第14話 変化の予兆
軍隊における訓練の基本が何であるかと問われたとき、それに対する答えは概ね二つに分かれる。己が手にする武器――白兵を主とする者であるならば刀槍の類、戦列歩兵ならばマスケット銃の修練こそが肝要であると答える者がいる一方、軍隊において最も重要視される訓練は「走ること」であると答える者もいる。
現状、ヴェーザー王国陸軍女子騎兵学校に集った四十八名のユニコーン騎兵候補生たちにとっての最重点の訓練といえば、教官の命令に従って走り続けることであった。楕円形のグラウンドを延々と走り続け、心臓が破れる寸前まで徹底的に身体を追い込む。
入隊して十日目の朝も、少女たちはひたすらに走り続けていた。その後ろでは棒を手にした教官のベアトリクスが睨みを効かせ、少しでもペースを落とせば容赦のない殴打を背中に加えてくる。最初は息を切らして殴られ続けるばかりであった少女たちであったが、一週間を過ぎた時点で、ただ殴打を受けるばかりではなくなりつつあった。
未だに過酷でついていくのがやっとという訓練ではある――しかし、その過酷さにも、既に一部の訓練生が順応しつつあることにベアトリクスは気付いていた。元より優れた素質を示しており、他とは明白な違いを見せていたエリカはともかくとして、その他にも数名、教官として目に留まる者たちがいた。
(エリカ・シュミットはもちろん優れているが……曲がりなりにもそいつに追いつこうとしているあの二人も、それなりのものになる可能性はある。世間知らずのお嬢様と荒くれ者のチンピラ女かと思っていたが……)
練兵場の中央に立ち、時々訓練生のもとに走り寄って彼女たちを棒で殴りながらも、ベアトリクスは先頭近くを行く三人に視線をやった。涼しい顔で走り続けるエリカに、残りの二人が必死の表情を浮かべて追いつこうとしている。何があったのかをベアトリクスは詳しくは知らない――だが、エリカの周囲に対する態度が少しばかり変わったことには気付いていた。決して馴れ合おうとはしないが、これまでのように露骨に見下し、無視するようなことはなくなっていた。少なくとも同じ部隊の槍仲間――アイリスとカレンについての態度は柔らかなものになっていた。
だが、訓練における苛烈な在り方そのものに大きな変化はない。少しの間アイリスとカレンは粘っていたが、エリカのスピードについていけず少しずつ後れていく。ベアトリクスは少しばかり考え、集団の最後尾から抜けてアイリスとカレンのもとに猛然とダッシュし、彼女たちを横合いから棒で殴りつけた。
「薄汚いヒキガエル共め、馬車の車輪に轢き潰されたような有様だな! この程度の訓練でヒイヒイ言いやがって、やる気があるのか! シュミットから後れているぞ! さっさと追いつかないと、チャカで貴様の脳天に××××穴を増設して売春宿に売り飛ばして、脳ミソに直接客を取らせてやる! それが嫌なら走れクズども!」
アイリスとカレンはぎょっとした表情を浮かべたが、すぐにしゃんと背筋を伸ばしてベアトリクスに敬礼した。
「マム・イエス・マム!」
半ば反射的にペースを上げ、二人はエリカのもとに追いついた。たった十日ではあるが、振るわれる一撃とそれに伴う痛みは、ほぼ全ての訓練生に対して驚異的と言って差し支えない効力を発揮していた。余計な思考を全て止め、命令に忠実に従うキリングマシーンとして生まれ変わる――まだその域には達していないものの、命令に対して反射的に動くような性質は、既に少女たちの中に生まれつつあった。
罵倒と暴力による条件付け――それは洗脳以外の何物でもなく、人間としての尊厳を著しく踏みにじるものではあったものの、兵士として人間を作り変える上では必要なプロセスの一つであり、同時にもっとも簡単かつ確実な方法といえる。
もっとも、この場においてそれを理解しているのは、武門の貴族に生まれたアイリスと、平民ながら軍人の娘として生を受けたエリカ――ともに幼少期から軍事教育を受け、軍隊の性質というものについて知識を持っている二人だけだった。
ベアトリクスも、教官としてその点は認識していた。軍隊とは国家の暴力装置であると同時に、秩序だった集団である。もとより、アイリスとエリカの二人はペーパーテストの成績は最上位に近かった。入校時の成績で言うならば、二人は五指に入る実力者であった。
ベアトリクスはエリカとアイリスを暫し見つめていたが、その隣を走るカレンにも視線を向けた。ペーパーテストの点数は合格スレスレに近い――だが、入隊試験の運動能力テストで見せた瞬発力と格闘の技量だけは、どの訓練生でも及ばないほどのものを持ち合わせていた。アイリスのように刀剣の扱いに長けているわけではないし、エリカのように兵士として全体的に優れた素質を持つわけでもない――二人を磨き抜かれた宝剣とするならば、カレンは武骨一点張りの剛剣と呼ぶのが相応しい。
(ブレイザーとシュミットの二人は、恐らく軍という環境に順応しながら、ぶれることなく戦い抜ける。あとは、このチンピラ……ザウアーだけだ。ガッツと格闘術のセンスは最高だし、仲間思いなのも及第点――だが、どこまで軍隊のやり方に馴染めるか……だ)
隊列の先頭に立ち、早いペースを保って走り続けるエリカにどうにか追随しているだけで今のところは十分――問題は、組織への順応性だけだ。入校前の面接で問うたいくつかの質問で、カレンが直情的な性格の持ち主であることは明らかになっているし、権力を傘に理不尽な取扱いをすればそれに反発するであろうことも予想されていた。
現状、軍がカレン・ザウアーという少女を飼い慣らせているのは、訓練という名目があるからに他ならない。もし「仲間を見捨てて撤退せよ」であるとか「救助を求める民間人を無視しろ」といった命令が下された場合、カレンがそれに対して従わない可能性があるということをベアトリクスは承知していた。
上からのいかなる命令に対しても、兵士が絶対の服従とともにそれを実行することで、軍という組織は成り立っている。戦場においても一定の規範――ヴェーザー王国をはじめとした大陸諸国の間にも、明文化されてはいないものの慣習的な戦時国際法が存在し、非戦闘員の保護はその中でも最重要の項目と位置づけられてはいるが、必ずしもそれが守られてきたわけではなかった。
直近にヴェーザー王国の隣国で起きた戦争――施政権と経済的権益を独占していたアルタヴァ王家と貴族に対して、共和主義と自由経済を求める民衆が反旗を翻して王政の打倒を試み、アルタヴァ王家を支援する目的で周辺諸国がこれに介入した「革命戦争」においても、非戦闘員の虐殺や無秩序な収奪は行われてきた。
略奪は半ば兵士の権利として認められ、王家を支援して革命軍に刃を向けた諸侯の領地に住んでいた者たちには、地獄の炎にも等しい苦難が降りかかる事となった。王党派に属して抗戦を選んだ庶民のみならず、ただその領地を統治する貴族が王家の熱心な支持者であったというそれだけのことで、たとえ民間人であろうとも容赦なく弾圧を受け、ことごとくが処刑されることとなった。
そのような場面においてこそ、軍人は自らの責務として民間人を守らなければならない――だが、その当たり前の責務が無視されるのが戦場における現実であり、避難民を捨てて離脱せよとの命令が、ヴェーザー王国軍において下されたこともある。直情的で乱暴ではあるが情に厚いカレンは、間違いなくそうした命令を拒絶するだろうとベアトリクスは考えていた。人間としては間違っていない――だが、理不尽な命令に対して露骨に反発するかもし、それを無視しかねないという一点において、カレン・ザウアーには軍という組織に属する上での問題点があったが、それでもベアトリクスはカレンを高く評価していた。
(本来ならば切り捨てるところだが……見方を変えれば、それも将器ではある。極限状態にあって、理不尽を跳ね返す意志の力を持つ者はそう多くはない。扱いさえ間違えなければ、ブレイザーやシュミットに劣らない、本物の軍人として大成するはずだ。ユニコーン隊の精鋭を率いるに値する)
練兵場の中央に戻り、ベアトリクスは走り続ける少女たちを眺めた。どの訓練生にも優れた点は存在する。だが、一際強い輝きを感じるのは先頭集団を走る三人だった。人格や出自はそれぞれ尖っており、はっきり言っていびつな人材ではある――だが、新設される部隊の指揮官が「常識的」であっては困る。戦場に新たな光明をもたらす者たちを率いる将ならば、型破りであることは決してマイナスにはならない。
先頭を走っていたエリカのペースが少しずつ落ち始めたところで、ベアトリクスは棒で地面を叩いて号令を発した。
「喜べクソブスの雌フンコロガシ共! あと五周でランニングを終了とする! 五分間の小休止の後、三人一組で格闘訓練を行う――今回は試合形式ではなく打撃訓練だ。慎重かつ大胆にやれ、売春宿で客を取るときのように! 格闘訓練が終わったら、貴様らに一つ通達事項がある――ケツと××××、ついでに耳をかっぽじってよく聞け!」
『マム・イエス・マム!』
少女たちが一斉に返事を返す。やっと返事が揃うようになってきたことにベアトリクスは一人、満足げに頷いた。
「――しっかり腰を落とせ! そうだ、貴様がベッドで知らない男を相手にするようにだ! それから、力いっぱい拳を突き出せ――何だそのストレートは! ジジイのファックでももう少し勢いがあるぞ! やり直しだ雌豚!」
「――マム・イエス・マム!」
練兵場の一角――複数の麦藁を巻いて作った人形に麻袋を被せたものを、少女たちは一心不乱に殴り、蹴りつけていた。基本的な打撃戦闘の型を学び初めて数日経つが、行動訓練で身につけた基本動作のように速やかに習熟することはなく、少女たちはいずれも慣れない体捌きで藁人形を殴っていた。アイリスもその中の一人で、藁人形を殴る度に痛そうに手を押さえていたが、横合いからすっとカレンが割って入った。
「違うんだよ、お嬢――骨で衝撃を打ち込むやり方じゃ、力を入れたら痛いだけだ。思いっきりぶん殴るのなら――」
ぐい、と体を半回転させ、カレンはすっと目を細めた。次の瞬間には緩やかに右の拳が唸りを上げて風を斬り裂き、半ば破裂音に近いものを響かせて藁人形に突き刺さっていた。芯材に固く麦藁を巻き付けたものが一瞬、中程から折れ曲がったようにアイリスには見えた。
「……こうやるのさ。勢いをそのまま表面に叩きつけるんじゃなくて、内側に浸透させてブチ抜くんだ。ムカつくやつの顔を頭ンなかに思い浮かべてな。まあ、いきなりやれって言われてもできねえだろうが、まあ参考程度に、な」
「わ……わかった、どうにか試してみる」
凄まじい一撃を前にアイリスは目を丸くし、それを見ていたエリカはふと真剣な表情を浮かべて、カレンに問いを投げた。
「カレン・ザウアー……一つ利きたいのだけど、貴女の特技は、それ?」
「まあそうだが、ンだよ」
「……いえ。聞いてみただけよ」
「そうかよ――インテリ、お前もやってみな」
カレンに勧められるままに、エリカは藁人形に拳を打ち込んだ。カレンほどの激しさはないが、重い一撃ではあった。
「やるねインテリ――脳ミソばっかりじゃないってことか」
「そうね。体もそれなりに鍛えていたから――ところで、貴女はどこでそんな技を……」
身につけたの、とエリカが問いかけようとしたところで、訓練を監督していたベアトリクスが全員に声を掛けた。
「そこまで! 総員傾注――これより、貴様らに新しい訓練の内容を通達する!」
「……!」
少女たちの間に緊張が走る。これまでの十日間は、ただひたすらに走り、基本動作を練習し、教本の内容を詰め込む――そればかりであった。訓練に何らかの変化が起きるという通達は、少女たちの心を沸き立たせた。
「訓練内容は野外での生存及び戦闘訓練であり、王都郊外の訓練施設で二週間を予定している。なお、訓練開始は十日後とする! 貴様らウジ虫共を騎兵に改造するにあたって、心強い味方であり、教師でもある人物が名乗りを上げてくれることとなっている――各員、靴と××××だけはしっかり磨いておけ!」
『マム・イエス・マム!』
入校から十日間、少女たちは騎兵学校の敷地から出ることも叶わなかった。たとえその先に地獄のような訓練が待っていたとしても、外に出られることそのものを、少女たちはある種の喜びとして捉えていた。その喜色を感じ取ったのか、ベアトリクスはにやりと笑って彼女たちに声を掛けた。
「せいぜい楽しみにしておけ! 十日後には笑うこともできなくなる――では、連絡はここまでだ! 定刻までに講堂へ集合せよ――一旦解散!」
背筋を伸ばして敬礼し、少女たちは講堂へと駆け足で向かって行く。その足取りは、どこか軽やかなものであった。