第16話 二人目の鬼軍曹
行軍を続けること五時間余り――少女たちは、どうにか定刻通りに陸軍所管の訓練施設に到着した。アイリスは広々とした敷地を見渡し、感嘆の声を上げた。
「広いんだね……こんな軍施設があったなんて、知らなかった」
それに対して、エリカが一度小さく頷いて応えた。
「王国陸軍最大の訓練施設だからね。裏手の森では森林戦闘訓練もできるし、砲兵の実弾演習も想定されているらしいわ。私たちがどこまで使うのかは知らないけれど、ある程度のことはやらせてくれるはずよ」
「へえ……噂には聞いてたけど、本当にこんな施設があったんだ……ちょっと楽しみかも。訓練がこんなに楽しみなんて、初めてかも」
「そうね。けれど、今日のところはもう十分よ……確かに時間通りには着いたちたいだけど、五時間も行軍を続けたら後の訓練は無理ね」
そう言って、エリカは周囲でぐったりとしている訓練生たちに目をやった。十五歳の少女たちにとって、五時間にも及ぶ行軍は苛烈極まりないものだった。
間に休息を挟みながらとはいえ、遅刻が許されない状況での行軍となれば、心身ともに凄まじい消耗を強いられる。
ベアトリクスが施設の管理担当将校に挨拶に行く間、待機を命じられた少女たちは地面に座り込み、疲れ切った表情で空を見上げていたが、突如として響いた声に目を見開き、声のした方を振り向いた。
「――あら、貴女たちが新しい訓練生ですこと?」
振り向いたその先には、ウェーブの掛かった銀髪の女性兵士が立っていた。襟元には軍曹の階級章が光っていることに気づいた少女たちは反射的に立ち上がった。両脚は疲労に震えているが、彼女らの肉体に刻みつけられた「教訓」がそうさせた。
しかし、行軍の疲労で動くこともままならない彼女らのうち、一人がよろめいて尻もちをついた――その瞬間、銀髪の女性兵士は流れるように一歩踏み込むと、尻もちをついた少女の胸をなんの容赦もなく蹴った。かは、と肺から空気が絞り出される音が聞こえたかと思うと、少女の体は二メートルほど吹き飛ばされていた。
「――真っ直ぐにお立ちあそばせ、ドグサレのウジ虫さん。直ぐにお立ちにならないようなら、両脚叩き切って変態娼館に売り飛ばしましてよ?」
言葉遣いそのものは丁寧――に聞こえたが、内容は軍隊特有の乱暴極まりないものだった。少女たちがぎょっとして目を見開く中、その女性兵士は腰に下げていたマチェットナイフを抜き放った。
研ぎ澄まされた刀身が夕日の下に煌めきを放つと、蹴り飛ばされた訓練生は慌てて立ち上がり、その場で背筋を伸ばして敬礼した。
疲れ切って立つのがやっとといった状態だった他の者たちも、一斉に背筋を伸ばして敬礼した。彼女たちにそうさせたのは、マチェットナイフの鋭さだけではない――この場で従わなければ、本当に何をされてもおかしくないという恐怖だけが、彼女らの胸中にあった。
「あら結構ですこと、ウジ虫さんの割にご理解が早いようで……わたくし、殺ると決めたときは本気で殺りましてよ。特にそれが、愛する陸軍を食い荒らすフンコロガシ未満の雌バエさんには――」
女性兵士は胸の前でマチェットナイフを構え、その刃を夕日に反射させて凄絶な笑みを浮かべ、手近な訓練生に詰め寄ろうとしたが、後ろから歩いてきたベアトリクスに軍服の襟を掴まれた。
「そこまでだ、リーア。まだ入校して二十日ほどの訓練生だ、兵隊稼業の半分も分かっていない奴には、お前の遊びは刺激が強すぎる、やめておいてやれ」
「あら――ベアト、ここからがいいところなのに。こんな可愛いウジ虫さんたち久しぶりだもの、ついプチプチしたくなりませんこと?」
「普通はならんし、このウジ虫は官給品だ。殺すなら共和主義者のテロリストどもか、アルタヴァ人の腰抜けどもにしておけ。貴様はいちいち悪趣味なんだ――ともかく、まずは名前程度は教えてやれ。ウジ虫共が困っている」
ベアトリクスが促すと、リーアと呼ばれた女性兵士はマチェットナイフを鞘に収め、軍服の裾をスカートに見立ててつまみ、見事な貴族の礼をとった。
「リーア・レインメタル――階級は軍曹、本日から皆様の訓練教官を務めさせていただきます。お見知り置きを、最底辺のクソッタレのウジ虫さん」
言葉遣いは優美そのもので、それが貴族の話し方であることをアイリスは一度で見抜いた。そして、リーアの名乗った姓――レインメタル家にも、確かに心当たりがあった。
武器の製造に関していくつかの特権を持っており、同じく武器製造で名を上げてきたブレイザー男爵家とは多少ばかりの縁がある家門だった。
(レインメタル家といえば、冶金に関する技術を豊富に持った地方の男爵家のはず――どうして、陸軍の訓練教官なんて……それに、この人は「フォン」を付けずに名乗った)
通常、貴族が公式に名乗りを上げる際には自らの名前に「フォン」を差し挟む。また、貴族と平民では言葉の発音に微細な違いがあり、そこからも貴族と平民の判別をつけることができる。
そのための訓練として貴族の子女は幼少期から社交界に連れ出され、貴族特有の言葉を学んでいく。アイリスもその例に漏れず、リーアの話し方からして、彼女は一寸の疑いもなく貴族であると判別するだけの知識と経験を積み重ねていた。
だからこそ、アイリスはリーアが「フォン」の名を付けずに名乗ったことを不思議に思っていた。ヴェーザー王国において、貴族であることを隠して得になる理由は特に存在しない。長男以外は相続権こそ得られないものの、貴族の家系に属するものならば無条件に特権が国から付与され、あらゆる状況で優遇を受けることができる。
(私と同じで、何か事情がある…? いや、詮索するのはやめておこう)
頭の中に浮かんできた疑問を振り払い、アイリスは周りの訓練生たちと一緒にリーアに敬礼を送った。リーアは満足そうに頷き、その場にいた少女たちに自己紹介するように命じた。
その表情は至って和やかなものであり、貴族の淑女であることを疑わせないものだったが、言葉の選び方だけはそうではなかった。エリカまで順番な回ってくると、彼女に視線を向けて、笑みを浮かべたまま呼びかけた。
「じゃあそこの――脳ミソだけ残して魔法で生かしておいたほうがまだマシそうな、馬車に惹かれて干からびたカエルみたいな金髪フンコロガシさん。お名前を教えていただけますこと?」
「エリカ・シュミットです」
エリカはしゃんと背筋を伸ばして応え、見事な敬礼を送ってみせた。罵倒にも動じる様子はなく、まさに模範というべき態度である。リーアはそれで満足したのか、エリカからすぐに視線を外して、続いて隣に立っていたカレンに目をつけた。
「そう、シュミット訓練生――では、その隣に立っている、今度は首から下だけ残して、頭はゴリラか何かに差し替えたほうが良さそうな類人猿モドキさん。人間の言葉が話せるなら、名前を教えていただけませんこと?」
「カレン・ザウアーであります!」
端的で無駄を省いた、自らの名前のみの返答――軍隊における模範であったが、その回答にリーアは暫し首を捻り、カレンと鼻先が触れ合うほどに顔を近づけ、彼女を正面から睨みつけて口を開いた。
「……目を見れば分かりましてよ、腕に自身があるのですわね?」
「……」
カレンが何も答えないでいると、突然リーアは右腕を振りかぶり、一直線にカレン目掛けて打ち込んだ。だが、その一撃をカレンは避けようともしない。アイリスとエリカが息を飲み、思わず目を閉じたその瞬間、ベアトリクスがリーアに声をかけた。
「無意味だ、やめておいたほうがいい。そいつに虚仮威しは通用せんぞ」
アイリスとエリカが恐る恐る目を開けると、リーアの拳はカレンの鼻先で止まっていた。カレンは表情一つ変えず、鼻先に突き付けられた拳を見つめている。緊迫を帯びた数秒間――だが、リーアは唐突にふっと表情を緩めてカレンに微笑みかけ、続いてアイリスを見つめた。
「――お見事。では、次の貴女……そう、いかにも世間知らずで、自分の目がどっちを向いているのかメイドに教えてもらわないと分からないような、どうしようもないクズのお嬢さん――お名前は?」
「アイリス・フォン・ブレイザーです!」
その名前を聞いて何と思ったのか、リーアは暫しの間目を瞬かせていた。同じ貴族、それも男爵家の軍人貴族であるならば分からないはずがない。ブレイザー家は規模こそ小さいが、優れた兵器生産の技術と優秀な騎士団で王国にその名を知られている――だが、リーアは特にそれに言及せず、小さく頷いて次の訓練生に視線を移すのみだった。
やがて自己紹介が終わると、リーアはもう一度穏やかな笑みを浮かべて貴族の礼を取り、訓練施設に設けられた講堂へと姿を消した。ベアトリクスはその後ろ姿をどこか困ったような表情で眺めていたが、やがて訓練生たちの方を振り向いて、彼女らに声を掛けた。
「これより一時間の休息を取る! その後、中央練兵場に集合せよ。今後の訓練予定を伝える――では、解散!」
その号令とともに、少女たちは肩の力を抜いて、休憩場所として施設内に設けられた食堂へと向かう。アイリスも同じく一息ついて、遥かに遠ざかったリーアの姿をぼんやりと眺めた。
(何が起きるか分からないと聞いていたけれど……また凄い人が来たな)
物腰は穏やか、しかし口を開けば罵倒の嵐――そして訳ありという新たな訓練教官の登場に、アイリスは期待と同時に不安を募らせつつあった。