、他のものを寄せ付けない技量を誇るだろう――だが、そうした技能が発揮されるのは、あくまで自らが「狩る側」に立った場合に限られる。自分が狩られるものとなることを、彼女は一切想定していなかった。
「ゆっくりでいいからね。僕の後ろについてきてくれたらそれで十分さ――一番歩きやすい道を探すから、楽をして早くゴールしよう」
『了解!』
部隊の全員に声を掛けながら、オリヴィアは森の中を進んでいく。山仕事であるならば、互いに声を掛け合って進むのは常道――だが、彼女の「常識」がこの場において全て通じるというわけではない。仲間を思って掛けたその一言は、確かに猛獣の耳に届いていた。
「いいペースだよ。この調子なら、すぐに――」
登りきれそうだ、とオリヴィアが言おうとしたそのとき、突如として彼女の真横の藪が揺れた。ぎょっとして目を見開く――その瞬間、素早く伸びた強靭な腕がオリヴィアの喉を掴み、容赦なく木に叩きつけていた。がは、と息を吐いてオリヴィアが苦悶に表情を歪める。
他の五人は思わず立ち止まったが、その行為の結果は最後尾に立っていたアイリスに容赦なく降り掛かった。突然襟元を強く掴まれたかと思うと、彼女はうつ伏せにねじ伏せられた。何事かと思って藻掻いた途端、鋭く研ぎ澄まされたマチェットナイフが首筋を掠めて地面に突き立ち、頭上からは穏やかな――だが、ナイフと同じく鋭く尖った言葉が降ってきた。
「動かないでくださいな、クソッタレのウジ虫さん――はい、分隊員の皆さんも動かないでくださいまし。一歩でも動いたらこのフンコロガシを地面に縫い付けましてよ。模擬銃を捨てて、銃剣を持っている」
顔を上げるまでもない――リーアに捕まったということを知り、アイリスはぎりり、と歯噛みした。部隊の全員が手にしていた模擬銃を捨てる音が聞こえ、それに続いてベアトリクスの言葉が辺りに響いた。
「第七小隊、戦死と判定! 全員スタート地点に戻れ、役立たずの売春婦ども――駆け足だ!」




