第129話 生存への転進
「おい、マジでついてきたぞあいつら……後ろからかっ飛んで来ないだろうな?」
カレンは背後を振り返り、小銃を手にしたまま頭上を舞う一団に視線を向けた。アイリスによる降伏の提案――それは奇妙なほどあっさりと受け入れられた。
監視者を務める政治将校が射殺された今となっては、彼らに帰る場所はもはや存在しない。帰還したところで新たな任務に投入されてすり潰されるならば、作戦行動中行方不明として第七分隊と行動を共にするべきであるとの判断があった。
それはブレイザー男爵家の築いてきた国際的信頼によるものであると同時に、共和国軍に対する不信感によるところが大きかった。皮肉ではあるが、アイリスの言葉は航空兵らにとって、共和国軍司令部の発する命令――彼らはそれについて何ら忠誠心を抱いていないが――以上の効力を発揮するには十分であった。
歴史の浅い共和国の命令以上に、貴族としての誓約が政治的価値を発揮した。それを目の当たりにしたエリカは、ふっと息を吐いて目を閉じた。彼女は貴族ではないが、貴族の言葉が、当事者同士でどれだけの重さを持つかは政治知識の一つとして理解している。
「大丈夫でしょう。アイリスを裏切れば、彼らは最後に縋る綱を自らの剣でもって断つことになる。その選択はできないし、何より――私は、貴族の誇りを信じているわ」
「……だといいがな。後ろでオリヴィアが構えてるとはいえ、頭の上を飛ばれてると思うと落ち着かねェもんだぜ。けど……お嬢が言うなら、間違いはねえか」
握りしめたままだった小銃から手を離してホルダーに預け、カレンは小さく首を振って視線を前に向けた。彼女の視線の先には、しゃんと背筋を伸ばして行軍を続けるアイリスの姿がある。
権謀術数に長け、王都で安楽椅子に身を預けて状況を動かすことを良しとする政治家としての貴族が口にしたのであれば、その言葉は届かなかった。だが、ブレイザー男爵家は政界との結びつきはそれほど強いわけではない。
彼らの心を打ったのは、むしろ軍人貴族として――それも国軍に取り入るのではなく、古色蒼然たる騎士団を時代の流れの中でも維持し続けた歴史的経緯に基づいた言葉である。アイリスが単なる軍人であったならば、同じ貴族であっても容赦なく撃墜していたであろう――が、貴族同士の戦いにおいては、相手の命を奪うことにさほど大きな意味を見出さない。結果として殺してしまったならともかくとして、一時の屈服と、その後の解放による名誉の回復が戦いの中に組み込まれている。
「……定期報告を送るわ。航空兵を捕虜に取ったなんて状況、どう説明すればいいのか分からないけれど」
エリカはそう言って、胸に下げていた結晶体を軽く握りしめた。魔力の光が薄っすらと浮かび上がると、彼女は結晶体に向かって呼びかけた。
「こちら第七、定時報告――聞こえますか」
『……聞こえますとも、ご機嫌いかがかしら雌犬ビッチさんたち?』
彼女の呼び掛けに応じたのは、指令所に詰めていたリーアであった。エリカは僅かに間を置いて考えを整理してから、小さく息を吸い込んで報告を上げた。
「……現状、死者負傷者ともにありません。集積拠点を一箇所襲撃、放火の後離脱しました」
『結構ですこと。他に何か?』
「敵兵の捕虜を一個分隊確保しています。兵種は航空兵――グリフォン騎兵です」
『……何ですって? グリフォン騎兵を捕虜に――説明なさいな、分隊長』
リーアの声には、隠しきれない動揺があった。何らかの情報源として捕虜を得ることそのものは良い。だが、それが航空兵とあっては事情が変わる。偵察の中核であり、戦力の大部分が士官で構成される部隊である以上、それを捕虜とすることには重大な戦略的意義が存在する。
「降下してきた敵部隊は旧貴族で構成される懲罰部隊であり、先導していた政治将校二名を撃墜。その後、ブレイザー副隊長が彼らを説得、降伏せしめました。男爵家の名を出したところ、反抗の意図を見せず現時点でも我々に帰順しています」
『……それは、グリフォンを維持した状態で?』
「はい。今のところ、攻撃の意図は見えません」
『男爵家の威光――いえ、単純にそうというわけではありませんわね。もっと何か歴史的な要素……半分は家門そのものの信頼、残りの半分は本人のカリスマ……そんなところかしらね? 概ね了解いたしましたわ、脳味噌の足りないアバズレにしては上出来でしてよ。これから新しい命令を下しますわ』
「では、作戦を継続――」
『帰還なさい。貴女がたは重大な機密情報の鍵を手に入れ、なおかつ敵の集積拠点への攻撃を敢行、これを破壊している。その時点で狙われるには十分な要素を有していましてよ』
頭を殴りつけられたような衝撃――だが、いかなる驚愕をもってしてもエリカの判断が鈍ることはない。
「……つまり、情報を保持している可能性があり、なおかつこちらに協力的な捕虜を得ることは、敵地の破壊活動よりも大きな戦術的価値を作戦全体にもたらすと?」
『飲み込みが早くて助かりましてよ。懲罰部隊にどれだけの情報が与えられているかは知りませんけれども、旧貴族派というだけでも利用価値はありましてよ――命懸けで亡命させなさいな。伝手はあるんでしょう?』
「ブレイザー副隊長がどうにかすると」
『なら結構。ヴェーザー王国は士官の亡命者を歓迎します、とお伝えなさい。作戦司令部は宴会の準備をしていると』
「イエス・マム――通信終了します」
『ええ。尻尾を振って足掻きなさい、雌犬さんたち。死ぬんじゃありませんわよ』
握っていた結晶体から魔力の輝きが失せる。緊張から解き放たれたようにエリカは大きく息を吐き出すと、腰に提げていた指揮刀を抜いてサインを送り、部隊の全員を一旦集合させると、ざっと顔を見回して口を開いた。
「……新しい命令が来たわ。第七分隊は敵中間基地の襲撃を中断、敵捕虜を連れて即座にヴェーザー王国領地へ帰投せよ――以上よ」
「……マジか。ずいぶん早いじゃないか」
テレサが大げさに手を広げる。だが、反発の言葉はない。事実、彼女らは長期間の破壊活動を主眼に入れて作戦に投入された。だが、航空隊をまるごと捕虜として手に入れ、亡命による寝返りすら期待できるとなれば、その戦術的価値は計り知れない――その判断が間違いでないことは、彼女ら全員が理解できた。
「けどよ隊長、最短ルートって言ったって、今までに来た道はもう戻れねえぜ? 基地を燃やしちまったからそっちに行けばガンギマリになった敵兵にとっ捕まるだろうし、このまま前に進んだって、国には帰れやしない」
地図を手にしたテレサは、少し困ったような表情でその一点を指さした。
「このまま進んだら敵地の奥深くに入っちまう。かといって戻るわけにもいかない。後ろからアイリスとやりあったマンティコア乗りのイカれ女が来たら、今度こそおしまいだ。となると、少し迂回しながら戻ることになるが……クソの壁がそびえ立ってるぜ、隊長」
同年代の少女と比べれば節くれた太い指が指すのは、国境の平野部を横切るように建てられた要塞線であった。アルタヴァが王政であり、ヴェーザー王国と友好関係を樹立するよりも昔――国境を完全に防護することを最終目的としていたその城壁は建造途中で打ち捨てられ、中途半端な状態で残されている。
いわば歴史の残骸とでも呼ぶべき代物であった――が、共和制が樹立されてから、その戦略的存在意義は極めて重大なものとなった。陸軍予算を吸い尽くして建造された防壁は巨大堅牢を極め、不完全であれども侵攻ルートを限定するという役目を十全に果たしてのけた。
その結果が、ヴェーザー王国を中心とした多国籍介入軍の敗北、潰走である。侵攻経路を限定された部隊に容赦のない火力投射が降り注ぎ、小国、諸侯を多数含んだ多国籍故にまとまりを欠いた部隊はあっさりと殲滅されるに至った。
そして、現在も国境要塞線は強靭な防御拠点として機能している。火砲の発達がもたらした重武装化、介入戦争の戦訓から得られた防御の強化、そして防壁の部分的な拡張――それらの複合的要因は、防御をより一層強靭なものへと変えている。
常識的に考えれば突破など不可能――だが、エリカはにやりと笑ってテレサの疑問に応えた。
「そうよ、クソの壁をぶち破って、敵をブチのめしながら帰るのよ。私たちには幻想種の軍馬と、敵の内情を知っている上空支援部隊――それから、腕利きの戦闘工兵がいる」
「……そりゃクールだ。私に城攻めをしろってか?」
「よく分かってるじゃない。無理なんて言わないわよね?」
――戦士の答えは、既に決まっていた。
「……当たり前だろ。建てるのも得意だけどな、同じくらい壊すのだって得意なんだ――いいさ、やってやるよ。幸いにも後ろからファックするんだ、多少は楽だろうさ!」