第125話 致死の一閃
蠍の尾を持つ異形の獅子と、銀の角を輝かせる一角獣――その両者は、背に主を乗せて瞳に炎を宿した。自らの主が敵同士であるならば、また我らも敵同士であると、そう理解するだけの力を彼らは備えている。
愛馬の背で、アイリスは静かに槍を水平に構えて相手を見据えた。漆黒の兜の下、敵兵の表情を窺い知ることはできない。だが、その手に握った凶刃は、殺意の照明として十分である。どれほどの刃厚があるのかも知れない、剣というよりも鉈のそれに近い無骨さと強靭さを備えた武器――その威力は、彼女自身の手が何よりよく覚えていた。
(迂闊に打ち合えば、手から槍を叩き落とされる……この敵は、間違いなく私より上手い)
アイリス自身、武門の生まれとして剣技には心血を注いできた。白兵戦においては同期の誰にも劣らない――唯一無二の例外として、徒手格闘戦技に無類の強さを見せるカレンを除いては――十全の自身を持ってきた。その彼女をして、眼前の敵は尋常でないと思わせるほどの技量を有していた。
圧倒的なリーチを誇る騎兵槍に対して、重量こそあれども所詮は片手剣に過ぎない武器で立ち向かうのは自殺行為に等しい。だが、彼女が相対する騎兵は、リーチという一対一の戦闘における基本的優位性を覆すだけの技量を有し、同時に自らが騎乗する危険極まりない幻獣――マンティコアの持つ最大の武器を活かして、彼女を窮地に追い込んでのけた。
伸び縮みする強靭な尻尾――その先に備えた強靭な毒針の威力は、彼女も十分に知っている。鍛えられた鋼鉄以上の威力でもって板金重甲冑を貫通し、貫くと同時に滴る毒は、触れた者を数秒のうちに死に至らしめる。無論、武器はそればかりではない。獅子を上回る強靭な爪は一撃で人体を轢断する威力を誇り、牙は頭蓋を砂糖菓子同然に噛み砕く。
(……組み討ちを挑むのは不利、ならば――)
甲冑組手の技は、カレンには劣るにしても身体に刻み込まれている。だが、彼女は足を止めての切り合いは不利だと即断した。剣技で自分に遥かに勝る相手と戦うことになれば、数合こそ持ちこたえることができても、いずれは必ず首を刎ねられる。
(――こちらの勝てるやり方で、勝たせてもらう!)
槍の石突をランスレストに預け、彼女は敵を睨んで前のめりに構えた。彼我の距離は十五メートル余り、通常の軍馬ならトップスピードに乗り切るにはあまりにも短いが、彼女が騎乗する《ブリッツ》は、稀代の脚力でもって主の望みに答えた。常人ならば振り落とされかねない猛烈な加速――騎手がアイリスでなければ間違いなく振り落とされていたであろう勢いで突進し、主が手にした槍に強烈な突破力を与えた。
「――らぁッ!!」
裂帛の気合とともに突き出された穂先は、銀の流星となって敵の胸甲の中心に向かって放たれる。猛烈な速度の突進、そしてアイリスの正確無比な狙いのもとに放たれた刺突の威力はライフル弾すら上回り、強靭に鍛え上げられた鋼板製の甲冑を貫通するだけの威力を内包している。常人であれば視認することすら叶わず、迎撃などおよそ不可能――一撃を放ったアイリス自身もそう思っていた。
――だが、相手の動きは彼女の予想の更に上を行った。
鋭く研ぎ澄まされた穂先目掛けて強靭な刃が打ち下ろされ、刃が擦れ合う音とともに火花が散る。その耳障りな音が過ぎ去った直後、アイリスの瞳は驚愕に見開かれた。
「なっ――」
それは、神速の一撃を受け止める技量を目の当たりにしたが故ばかりではない。蒼銀の輝きを放つ槍の穂先が、無残に斬り折られていたがためである。陸軍騎兵の武具――刀剣の類に関しては、いずれも軍工廠において熟練の刀工によって鍛造され、いついかなるときもその強靭さでもって兵士を守護する。
特に騎兵が用いるサーベルや槍については、絶対の強度が確約される――アイリスもそのように信じていた。だが、眼前の敵はそのさらに上を行った。猛烈な一撃でもって穂先を斬り折ると同時に、背後に走り抜けようとしたアイリスの背中目掛けて毒針の刺突でもってすれ違いざまの一撃を加えた。
「――跳んで!」
アイリスが発した命令は、もはや本能的なものであった。敵はおそらくそうするだろうという予想――彼女にはそれが予想なのか、第六感とでも呼ぶべきものであるのかもはや判断がついていない。ただ、致死の一撃が迫っていることを戦士の直感で認識し、生存のための最適な行動で応じるのみであった。
刹那に遠ざかる大地――一瞬前まで彼女が立っていた場所を、矢のように唸りを上げて毒針が通過していく。避けなければ串刺しだった、と思う間もなく、彼女は地上から飛び上がってくる敵の姿と、振り上げられた鈍色の鉤爪、短剣よりも鋭い牙の数々を視認していた。
「こんなところで――」
ほぼ垂直に飛び上がってくる敵と、重力に引かれて落下する自分――その軌道はぴったりと重なる。彼女は折られた槍を放り捨てると、敏捷な身のこなしで鞍の横に提げていたホルダーから、着剣したままのカービン銃を引き抜き、銃剣の鞘を払ってその切っ先を敵の喉元へと向けた。
「――殺られてたまるか、クソ野郎がぁッ!!」
荒々しい陸兵の流儀に染まった雄叫び――貴族の淑女とは思えないほどの苛烈なウォークライを響かせて、アイリスは空中で敵の喉笛に狙いを定めた。串刺しにして、そのまま地面に叩きつける――激しい戦いの予感に血が沸騰したような熱さを帯び、思考が真っ赤に灼熱する高揚を全身に感じながら、彼女が口元に獰猛な笑みを浮かべたそのとき、響いた一発の銃声が戦闘の狂乱を突き抜けていった。
鈍い音と共に、敵の被っていた兜に火花が散る。もとより分厚い騎士兜であり、斜めに命中して着弾時の威力が大きく削がれたためか、頭蓋を弾き飛ばすほどの威力は発揮されない。だが、凄まじい衝撃を受けた敵兵はその場でのけぞり、同時に騎士兜が脱げ落ちた。
「……!」
アイリスが敵の姿を見たのは、僅か一瞬だった。だが、その一瞬でさえ、彼女を驚愕の扶持へ落とすには十分であった。強烈な威力で持って打ち下ろされた剣戟と、騎乗する凶暴な幻獣――そして、身にまとった黒染めの鎧といった数々の要素が、アイリスに敵の正体を誤認させていた。
屈強な傭兵か、荒くれ者の前線騎兵か。彼女が思い描いていたその姿とは裏腹に、空中に流れたのはウェーブした長いブロンドの髪であり、禍々しい光を帯びているかのように感じていた瞳は、若草のような翠緑に満ちていた。自らと同じ十代半ばの少女――それを知った彼女は、手にした銃剣を喉笛に突き刺すことも忘れていた。
(どうして、あんな――)
いくつもの疑問が浮かび上がる。だが、彼女がその答えを出すよりも早く、基地の一角で鮮やかなピンクの煙が立ち上った。第二班による作戦成功の合図――それを視認したアイリスが我に返ったそのとき、彼女の耳朶を鋭い声が打った。
「アイリス、早く逃げなさい! 何と戦っているのよ、貴女は!」
はっとして振り向けば、すぐ背後に銃を手にしたエリカの姿があった。その銃口からは、未だに蒼い煙が立ち上っている。それを見たアイリスは、空中で敵を撃ったのがエリカであることを認識した。この場において、そのような芸当ができるのは彼女をおいて他にない。
さらにその後ろ――どこで奪い取ったのか、水平二連式の短銃身散弾銃を四丁も携えたカレンが、つい先程まで交戦していたマンティコアの騎兵に牽制射撃を加えながら、援護のために猛然と駆けてくる。
エリカは一瞬だけマンティコアの姿を振り返り、続いて嫌な記憶を振り払うかのように一瞬だけ目を閉じると、手にしていた槍の切っ先で基地の外を差して叫んだ。
「どうしてああなったのかは後で聞く――今は逃げるわよ!」