第130話 塁壁
草木も眠る丑三つ時――少女たちは、静かに行動に移っていた。眼前にそびえ立つ巨大要塞――革命さえ起きなければ遺跡となっていただろう長大な防壁のもとに、ナイフを手にして忍び寄っていた。連絡役を務めるエリカとユイを残して四人――いずれも戦技に自信を持つ者ばかりであるが、その目的は攻撃ではない。闇夜に乗じた偵察行動である。
もとより、彼女らは要塞線を完全に破砕しようなどとは考えていない。その隙間を縫って自国に戻りたいというそれだけのことである。恭順の意を示している旧貴族派のグリフォン部隊とともにヴェーザー王国へ帰還し、亡命と引き換えに情報を引き出し、戦争の趨勢を決定的なものとする――それを達成するためには、まず彼女ら自身が生きて帰らなければならない。
「……どうだ、何か見えるか? 上空を抜けられるならやりやすいが」
カレンの問いかけに、テレサは首を振って答えた。
「あいつは……防空監視塔だな。上空を飛んで行ったら一発だ。大方、対空魔道士があそこに詰めてやがるだろうから、私たちを乗せてグリフォンで越境したらオダブツ間違いなしってところだ。やめといて正解だった」
「おっかねェな。空中で黒コゲなんてのはご遠慮願いてえぜ――だったら、どうするよ? 監視塔を爆破しちまえば、どうにかなるってことだよな?」
「まあ、乱暴に言えばそうなる。ブッ壊すのは得意だから、崩せと言われればやってみせるが……警備されてりゃ、そいつも無理だ」
そびえ立つ監視塔に視線を向けながら、テレサは小声で続けた。
「……クソッタレなことに、粗末な○○○が四本もおっ立ってやがる。あれを全部ブッ潰して不能にしてやるのが一番いいが……つま先で蹴るようにはいかないだろう。塔を破壊するのは諦めて、何か他のやり方でいくしかない。例えば……そうだな、塔なんてどうでもいいと思えるような騒ぎを地上で起こせば、相手の意識はそちらに向く」
「……例えば、どんな作戦なんだい」
オリヴィアが興味深げに視線を向けると、テレサはアイリスの背中をぽんと叩くと、あっけらかんとした態度で答えた。
「それはここのお嬢が考えるこった。私はとりあえず爆破したり、木槌でぶっ叩いたりして何だろうと破壊する。何を破壊するかは指揮官に任せるさ」
身勝手にも聞こえるその言葉に、アイリスは苦笑とともに答えた。長らく実戦を経験していない歴史の遺物であり、かつては友好国同士であったという歴史がある以上、彼女にしてみれば突破は不可能というわけではなく、その方策もまた考えていた。だからこそ自ら偵察に志願した。
「だろうと思った。けど、方法はある。つまりは、防空監視以上に注目せずにはいられない大目標をひとつ、相手に見せてやればいい。そういうことでしょう? なら可能よ――要塞にとって最重要だけど、司令部区画からは離しておきたい場所を狙えばいい」
「……というと?」
「敵を奇襲して、弾薬庫を爆破する。これだけ長大な要塞線なら、あちこちに分散配置してると思うけれど、どこか一箇所に突破攻撃を加えれば、他も警戒せざるを得ない。地上に目が向いている間にグリフォン隊が上を抜けて国境を超えるから、私たちは敵の防御を内側から突き破ってヴェーザー王国に帰還する」
考えうる中でも最も乱暴な――だが、効果的な作戦であった。要塞線は基本的に裏側からの攻勢に対応できるようになっていない。特にそれが長大なものになればなるほど、片側からの防備に適応した施設構築を行わなければ、まともに維持することも困難となる。
平野部に小規模な火点として防御拠点を構築するのであれば、全方位に対しての防御を施すことも有効ではある。だが、敵の進行経路を遮断する、あるいは迂回を強要するために設置される「壁」には、一方向に対する防御以外を求めることはできない。
それを知っているからこそ、第七分隊は迅速に偵察に移った。最も「薄い」部分を探り当てて突破口を開き、内側から突き破るように脱出する。もちろん、通常の兵員では困難である。彼女らが幻獣を預かる精鋭であるからこその芸当であった。
「可能な限り、航空隊とのタイムラグは無くしたい。爆破とほぼ同じタイミングで上空を抜けてもらう。同時に……私たちが、地上を徹底的に荒らす。二面攻勢でいこう。テレサ、前の作戦で使った焼夷油、まだある?」
「ああ、まだ少しだけ残ってる」
「なら、それを本命とは別の場所で使って。狙いがどこにあるのか分からないように、一旦攪乱してから弾薬庫を吹き飛ばす。同時に全部隊で突破攻勢。厳しい戦いになるけれど、私たちにはそれ以外の方法はない。ここで抜けられなかったら、全員死ぬ」
これまでもそうだった、とアイリスは思い返した。与えられた力が大きかったから、どうにかやってこれた。だが一つとして「当たり前」の勝利などない。本当の紙一重――敵を懐柔して国内に亡命させたことも、決して当たり前に出来たわけではない。一歩間違えば、あるいはほんの少し運が悪ければ、それだけで死んでいた。
「……帰還の命令が出たってことは、アタシらは一旦撤収ってことでいいのか」
「そうだといいけれど……ここまで便利に使っておいて、そうとは言い切れない。また再招集が掛かるよ、きっと」
顔を見合わせるカレンとオリヴィアの表情には、帰国を前にした喜びよりも、強い疲労の色が滲んでいた。休暇は短く、任務は極めて危険――そうと知って入隊の日を迎えはしたが、戦争の労苦は彼女らの予想を遥かに超えていた。
「……陳情が必要かもね。やり方は考えておく」
アイリスがそう呟くと、二人は唇の端を歪めて笑った。大丈夫だ、まだやれる――そう訴えかける視線を受け止めると、アイリスは手にしていた紙に素早く偵察情報を書き込み、それを丁寧に軍服のポケットに収めた。
「……行くよ、見るべきところはもう十分――」
そこまで言って、彼女は言葉を詰まらせ――それから、腰に提げていたナイフの鞘を払った。視線の先には、ランタンを手にした二人組の歩哨の姿がある。これから彼女らが出ていこうという裏道に立ち、油断なく視線を巡らせている。四人は塀の上からそれを見下ろし、静かに息を殺す。
「……カレン」
「……分かってる」
その一言で十分であった。カレンはふっと息を吐き――それから、両の手を軽く開いて身構えると、さながら猫のように音もなく闇夜を駆け、彼らの直上に達した瞬間、空中でナイフを抜いて飛び降りた。
「!?」
反応する間も与えない。落下の勢いを乗せた斬撃で一人の頸動脈を一文字に断ち切り、声を上げることも許さず喉を切り裂く。続く一閃は二人目が動き始めるよりも疾く、深々と喉笛に切っ先を突き込んでいた。無音殺傷術――街角でナイフを使う技は、彼女にとって最も慣れ親しんだ戦闘技術である。自分が刃を振るうにしろ、相手の刃を捌くにしろ、彼女にとってそれは呼吸と同じく、生きるための反射に近い行動である。
軽くナイフを振ってクリア、と伝える。それを見た他の三人は素早く塀から跳び、カレンの背中を追った。猫のようにしなやかに、というわけにはいかないものの、闇夜を静かに走り抜ける。
(紙一重、本当に紙一重――)
心臓の音が敵に聞こえるのではないか、という錯覚に襲われながらも、アイリスの思考は冷たく冷えていた。偵察情報は全て頭に入っている。戦場を支配する要素の半分は「運」であるとアイリスは考えていたが、彼女の脳裏には、すでにもう半分の要素――「事実」が積み上げられていた。