第128話 選択と服属
「――さあ、選べ! 交渉の席に着くか、テーブルをひっくり返すかだ!」
闇を切り裂くアイリスの叫び――それに打たれたように、敵は空中で減速した。それが何を意味するのかはまだ分からない。奇妙な行動に困惑しているのか、それとも本気で捕虜を取り戻すことができると考えているのか。だが、その僅かな時間は次の言葉を放つ余裕をアイリスに与えていた。
「貴官らがいかなる存在であるのか、私は十分に把握している――旧体制派の航空隊だろう。それを理解した上で、私は貴官らに呼び掛けている。追撃を中止し、私の話を聞いてほしい」
「……貴官の所属と氏名を問う」
返答が沈黙でも鉤爪の一撃でもなかったことに対して、アイリスはまず安堵した。そして同時に、自分の推測が正しかったことを知った。政治的条件から推測すれば、他にないことは分かっていた――が、彼女の心臓は緊張に早鐘を打っていた。
彼女が愛馬に止まるように命じて捕虜を離すと、先程まで緩やかに滑空していた敵は静かに翼を畳み、音を立てることなく見事な着陸を見せた。
「詳細な所属を明かすことはできない。だが……私の名でよければ」
「アイリス、貴女――」
流石に危機感を覚えたのか、エリカは制止しようとした――が、彼女は首を横に振り、一歩前に踏み出して口を開いた。
「私の名はアイリス・フォン・ブレイザー――ヴェーザー王国陸軍所属の軍曹であり、北方防衛同盟が一角、ブレイザー男爵家の長女だ! 汝らが何者であるのか、この場において答えよ」
アイリスが手にしたナイフの切っ先は、油断なく捕虜の背中に向けられている。だが、彼女に積極的な刺突の意図はない。あくまで交渉と情報収集の場に相手を引きずり出すことに、彼女は全神経を注いでいた。
体制派から放逐され、誇り高き航空騎士団から懲罰部隊にまで貶められた者たちが相手であるならば、どうにか説き伏せることができるかもしれない。そして、この場においてそれを可能とする唯一の存在が、ブレイザー男爵家の名であるとアイリスは考えていた。
懲罰部隊の中に貴族がいるならば、彼女の家名が意味するところを知っている――それはある種の賭けであった――が、結果は即座に明らかとなった。
「――ブレイザー男爵家、と言ったか」
部隊の先頭に立っていた壮年の兵士が一歩、前に進み出る。蒼い軍服は擦り切れ、階級章も剥ぎ取られている。だが、アイリスにはその兵士がかつて士官であり、そして貴族であることが明らかに見て取れた。所作の一つを取っても、平民と貴族には明白な違いがある。
「クローデル伯爵家を知っているか?」
相手の声には僅かな警戒心――無論、アイリスの背後では全員が小銃を構えているから当然のことである。グリフォンを駆けさせれば突破はできるかもしれないが、必殺の一射は間違いなく数人を射抜き、立て続けの刺突が心臓を外すこともない。そうと知っているからこそ、アイリスは自分の交渉を盤石のものとする自信を持っていた。
「知っている。アルタヴァ王国第二軍、東部総軍の副司令――四代前のアルタヴァ王家から、その地位を授かり、革命で断絶するまで総軍航空隊の実質的指揮官であったと。貴方は――」
「……」
敵兵はしばらくの間、アイリスの答えを確かめるかのように沈黙を守っていた――が、やがて何かに納得したように、静かにグリフォンの背から降りた。アイリスはそれを確かめると、軽く右手を上げて仲間に武器を下ろすように伝え、手にしていたナイフを地面に落とした。
「信用してもらえるかしら」
「君に、そのナイフを拾うつもりがないならば。だが……今となっては敵同士だ。それは変わらない。国家がそう決めて、私と君はその状況に取り込まれている」
鋭い視線を向けられても、アイリスは全く動じなかった。彼女は一瞬だけ捕虜に視線を向けると、その背中を軽く押した。
「行っていいわ――貴方の役目は終わった。これでいいかしら? クローデル家の――そう、総軍司令は次男の役目だったから、ピエール・ド・クローデル中佐?」
恐る恐るといった調子で、捕虜になっていた青年兵士が前に進み出る。その様子を、彼女と向き合っていた壮年の貴族――ピエールは、少しばかり驚いたように見つめていたが、やがてその視線をアイリスへと移した。
「ブレイザー家の長女――間違いないようだ。アイリス・フォン・ブレイザー……私のことも知っていると見た。だが、このような真似をして何になる? 何を求めているのか、聞かせてはもらえないか。確かに、ブレイザー男爵家の武名は知っているし、敬意を抱いてもいた。だが……我々は政治的事情により、敵対せざるを得ない状況にあるのだぞ」
「古来よりの習わしに従っただけです。その気になれば、あなた方は我々を鉤爪で八つ裂きにできる――しかし、そうしていない。その状況だけで、古き良き騎士道の交わりを信じるに十分ではありませんか?」
その一言に、壮年の貴族――クローデル中佐は、アイリスを値踏みするように見つめた。その眼差しの半分は、昔ながらの貴族のあり方を貫こうとするアイリスへの敬意であったが、もう半分は彼女の不可解な行動、軍事的観点からすればあまりにも非常識な、「敵の人道と信義に期待する」ことへの疑いであった。
「君の行いに一切の嘘偽りがないとしても、だ――我々がそれを受け入れる保証がどこにある。一方的な善意が踏みにじられることを、君は歴史の中で知っているはずだ。それに――我々は仲間を殺されている。同じ部隊の兵員を失って、それでいて心穏やかにいられるはずがないとは考えなかったのかね」
「戦友だと思っていた、と?」
アイリスの視線が一瞬だけ、撃ち落とされた兵員のほうを向く。いずれも見事な一撃――苦痛に身悶える間も与えない必殺の一射でもって撃墜された兵士らの胸には、いずれも銀に輝く徽章が縫い付けられている。階級章も与えられていない者たちとは正反対に、徽章類は嫌味なほどに丁寧に磨き込まれている。
「功を焦った新任少尉……政治将校かしら。政治的忠誠心だけで航空隊に配属されたと見たわ。党本部から配置された人員で、戦争の主役は自分たちだと思いこんでいる。その結果が――」
「無謀な突撃だった、と?」
クローデル中佐の表情は、未だ険しい。だが、彼はアイリスの言葉が事実であることを認めていた。若さと政治的忠誠心のみで、首都の政治総本部から送られてきた新米少尉たち――技量は旧王党派の懲罰部隊にも劣るが、異様なまでの政治的熱心さを空転させ、最後は腕利きの狙撃兵の手によって仕留められた。
戦友だと思ったことなど一度もなく、事ある度に政治的特権を振りかざすその存在を、彼らは少なからず疎んじていた。懲罰部隊としてのみ存在を許され、擦り切れて消耗していくだけのことならばまだ耐えられる。だが、政治の力だけで上に立ち、権威を振りかざして指揮官として振る舞うその傲慢だけは耐え難かった。
「……貴方の思っていることは、概ね想像できるわ。無能な政治将校を処断してくれて、胸がすくような思いだ、と」
「果たしてそうかな――構えろ、《ガルダ》」
中佐は軽く手綱を引く。その瞬間、彼の乗っていたグリフォンは立ち上がると、鈍色の爪を振りかざして雄叫びを上げた。刹那のうちにオリヴィアがライフルを構え、中佐の左胸に狙いを定める――が、横で見ていたエリカはそれを押し留め、アイリスの一挙手一投足に全神経を注いだ。
「……」
アイリスは動かない。ただ、自らの眼前に振りかざされた鉤爪を見つめている。それは彼女の愛馬である《ブリッツ》も同じである。数秒間の膠着の後、クローデル中佐は自らのグリフォンに鉤爪を下ろさせ、アイリスをしばし見つめてから口を開いた。
「……何を望む、ブレイザーの娘よ」
視線が交錯する数秒間――張り詰めた糸のようなその時間を超えて、アイリスは答えを返した。
「要求は、貴方たちの降伏と服属。そしてこちらが約束するのは、作戦終了後のヴェーザー王国への亡命手段の確保よ。捕虜であることを厭わないのなら、私たちに味方しなさい」