第12話 立ち込める暗雲
――事件は、少女たちが入校して一週間後の夕方に起きた。入校からの三日間で基本動作を徹底的に叩き込まれた少女たちが、次の段階へと進もうかという頃合いである。
その日の少女たちは学長からの訓示を控えていたために朝から慌ただしく、起き出すなり早々に戦闘服を着込んで早朝訓練に臨み、それから朝食前に学長訓示を受けた上で普段どおりの戦闘訓練や座学などに邁進していた。忙しいのはこれまでと同じ――ただ、学長訓示というイベントが挟まっただけのことである。
しかし、たった一つの予定の追加でも人間は簡単にミスを犯すように出来ている。特にそれが、軍隊という組織にまだ馴染めないでいる初年度訓練兵であればなおのことである。そして、そのミスの代償を、少女たちは休憩に入った夕方の寝室で目にすることになった。
その光景はあまりにも非常識で、ばかげたものであった。だがそれと同時に、彼女たちがいかなるミスを犯したのかをも明白に示していた。部屋に入ったカレンは眼前の光景に愕然とした表情を浮かべ、ナンセンスだ、と言わんばかりに首を振って、隣にいたアイリスに問いを投げた。
「……なあ、お嬢。これ、何だと思うよ?」
「何って……部屋の三段ベッドが全部横倒しにされてるように、私には見えるんだけど」
「そりゃアタシにだって分かるさ。しかしなんだってこんなことになってんだ、野生のサイクロプスか何かが大暴れしたようにしか見えねえよ」
「……サイクロプス、ねぇ」
少女たちが脳裏に思い描いたのは、片目に眼帯をつけたベアトリクスの姿であった。恐らく昼休憩か何かの間にベッドメイキングのチェックを行い、不十分な者が居た故にこのような暴挙に出たであろうことは概ね想像がついた。
少女たちが目の前の不条理な光景に頭を抱える中、ただ一人エリカだけは冷たい表情を崩そうとしていなかった。独善的で他者に対する信頼が全体的に薄いことを除けば、彼女の兵士としての能力は訓練生の中でも最も優れている。基礎訓練においても彼女の示す才覚は卓絶していたが、それは日常の所作においても同じで、彼女が張ったシーツにはシワひとつ残っていないのが常だった。
エリカは部屋の中心にまでつかつかと歩み寄り、横倒しになったベッドを静かに見やって、続いて少女たちに視線を向け――それから、冷ややかな声を発した。
「……こうなるって分かっていたはずよ。ベッドメイクを怠ったのが誰かは知らないし、どうでもいいことだけど、私の足を引っ張るのはやめて」
『……!』
エリカの冷たい言葉に、少女たちの視線が鋭さを帯びた。少女たち自身、エリカの実力が訓練生の中では飛び抜けていることを認識していたし、それに対しては一種の敬意を持っていたのも事実である。しかし、ただそればかりではない――飛び抜けた力を示す者に対する反発も当然ながらあり、周りに対して冷たい態度を取り続けるエリカ自身の姿勢が反感を増幅せしめていたのも、また同じく事実であった。
訓練中は露骨に非協力的態度を取ることはなかったものの、その一言は少女たちの感情を激発させるに足るものだった。殺気を含んだ視線がエリカに向けられたが、彼女はどこ吹く風といった具合でそれを受け止め、緑の瞳を鋭く光らせて応じた。
「少なくとも、私は自分のベッドは完璧にしたわ。どんなつもりで私に反発しているのか知らないけれど、せめて自分のベッドメイキングくらいはまともにできるようになってから物を言って。自分の責務を果たせない人間の連帯意識なんて、弱い犬の群れと同じで迷惑なだけよ」
『っ……!』
その言葉に間違いはない。それ故、少女たちはエリカに反論することができず黙り込んだ。彼女の言う通り、最初から所作が完璧ならばこのような事態にはならなかったことだろうし、正論を前に感情的になっている訓練生たちにも問題はある。だが、アイリスは少女たちの間から一歩踏み出してエリカに視線を向け、努めて穏やかな口調で語りかけた。
「確かにエリカは優秀だよ。けれど――それなら、どうして周りの人を助けてあげないの?」
「……」
「エリカが助けてあげたら、みんなそれを例にしてちゃんとできるようになるかもしれない。そうすれば、貴女の足を引っ張るようなことは、少しずつ無くなっていくと思う。確かに、私たちは貴女には及ばないかもしれない。まだ四日しか経ってないけど、今までの訓練でそれを思い知らされた。だから、私たちは貴女をお手本にして頑張っていきたい。だから、もっと――」
みんなに歩み寄って、と言おうとしたが、その言葉は冷たい一言に断ち切られた。
「個人の技量が不十分な段階で助け合っても、それは怠け者の互助集団になるだけ。助け合う以前の問題よ。『連帯の精神』は、自分自身の未熟さをごまかすためにある言葉じゃない。一人ひとりが極限まで努力して、その上で足りない部分をチームワークで補うのよ」
「っ……!」
痛烈な一言――だが、アイリスはそれに反論する的確な言葉を自分自身の内に持ち合わせていなかった。エリカの言っていることの全てが正しいわけではないと否定したい思いは、確かに彼女の中にある。だが、エリカの言葉を合理的で正しいものと感じる思いも、アイリスの胸中には少なからずあった。武門の娘として生まれ育ち、受けてきた教育が彼女にそう感じさせている。確かに自分たちは未熟であり、エリカからしてみれば足を引っ張る存在であることは間違いない以上、そう言われても仕方のない部分は確かにある。
アイリスが痛ましげな表情で目を伏せると、エリカは緑の瞳を静かに光らせて、さらに眼前の少女たちを追い詰めた。
「チームワークって言葉は、自分の弱さを隠すための都合のいい道具じゃない。私のことを『思いやりがない』と否定して、軍人としての素質を疑っている人もいるみたいだけど、自分の弱さを隠すために、チームワークを都合よく使おうとする貴女たちに言われたくない」
「それは……」
アイリスが口ごもると、エリカは薄笑いを浮かべて彼女を見つめた。
「もう少し、話の分かるほうだと思っていたけれど……貴女もやっぱり、あの連中と同じね」
「……」
「分かったなら、早く始末をつけなさい。休憩時間は限られているのよ。夕食後には夜間訓練と地図作成術の座学があるわ――もたもたしないで。貴女たちのミスでしょう」
エリカはにべもなくそう言い放つと、つまらなそうに部屋から出ていった。少女たちは暫し唖然としてその姿を眺めていたが、真っ先にカレンが一歩踏み出して、部屋をぐるりと見回して手を一度叩いた。
「……もういい、あんな奴放っておいたほうがずっとマシだ。まずはこのクソ酷い有様をどうにかして、まともな部屋に戻すのが先だ。何とかしようぜ、チームワークってやつでさ」
その一言で、僅かに空気に明るさが戻る。少女たちは手を取り合いながら、横倒しになったベッドを元に戻そうと協力を始めた。
「……以上で本日の訓練を終了する! クソ間抜けの売春婦諸君は悪臭を放つ××××を浴室で洗浄の上、迅速に就寝せよ! 隠れて××カイてみやがれ、××××にセメント流し込んで型取りした上で、王国全土を引き回してやる! 以上、解散!」
夜の練兵場で、訓練生たちはベアトリクスの言葉に応じて敬礼した。最初の三日間で殴る蹴るの暴行を受けながら習得した基本動作は、確実に彼女たちの体に染み付いていた。もとよりある程度の覚悟と意志を持って入校してきたものばかりであるため、その分飲み込みも迅速であった。
徴兵で集められた一般の歩兵候補生ならば、最低限の動作を身に着けるのに最低一週間を要する。だが、選抜試験を経てきたアイリスたち四十八人のユニコーン騎兵候補生たちは、もとよりある程度の素質を見込まれての入校であるため、一般の徴兵と比較してもともとの能力が高く、軍という組織への順応性も相応に優れている。
解散を命じられると同時に、少女たちは駆け足で宿舎へと向かう。もとより女子学生の入校を前提とはされていないため、大浴場は一般の騎兵候補生である男子学生と共用であり、時間を最後にずらすことでそれに対応している。
男子学生が自由時間を過ごす中、ユニコーン騎兵候補生の少女たちだけは夜間訓練を行うこととなっていたが、もとよりそのような事実を知らない彼女たちにとってはそれが当たり前となっていた。夜遅くまで訓練と座学に明け暮れ、その後はただ風呂に入って眠るのみ――最初にそう説明されれば疑いもしないし、疑うだけの情報を少女たちは与えられていなかった。自由時間らしきものは消灯前の数十分――他愛もない僅かなお喋りが交わされるのは数分だけで、あとは誰もが眠りにつく。それほどの疲労が心身に伸し掛かるのが、騎兵学校の前期新兵訓練である。
だが、少女たちの瞳には疲労ではなく不気味な炎が燃えていた。その視線の先には、しゃんと背筋を伸ばして一歩先を行くエリカの姿があった。ベアトリクスが立ち去ったことを確かめた少女たちは密かに会話を交わしながら、浴場へと駆け足で向かう。その間も、視線はエリカから離さないままだった。
それを見たカレンは、隣を行くアイリスにそっとささやきかけた。
「……何か企んでやがるな」
「カレンが仕込んだんじゃないの?」
「アタシじゃないさ――一応あんなのでも同じ班の『槍仲間』なんだ。滅多なことできるかよ。だが、一つお祭りが始まるかもな」
「お祭りって……?」
不思議そうにアイリスが首を傾げると、カレンはにやりと笑って顔の間で拳を作った。
「お仕置き、ってやつさ。まあ、半分は憂さ晴らしだろうがな。簡単に言うなら、集団リンチだ」
「えっ――」
今までの生活で関わることのなかった事態に、アイリスは目を見開いた。確かにいけ好かない相手ではある――だが、集団リンチとなると穏やかではない。アイリスが慌てた表情を見せると、カレンは今までに見たことのないような真剣な顔で、アイリスを正面から見つめて言葉を続けた。
「……アタシらは手を出さない。ただ、あれだけのことを言われたんだから、そりゃやり返したくなる奴も出てくる。だから、アタシたちは知らないふりをする。何も起きていないと言って、知らぬ存ぜぬを突き通す。お嬢――先に言っとくが、変に庇うんじゃないぞ。味方をしたら、次はテメェのほうがやられる。そういうのを、アタシはイヤってくらい見てきた」
「……」
エリカに面罵された訓練生たちの苛立ちは、少なからずアイリスにも伝わっていた。何らかの形で暴発してもおかしくない――そのような雰囲気が、はっきりと感じ取れる。思い悩むアイリスの背中を、カレンはぽんと叩いた。
「……行こうぜ。他人のことで悩んだって仕方ないだろ。ああいう奴を変えるのがとんでもなく難しいか、ほとんど不可能だってことはお嬢も知ってるだろ」
「……うん」
アイリスの胸中には、釈然としないものが変わらず残っていた。だが、カレンの言うことにも一理ある――そう思った彼女は、何度か軽く首を振って足早に浴場へと向かって歩いていった。