第122話 憂鬱なる司令部
軍という組織の権力構造は、概ね階級に基づいた直線的かつ単純なものである。利害関係者との政治的調整が不可欠な軍政はともかくとして、命令と判断ということにおいては、現場に権限が委任されていない限りは幕僚監部の指示が全てに優越する。
最前線から飛び込んできた数々の情報を精査し、現状に最も適した策を練って侵攻作戦を指揮する方面司令部へ、そして前線基地へと命令という形にして送り返す――それが、王都に鎮座する幕僚部の存在意義である。
最前線の一兵卒に、どのような意思決定プロセスを経ているのかを知るすべはない。ただ命令に従い、それが正しいものと信じて戦い抜くのみである。だが――その間を繋ぐ者は、また別の苦しみに曝される。
叡智を集めた作戦判断と、現場で血を流して戦った者が持ち帰った報告、そのどちらもそれぞれに尊いと理解できるが故の苦しみは、第十三幻獣騎兵独立部隊――ユニコーン隊の名で広く知られるようになった小部隊の指揮官であるベアトリクスとリーアにも、逃れ得ぬものとして伸し掛かっていた。
「……退屈な定時報告の繰り返しには終わらんと思っていたが、こうまで大事になるか」
ベアトリクスは手にしていた報告書を机に放り投げ、小さく息を吐いて天井を見仰いだ。敵の民兵部隊を排除した第七分隊が現地で得た情報――民兵隊の所持していた乱数表をあっさり解読し、敵の補給物資の内訳を特定、そこから戦術行動を予測して前線あるいは王都への空襲作戦を警告――本来ならば情報部員が分析し、なおかつ高度な作戦シンクタンクへお伺いを立てなければならないところを、一介の新兵が見事な頭脳でもって数時間の内に読み解いたという事実は、全くもって驚嘆すべきことであると同時に、それらに命令を下す立場にある者として極めて悩ましかった。
短期間とはいえ十分以上の訓練を施して精強に鍛え上げた部隊の中でも、第七分隊の能力は極めて優れている。それはもとより何らかの「才能」に恵まれた者たち――指揮官として天賦の才に恵まれた者、射撃戦や白兵戦における優れた戦技もつ兵士、あるいは野戦における築城や医療といった特殊技術の持ち主を集め、自己完結性の極めて高い部隊を組み上げることを目的としていたが故である。
「……天才の集団を集めたのではなくて? 多少癖があってもいいから、最強の分隊を一つ組み上げたいと言ったのは――」
「――ああそうだ、私だとも。クソ、自分の迂闊さが嫌になる。ユイ・セトメ――あいつを部隊に組み込んだのも私だ。だがな、考えてみろ……私が理解できる限界をあいつは遥かに超えていたんだ。本物の天才の考えていることなど、本人以外誰に分かるんだ」
リーアの鋭い一言にベアトリクスは呻き、埃の積もった執務室――と呼ぶのもおこがましいほどの狭い空間を見回した。特殊部隊の運用責任者とはいえ、たかが准尉に与えられる空間などごく僅かなものである。それでも曹よりは恵まれた待遇である以上、文句をつけるわけにもいかず、彼女らは現状の待遇に甘んじていた。
「東の果てからはるばるやって来た、軍医局の重鎮の娘……か。兵士としては並以下だが、第七に置いている限りは間違いなく大当たりの部類だ。殺しには向いていないが、それ以外なら肝も据わっているし頭が切れる。情報担当士官三人分の大働きをした。前線に放り込まれて一週間も経たないうちにこれだ。ハズレなどと言えるものか」
「確かにそうですわね――なら、何故全部申し上げませんでしたの? 航空作戦が展開されるかもしれない、と教えて差し上げればよかったのに」
首を傾げながら、リーアはベアトリクスに問を投げた。エリカから連絡があった時点でベアトリクスは朝の内に簡単な報告をまとめ上げ、紙一枚とはいえども書類として司令部へと提出している。その作成にはリーアも加わった――が、エリカから連絡された内容のうち、敵の糧食の輸送から大規模な作戦展開が予想されることのみを報告し、彼女が提起した最悪の予想――大規模な航空作戦による前線および王都の空襲については一切報告に含めていない。
無論、ベアトリクスが責務を怠ったわけではない。ただ、現状の軍の構造からしてそのような報告に意味はなく、むしろ第七分隊の作戦行動に影響を及ぼす恐れがあると考えたが故の判断であった。彼女はぐいと腕を伸ばすと、薬指で軽く机を叩いてから答えを返した。
「作戦判断について、准尉がとやかく言うことでもないさ。それに、前線の奴らが気付いて幕僚監部のお偉方が気づかないわけでもなかろうよ。口出しはしなくても、分かるはずだ。それに、こちらからわざわざ教えてやると厄介なことになるかもしれん。王都への航空攻撃が明らかになれば、防衛用の戦力……迎撃に出る空軍だけじゃない、陸軍部隊からも王都防衛のために戦力が前線から引き抜かれるはずだ。もしそうなったときに、我々がお偉方から注目されるのは避けておきたいんだ」
「……どういうことですの?」
「つまりだ、今の私の報告なら、ただ敵の糧食輸送に変化が生じていて、何らかの兵力増員が行われるかもしれない、という程度のことに留まっている。こんな報告はごまんとあるから、これでわざわざこちらに注目するようなことはない。報告書が幕僚監部の手元に届く頃には、私の名前など書面から消えている……が、これが『王都空襲に対する警告』ならどうだ?」
「……部隊指揮官からの緊急警告、という形になりますわね」
「そう、それだ。もしそうなったら、我々の部隊が引き戻されるかもしれん。警告を発したのなら足も動かせ――ああ、きっとなるだろうとも。骨の髄までゲリラ戦に染まった連中のことだ、爆撃で注意を逸して空挺降下くらいはするだろうし、幕僚監部もその程度のことは思いつく。そうなったら、我々にお鉢が回る可能性は十分にある」
「……」
「流石に第七の連中まで連れてこいとは言われないはずだが、今前線を支えている奴らはここを離れるしかなくなる。お偉方のことだから、『見栄えのいい』警護を欲しがるかもしれん。特に貴族議員の連中は」
「嫌になりますわね。私も貴族ですし、第七にも一人いますけれど……それで、あえて空襲の危険については送らなかった、と?」
「そうだ。これで爆撃されたら……まあ、空軍省の無能を呪うしかないだろうな。十五の小娘が気付いたんだ、五十年も軍隊の飯を食った連中に分からないはずもない」
そう言って、ベアトリクスは机に乱雑に積み上げた報告書の束に視線をやった。戦況は国境周辺での一進一退の攻防戦の様相を呈しており、敵味方の騎兵、あるいは歩兵部隊が展開して戦線の側面に回り込もうと試みている。
そうした部隊を迎撃、掃討――あるいは優れた機動力と打撃力を活かした威力偵察が、第十三幻獣騎兵独立部隊に課せられた任務であった。敵の前衛に対する突撃は可能な限り回避し、前進を試みる敵の別働隊と交戦してその打撃力を解明、味方部隊に通告することで敵の側面迂回機動を阻止する――騎兵戦力の不十分な国軍にとって、貴重な偵察情報を迅速にもたらす少女たちの存在は、今や欠かせないものとなりつつあった。
「幕僚監部が我々を引き戻すつもりなら、従うしかないかもしれん。だが、自分から損な役回りをする必要もない、ということだ。空襲の危険性に気付いたなら航空隊を出すだろうし、護衛が必要なら後方で暇そうにしている憲兵共を用意すればいい。心配することは――」
ない、と言い終わるその瞬間、ドアをノックする音が執務室に響く。
「……帰ってきたな」
「ええ」
時刻は午後七時。偵察を終了した第三分隊の帰投予定時刻である。ベアトリクスとリーアは顔を見合わせて表情を引き締め、軍服の襟元を正した。