第15話 行軍
陸軍施設での強化合宿訓練が布告されて十日後の早朝――少女たちは、夜明けよりも早く営門の前に集合していた。その表情には久しぶりの外出が許されることに対する、僅かな期待の色が浮かんでいる。たとえ訓練であっても、埃っぽい校舎に閉じ込められて休日もなく延々と走り続けるだけの日々から逃れられるというだけでありがたいことだった。
「何があるんだろうな。実践を意識した野外での戦闘訓練とか、サバイバル訓練もあるんだろ?」
薄明かりの差す東の空を眺めながら、カレンは目を細めた。アイリスはそれに小さく頷いて、手にしていた小さな冊子――野外戦闘訓練に先立って配布された訓練要項を確認した。
「色々あるみたいだよ。三人一組での耐久生存訓練とか、銃剣での戦技訓練も入るみたい。エリカは何か知ってる?」
アイリスが問いを投げると、エリカは暫し俯いて何やら考え、それから小さく首を振った。
「いえ……余り多くのことは知らないわ。ただ、訓練の最後に戦技試験があるかもしれないわね。ユニコーン隊が発足する以前の騎兵学校でも同じ訓練があったから、私たちにも何かあるはずよ。どんな内容かは知らないけれど」
「試験、ねえ……まあ、行ってみないと分かんないか。確か、そろそろ迎えの馬車が来るはずだけど……」
アイリスが辺りを見回す。訓練要項には集合場所に陸軍輸送隊の迎えが来るとの旨が記されているが、そのようなものは影も形もない。遅れを許さない軍という組織にあって、このようなことはそうそう起きるものではない。
アイリスが不思議に思って首を傾げたそのとき、ベアトリクスがゆっくりと歩いてきて少女たちの前に立った。途端にお喋りが止み、少女たちは兵士の顔になってその場で敬礼した。ベアトリクスは満足そうに頷いて答礼し、その場の全員に呼びかけた。
「おはようウジ虫諸君! 今日から楽しい野外戦闘訓練である――が、その前に一つ、残念なお知らせがある。ケツと耳の穴を広げてよく聞け」
「……!」
「諸君の持っている遠足のしおりには、陸軍輸送隊が迎えに来るという記載があるだろう――残念だが、それは輸送隊担当者の怠慢によりキャンセルとなった! 別件の輸送が入っていたことを失念していたため、諸君らに輸送支援は来ない!」
「!?」
少女たちは愕然として目を見開いた。予想外の事態――だが、それを見たベアトリクスはにやりと笑って彼女たちを見回し、さらに言葉を続けた。
「だが、移動手段が全て失われたわけではない。幸いにも我々には健康な両脚がある――諸君! これより当初の訓練予定を変更し、我々は駆け足にて訓練施設へと向かう! なお、到着予定時刻への遅れは一切許さないものとする――では、状況開始! 行くぞ!」
あまりにも一方的で理不尽――だが、その理不尽さに順応することが兵士の第一歩であると、少女たちは心の奥底で認識しつつあった。それ故――彼女らは、一斉に背筋を伸ばして返答した。
『マム・イエス・マム!』
瞬時に隊列を形成し、アイリスとカレン、そしてエリカの三人で構成された第一部隊が先頭に立つ。それを確認したベアトリクスが第一部隊を先導するために最前列へ立ち、同時にホイッスルを高らかに吹き鳴らした。
「全体――進め!」
一斉に少女たちが走り始める。その顔からは、入校直後の甘さは既に消えつつあった。足取りにも迷いはなく、ただ彼女たちは前に進むことだけを意識していた。
「よし――今日は『三番』で行くぞ! 今日はオーディエンス付きだ! ご近所に聞こえるように、できる限り大きな声で歌え!」
先頭に立つベアトリクスが命令すると少女たちは一度小さく頷き、およそこれまで口にしたことは無いであろう、下品で卑猥な歌を口ずさみ始めた。
「アルタヴァ人は串刺しだ、敵兵揃って童貞小僧」
『――アルタヴァ人は串刺しだ、敵兵揃って童貞小僧!』
「俺の槍は特大×××、祖国の敵に鉄槌を!」
『――俺の槍は特大×××、祖国の敵に鉄槌を!』
「向かうは地の底、性病地獄! 梅毒淋病なんでもあり」
『――向かうは地の底、性病地獄! 梅毒淋病なんでもあり!』
「将軍共もビョーキ持ち、膿んだ×××を切り落とせ!」
『――将軍共もビョーキ持ち、膿んだ×××を切り落とせ!』
およそ外部では歌えない内容――だが、少女たちの顔に一切の迷いはない。日々の訓練でミリタリーケイデンスを叩き込まれ、同時に性的な罵倒を散々に浴び続けた彼女たちは、既に麻痺しつつあった。
「騎兵が軍にいるときは、性病彼氏は浮気中」
『――騎兵が軍にいるときは、性病彼氏は浮気中!』
「女騎兵に男は不要、性病彼氏より騎兵槍」
『――女騎兵に男は不要、性病彼氏より騎兵槍!』
「もしも故郷に帰ったら、性病彼氏をぶん殴れ」
『――もしも故郷に帰ったら、性病彼氏をぶん殴れ!』
「男に負けるな女子騎兵、戦場に咲く陸軍の華!」
『――男に負けるな女子騎兵、戦場に咲く陸軍の華!』
卑猥で敵国アルタヴァ共和国への敵愾心を煽る歌詞――普段の彼女たちなら、恐らく口にするようなことはないだろう内容だったが、その過激さは行軍の疲労を麻痺させる。周囲の通行人たち――早朝から市場へと向かう者や、朝から仕事に邁進する農夫は卑猥な言葉を連呼しながら走り続ける少女たちを見て驚きの表情を浮かべたが、彼女らはそのようなことを何とも思っていなかった。目的地までの遥かな道のりを、少女たちは歌いながら走り続けた。
「よし! 一旦休息を取る――各員、三十分休憩だ! いいじゃないかウジ虫共、馬車よりよっぽど早いぞ! 毎晩の『お馬さんごっこ』が功を奏したようだな!」
走り続けること三時間あまり、少女たちは森の木陰で腰を下ろしていた。背嚢に入れていた水を一口飲み、アイリスはふっと表情を緩めた。その隣にカレンとエリカも腰を下ろし、乾ききった喉を潤した。
「……そこそこ走ったな。新記録じゃないか?」
落ち葉の上に横になり、カレンはふっと息を吐いた。エリカは小さく頷き、目を閉じたままそれに答えた。
「かもしれないわね。何より、誰も脱落しなかったのが一番の快挙ね――これなら、予定通りの時間に到着できるかもしれない。教官の言っていた通り、それこそ馬車よりも早いかもしれないわ。今の勢いなら……三十分は早く着くかもね」
「そいつは結構だな。流石インテリだ、ワカってる」
「その呼び方はよして頂戴」
エリカの態度は変わらずクールだったが、以前のような刺々しさは見られない。周りとの関係も徐々に改善してきており、それに対してアイリスとカレンは安心感を覚えていた。エリカ自身の兵士としての素質は十分であり、周囲に対しての振る舞い、人当たりの問題さえどうにかなれば、彼女は全員のリーダーとしての期待を集めるであろうとアイリスは思っていたし、事実そのようになりつつあった。当初抱かれていた反感は敬意に転じ、優秀で冷静なエリカを慕う者は徐々に増えつつある。
「入隊して二十日……か。何だか、ずっと前からここにいたみたいに感じる」
アイリスがそう呟くと、カレンとアイリスは目を細めて何度か頷きを返した。
「ああ、そうかもしれねえ……シャバに居たときと比べて、一日が濃く感じるんだ。びっくりするくらいあれこれあって、気がついたらカラダが馴染んでやがった。決めごとだらけで訳わかんねえところだし、教官殿の一発は痛ェが……嫌いじゃない」
「私もよ。話に聞いていたのとはそう変わらないけれど、自分で飛び込んでみたら、どれだけ大変なところかはよく分かったわ。祖国を守り、祖国のために戦う――その意味を、頭じゃなくって体が理解した気がする。どれだけ大変か、自分でやってみて気がついた」
エリカが小さく息を吐いて空を見上げると、その背中をカレンの手がぽんと叩いた。
「何だ、辛かったのかよ? アタシには余裕そうに見えてたぜ。どれだけ走らされても息も上げねえ――最初に見たときはたまげたぜ、インテリ? よく出来た魔導人形か何かだと思ったぐらいだ」
「失礼ね。貴女たちと同じ人間よ――多少ばかり鍛えていただけで、何も変わらないわ。辛かったのは同じよ、ただ――」
エリカはそこで一旦言葉を切り、微笑みを浮かべて続けた。
「――将校の娘として誰にも負けたくないと思っていたから、ずっと辛さを隠してきたのかもしれないわ。周りがどれだけ辛そうにしていても、自分だけはそれではいけない――軍人の家に生まれついたからには、誰よりも強くあらねばならない……そう思っていたから、ずっと貴女たちと距離を置いて、自分一人で強くあろうとしたのかもね」
「……ンだよ、そりゃ。ツマんねェ意地張りやがって」
「そうね、つまらない意地だった。それに二十日も掛かって、おまけに貴女みたいな人に気付かされるなんて、入隊当初の私が見たら笑うわ」
「そうそう……ってどういう意味だオイ! それじゃまるでアタシがバカみたいじゃないか」
「誰もそこまでは言っていないわ。ただ、考え方が少し直線的なだけ」
「バカって言われるよりムカつくぜ、それ……まあいいけどよ、実際バカだし。お嬢もインテリも横になれよ、三十分だが、昼寝すりゃ楽になるぜ」
「じゃあ、遠慮なく」
エリカがカレンの隣に身を横たえると、アイリスもそれにならって横になった。森を吹き抜けていく穏やかな風を浴びながら、少女たちは一時の安息に身を委ねていった。