第13話 殴打
――その事件は、ある意味において必然だったのかもしれない。
これまで何不自由なく暮らしてきた少女たちが、自ら望んだこととはいえ突如として軍隊という過酷な環境に放り込まれ、人道もなにもあったのものではない苛烈な訓練の日々を過ごしていれば、精神に大なり小なりの歪みを生じるのは道理である。
そして、行き場のない歪みは物理的な暴力、あるいは社会的疎外という形になって発露する。他人を虐げることで自らの内側の歪みを解放する――悪癖ではあるものの、それは人間としてありがちな行為であった。
その矛先が向いたのは、ヴェーザー王国陸軍女子騎兵学校の主席入校者であるエリカ・シュミットであった。もとより優秀であるために――単に優秀という言葉で片付けるには惜しいほどに、彼女の兵士としての適性は高かった。それ故によく目立ち、彼女は周囲の目を引きつけることとなった。
ただそれだけならよい――問題は、エリカ・シュミットという一人の少女自身の性格的な部分にこそあった。常に冷静で論理的ではあるが、他者に対する冷淡さが際立ち、自身の能力を基準としてそれ以下の者を徹底的に見下す悪癖が、彼女に対する反発を招いた。
その反意のほとんどは嫉妬混じりのものであったかもしれない。入校して一週間――彼女は、常にその優秀さを周囲に見せつけてきた。訓練の過酷さに耐えきれず後れるといったことはただの一度もなく、座学においても常に完璧な答えを導き出す。青息吐息の状態で日々を過ごしている少女たちにとって、その姿は眩しいものであると同時に、とてつもなく目障りに感じられるものだった。
だからこそ、エリカは少女たちの行き場のない歪みの対象となった。優秀でありながら周りを顧みず、自分たちが血を吐く思いで達成した目標の遥か上を行く――そのような存在を、少女たちの感情は看過しなかった。反感と嫉妬が敬意に先立ち、感情は嵐となって物理的暴力に転化する。
騎兵学校の大浴場は、その感情の発露の場となった。大浴場に入ったエリカを襲ったのは、横合いから打ち込まれた重い一撃――網袋に入った石鹸による痛烈な殴打だった。その性質は、ブラックジャック――革袋に砂を詰めた棍棒のそれに近い。石鹸は適度な硬さを保ち、鈍器として十分な威力を有しながらも、人体に接触した際に変形して外傷を残さない。それは同時に、ほぼ全ての打撃力が体内に浸透するということに等しい。
「がっ……!」
容赦なく腹を殴られたエリカは、たまらずその場に膝をついた。何事か、と顔を上げた瞬間、彼女は自らが見下していたはずの訓練生たちに後ろから髪を掴まれ、浴場の濡れた床を引きずられていき、そのまま壁際に立たされた。その周りには、エリカの態度を快く思わない数人の少女たちの姿があった。実際に暴力に加担するのはごく一部――エリカに反感を抱きながらも積極的な暴力に加わろうとしない者たちは、薄笑いを浮かべてその様子を眺めている。それ以外の者は、関わり合いになることを嫌がって目を背けるか、冷ややかな視線を向けるばかりだった。
エリカは壁際に追い込まれながらも、緑の瞳を光らせて自分の周りを囲む少女たちを睨みつけ、反撃に転じようと手を伸ばした――しかし、横合いから伸びた手がエリカの腕を掴むと、細長く畳んだタオルでもって彼女の両手首を素早く拘束した。その動作には何の迷いもなく、事前に打ち合わせされていたことが十分に伺えた。
「……卑怯者!」
ぎり、と歯を噛み締めてエリカは十人ばかりの少女たちを睨みつけ、正面に立っていた一人を蹴りつけようとした。だが、それより先に振るわれた一撃――網袋に入った石鹸がエリカの脇腹を容赦なく打つと、彼女は表情を苦痛に歪めた。少女たちは、自分が卑怯者であることなど重々承知している――だがそれは暴力を止める理由にはならない。
「許さない……教官が知ったら、こんなこと――」
荒い息を吐きながらも、エリカは少女たちをじっと睨みつけた。だが、その周りを囲んでいた者たちは彼女の反抗をせせら笑った。
「知ったら何? 証拠でもあるの?」
「周りを顧みない態度でいたら殴られました、って言うつもり? 随分と偉そうだこと――何様だよ、あんた」
網袋に詰められた石鹸が風を切り、次の瞬間には骨と肉を打つ音が浴場に響く。それが何度か繰り返されると、壁際に立っていたエリカの頬に涙が伝った。だが、少女たちは何の容赦もなく、エリカを石鹸で殴り続けた。
傷が残りやすい顔面は狙わない――腹や太腿といった部分ばかりを狙い、執拗に殴りつける。十代の少女の細腕でも、袋をしならせて勢いをつければ、相当な痛みを相手に与えることができ、なおかつ傷跡を残すことはない。隠微なリンチにはうってつけの武器であった。
執拗な殴打を受けたエリカがうなだれて黙り込むと、少女たちは一度強く彼女を殴りつけて、壁際に乱暴に投げ出した。兵士としての訓練を受けたのは僅か一週間――だが、その一週間は、少女たちの精神に不可逆的な変化をもたらしていた。
体力の限界を試される過酷な訓練の連続、そして絶え間なく繰り出される罵倒と暴力の嵐――それらは、少女たちから暴力への抵抗感を確実に奪っていた。ランニングで後れれば苛烈な罵倒と殴打を受け、格闘訓練では眼前の相手を腕力で圧倒することを求められ、座学においても祖国の敵対者に対し、殺意を持って暴力を行使することを植え付けられる。
そのような状況に置かれた者が特定の相手に対して反感を抱き、その感情が周囲と共有されるものとなったとき、集団的な暴力と疎外は簡単に生じる。対象者が他者と違う特徴を――この場合は、過酷な訓練を平然と乗り越える力を持っていたときは、その暴力性の発露はより一層過激なものとなる。十代半ばの精神の未熟さを持ったまま、戦闘に適した人格改造を急速に受けた結果に生まれる必然的歪み――それが、エリカに向けられた暴力の正体だった。
「……無視してどうにかなると思ってんの?」
桶に汲まれた冷水が容赦なくエリカの顔面に浴びせられ、両手を縛られた彼女はまともにそれを吸い込んでむせた。鼻から入った水にむせる声が涙を流しての嗚咽と入り混じり、それは浴場に響いた。一度ではない――二度、三度と容赦なく顔面から冷水を浴び、エリカが何の反応も示さなくなったところで、少女たちの暴力は終わりを迎えた。
手早く湯を浴びた少女たちが浴場を後にする中、エリカの槍仲間であるアイリスとカレンは、その場から動けずに居た。カレンは関わり合いになることを嫌って傍観者に徹していたが、アイリスはそれに耐えきれなくなりつつあった。もとより、彼女はエリカのことをそれほど悪く思っているわけではない。確かに冷たい人物ではある。だが、そこを乗り越えさえすれば、彼女は武人として敬意をもって接するべき人物たり得ると彼女は思っていた。
また、アイリスが静観に耐えられなくなった理由はそればかりではない。自らに対して容赦のない暴力を行使した少女たちにたいして、エリカは「卑怯者」と言葉を投げつけた。多勢で陰湿なリンチを加えたことに対する反発もあっただろう――だがその一言は、同じ部隊の仲間でありながら、関わることを嫌って助けようとしなかった者にも向けられているようにアイリスは感じていた。
(……確かに、私には勇気がなかった)
ふう、と小さく息を吐いて湯船から上がり、アイリスは壁際に座り込んでいたエリカのもとに歩み寄った。近くにいたカレンはおい、と言葉を掛けて右手を伸ばしたが、その指先は虚空をさまようばかりだった。俯いたまま顔を上げようとしないエリカの手首からタオルを解くと、アイリスはそっと手を差し伸べた。
「……まだ少しだけ、入浴時間は残ってるから。私たちしかいないから、ゆっくり話しましょう?」
「……」
答えは沈黙だった。エリカは右手で目元を拭うと、緑の瞳をすっと細めてアイリスの手を振りほどこうとした。だが、アイリスはその手を強く握って離さなかった。ここで手を離せば、自分はもう軍人では居られなくなる。その思いが、彼女に手を離させなかった。アイリスは真っ直ぐにエリカの目を見つめ、穏やかな口調で彼女に語りかけた。
「……エリカ。貴女はきっと――間違ってない。軍人の家に生まれた貴女からしてみれば、私たちは足を引っ張るだけの存在かもしれないし、それを誤魔化すためにチームワークなんて言葉を持ち出したって指摘も、多分半分は事実だと思う」
「……」
「甘い気持ちで軍に入ったわけじゃないって自分では思っていても、行動がそれに追いつかなければ何の意味もない。貴女が教えてくれなかったら、私はずっと勘違いしたままだったかもしれない。私が保証する――エリカの言ってることは、絶対正しい」
数秒の沈黙の後、エリカは緑の瞳に刃の先のような光を宿して彼女に問うた。
「なら――何故受け入れないの?」
アイリスは少し考えてから答えようとしたが、カレンがそれに先んじた。どこか憂いを帯びたような表情を浮かべて一瞬だけエリカに視線を合わせ――それから、ふっと横を向いて彼女は口を開いた。
「半分は嫉妬だろうさ――気持ち悪いくらい完璧で、見ているだけで頭がおかしくなりそうなくらいさ。アタシだって、そうかもしれねえ。あとの半分は……多分、接し方だな。単純な正しさだけじゃ、前には進めないようにできてんのさ。嬉しいとかムカつくとか、もっと乱暴で曖昧な基準で物事を決めてるのが大半だ。みんながみんな、お前みたいに頭の良い判断をできるわけじゃない。つまりはだな――」
ざば、と湯を蹴立ててカレンは湯から上がり、ぽんとエリカの背中を叩いた。
「テメェは考えすぎなんだよ、インテリ。無理して周りに合わせろとも言わねえし、アタシみたいな無学者のマネをしろとも言わねぇからさ――もっと、肩の力を抜いて生きてみな。何もいきなり将軍をやらなきゃいけないわけじゃない、今は訓練生の身分なんだ、悩んで、間違える時間はたっぷりあると思うぜ」
――長い沈黙があった。それは実質、僅か数分であったかもしれない。だが、その場に居た三人にとっては、数時間にも等しいものと感じられた。エリカはふっと表情を緩めて正面に居たアイリスとカレンを見つめると、深々と頭を下げてその場から急ぎ足で立ち去っていった。その背中には惑いは感じられない。アイリスはそれを見届けてから、隣にいたカレンに問いを投げた。カレンは半ば呆れたような――だが、どこか満足げな表情を浮かべたままで、その場に立っていた。
「……どういう風の吹き回し? 関与したくないって言ってたのに」
「何ていうかさ――ちょっとだけ刺さったんだ、あいつの言葉が。直接アタシに向けて言ったわけじゃないんだろうけどさ――そうだな、多分『卑怯者』になりたくなかったんだ」
「……そっか。なら、大丈夫だね」
湯から上がったアイリスは、ぐいと大きく腕を伸ばして隣にいたカレンに微笑みかけた。
「入校して一週間、辛いことばかりだけど……何とか乗り越えられそう。一人じゃ無理だけど――」
「アタシたち『三人』だったら……ってやつか?」
「当たり。行こうか――戦友が待ってる」
視線を交わし、アイリスとカレンは浴場を出て歩き始めた。その足取りには、もう一欠片の迷いも見られなかった。